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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】ヴィラ・ローレルへようこそ(9)

第9話 はじまりは『今』

「うわ~、結構にぎわってるんだね!」
 日曜日。
 今日は榊と観光エリアにある商店街へ来ている。
「ちょうどシーズンでもありますので。それで、なにをお求めになるんでしたか?」
「えーとね、このビルの中にあるコスメショップ見てみたいのと、あと桂くんから茶葉頼まれた」
 観光マップを広げて見せる。
 買いたいものがあって、街まで榊に車を出してもらったんだけど。
「お嬢さまに買い物を頼むとは、家人としてあるまじき所業ですね。後で注意しておきます」
「いいじゃん、ついでなんだし」
(ってか、ケニンってなに?)
「では、まずはその化粧品店へまいりましょう。同じビルの中に緑茶、紅茶等の茶葉を扱う店も入っていたはずです」
「あ、待って待って、あのお土産屋さん見たい! なんか変なマスコット売ってる!」
「……変だと思っているマスコットをなぜ見たいのか理解しかねますが……」
「あっ! あの行列なに? ソフトクリームだって! 美味しいのかな? 並んでみようよ!」
「……時間をずらしてすいている時に購入するという発想になぜ至らないのか、私には謎です」
 ってな感じで、さっきからいちいちモンクを垂れている。でもあちこちに吸い込まれちゃうあたしにつき合ってくれてて、さっさと用事を済ませろ的な圧はない。
(せっかくだから榊にも楽しんでもらいたいんだけどな)
 まあ、それ以上にあたしが楽しみたいんだけど!
 その後もいろいろ寄り道して、目当てのビルへ着く前に、榊おススメのオシャレなカフェでお昼ごはんを食べた。
 ちょっとびっくりしたのは、途中で立ち寄ったお店のひとほとんどと榊が顔見知りだったこと。どうやら出店の時になにかしてあげたとか、その後もちょいちょい相談に乗ったりしてるみたいで、みんな榊に感謝している。
 ゆきちゃんが榊のこと「ビジネスマンとして尊敬してる」って言ってたけど、こういうところなのかもしれない。
「これでご用はお済みですか?」
 買ったばかりのコスメグッズと紅茶缶が入った袋をあたしの手から取り上げて、榊が訊いてくる。
「うん、大丈夫。あ……」
 通りかかった靴屋のショーウィンドウに、ものすごくヒールの高いサンダルを発見して、思わず足を止める。
(うわー、かわいい~! ……ケド、ほぼ凶器だよね、あのヒール!)
「入ってみますか?」
「えっ、いいの!?」
「今さらです。遠慮するならもっと早くにしていただきたい」
 相変わらずのイヤミを零しながら、榊が靴屋のドアを開ける。
 中にはかわいい靴がたくさん! スポーティ、カジュアル、フェミニン、いろんなタイプがあって目移りしちゃう。
 その中の、10センチは厚みのあるウェッジソールに目が留まった。メッチャかわいい!
「そのサンダルが気に入ったんですか?」
 後ろから榊が覗き込んできた。
「どーせぽっくりさん?みたいとか言うんでしょ」
「ぽっくりさん?」
「なんだかよく判んないけど、こういう厚底靴を見たおじさんおばさん達はみんな、ぽっくりさん?みたいって言うからさ」
「……ああ、かむろが履くぽっくり下駄のことですか?」
「カムロ?」
「花魁などの世話をする少女を、そう呼ぶんです」
「オイラン……って、なんだっけ?」
「女郎のことです」
「あ、昔の売春婦」
「現代語訳すると情緒もなにもありませんね」
 軽く顔をしかめて、榊がサンダルを指差す。
「足のサイズはこれで合うのですか?」
「うん、たぶん大丈夫だと思うけど……」
「履いてみた方がいいでしょう」
 そう言ってあたしの足もとにサンダルを揃えて置くと、そのままひざまずいた。
「私の肩に摑まりなさい。転ぶといけない」
「あ、うん。ありがと」
 榊の肩を支えにして底の厚いサンダルへ足を通し、2、3歩店内を歩いてみる。
「うん、ちょうどいいみたい。わー、でもなんか背が高くなった分、景色が違~う」
「そうですか」
 後ろをついてきた榊が笑いまじりに答える。
「あ、いつもよりあんたの顔が近くにあるね」
 榊は一瞬きょとんと目を見開いた後……ほっぺたを赤くして顔を背けた。
 えっ、なに? 照れてるの!?
「きみ、これを貰おう」
 店員を呼んだ榊が、懐からカードを取り出す。
「え? なになに? 買ってくれるの? なんで?」
「お似合いでしたので」
 あたしに背を向けたままそう言うと、榊は支払いのためにレジへと向かう。
(それって、それって……これ履いたあたしが気に入ったってことだよね? ……どうしよう、メッチャ嬉しい……!!!!)
 今度はあたしのほっぺたが赤くなる番だった。
「どうしました? ほかにも気になる商品がありましたか?」
 支払いを済ませた榊が戻ってくる。売り場でなんだかモジモジしていたあたしは、急いで榊へ駆け寄った。
「ううん! 大丈夫!」
 榊の腕を両手で抱きしめる。
「えへへ、ありがと、榊」
「コアラみたいにしがみつかないでください。歩きづらい」
 でも振り払おうとはしてなくて。
「え~? いいじゃん」
 あたし達はそのまま駐車場まで少し歩いた。

「おもしろかったね!」
 家へ着いて、あたしはシートベルトをはずす。
「予想以上に時間を喰ってしまいました」
 先に降りた榊が、車のドアを開けてくれた。
「たまにはいいじゃん。あんたも少しはストレス軽くなったでしょ?」
「財布も軽くなりましたがね」
「あっ、そーゆうこと言う? あたしの嬉しそうな顔が見れたんだから、それでよしとしなさいよ」
 軽く叩くまねをして手を振り上げたら、それをかわすみたいに榊は玄関へ向かって歩きだした。
「ええ、そう思っていますよ」
 背中を向けた榊の表情は判らない。
「……そ、それなら、よし」
 でも同時に榊にはあたしの顔も見えないから、あたしは思う存分真っ赤にした頬を両手で押さえた。
「ただいま戻りました」
「榊さん! お帰りなさいませ」
 家の中へ入るなり、階段の下で群れていたメイドさんのひとりが玄関口まで走り出てくる。
「慌ててどうされたんです? なにかありましたか?」
「そ、それが……アスランさまのご友人とおっしゃる方々が突然押しかけていらして、お酒を出せとおっしゃられて……」
「いつもの方々ですね。それで?」
 階段下でメイドさんに囲まれていた桂くんが立ち上がる。
「すみません、榊さん。執事の許可なくカーヴのお酒を提供することはできないと断ったんですが……」
「桂くん!? 顔、どうしたの!?」
 桂くんの顎から頬のあたりが腫れあがっていた。
「桂さんがお断りしたら、いきなり殴りかかってきたんです!」
「………」
 半泣き状態のメイドさんを見ながら、榊が眉間に深いしわを刻む。
「それで、シャトー・マルゴーとドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ・ラ・ターシュをお出ししてしまいました。あと山崎のシェリーウッドと夢雀の2021年も……」
「銘柄は後でいい。今どこに?」
「3階のサンルームに。……アーシュも」
「私が行こう」
 短く言って、榊が階段をのぼっていく。
「桂くん、大丈夫?」
 あたしは桂くんの傍まで行くと、腫れて可哀想なことになっている顔を見上げる。
「うん、いきなりだったから避けきれなくて。でも歯も大丈夫そうだし、ほかもけがしてないから。それより……」
 階段を見上げる。
「相当怒ってた……よね? 榊さん」
「うん、今までにないほど」
 落ち着いてはいたけど、なんかこう、怒りのオーラみたいなものが渦巻いていた。
「ちょっと心配だから、あたしも見てくるよ」
「気をつけて」
 桂くんに見送られ、あたしはサンルームのある3階へと急いだ。
 フロアへ上がりきる前に、奥のほうから大音量の音楽と、どこか甘ったるい香りの煙が洩れてきていることに気づく。
(これって……)
 サンルームのドアを開けて、榊が中へ入っていくのが見える。
 むあっと甘い煙が流れ出す。
(ドラッグだ)
 やかましく鳴り響いていた音楽を榊が止めた。
「んー? なんだよ、誰だよ?」
 ワインのボトル片手に床でごろごろしていた男が顔を上げる。
 その襟首を掴み、榊が壁際へ男を投げ飛ばした。
 ガシャ……ッ!!
 床へ直置きされていたグラスが、男の下敷きになって割れる。
「てめ……っ、執事!」
 もうひとりの男がナイフを取り出す。
「榊、どいて……!」
 とっさに近くにあった折りたたみ椅子を手に取ると、あたしは男へ向けて投げつけた。
 と、ほぼ同時に、
「やめといたほうがいいよ? そのひと一条多紀の元秘書だから。嫌われると、きみらのおとーさん仕事できなくなっちゃうよ?」
 のんびりした口調で、アーシュが(自称)友達を止める。
「あたしも昨日パパに言われた。ここの執事とは絶対にもめるなって」
 アーシュの隣にいた女の子が、舌たらずに同調する。
 でももう、ナイフ男は顔面に椅子が直撃して、のびちゃってるけどね。
「あなたがたを当館へ招いた覚えはない。ご退出願おう」
 いつもよりも幾分低い声で脅すと、榊が(自称)アーシュの友達を睨みつける。
「帰る、もう帰るから!」
「おい、行くぞ」
 女の子に続いて、最初に榊にぶん投げられた男がナイフ男を担ぐようにしてサンルームを出ていった。
 でも榊が彼らの後ろ姿を見送ることはなくて。
「みーあ、乱暴~」
 いつもの調子でアーシュが話しかけてくる。でも彼の周りにはお酒のボトルやスナック菓子の袋が散乱し、そんなものに紛れてアルミホイルとライターが置き去りにされていた。
(さすがにこれは……)
 アーシュを庇うわけにはいかなくて、隣で黙って立ち尽くしている榊をちらりと見る。
「………」
 握りしめた拳が、小刻みに震えていた。
「……あなたにはうんざりだ……。いかな多紀さんの頼みとは言え、もう私の手には負えない」
「……出ていけってこと?」
「どうすべきかはご自身でお考えになったらいかがですか?」
 アーシュの顔が一瞬歪む。でもすぐに、それは笑いに変化した。
「あーあ、殴るくらいするかなぁと思ったんだけど。鷹弥ってほんと、つまんないよね」
 寝転んでいたクッションから身を起こして榊の前まで来ると、バカにするように下から顔を覗き込む。
「ねぇ、みんながきみのこと裏でなんて呼んでたか知ってる? 『一条多紀の犬』、だよ」
「――っ!」
 パチン!
 アーシュの頬をひっぱたいたのは、結局あたしだった。
 びっくりしたのか、アーシュは叩かれた頬を押さえることもせずにあたしを見上げる。
 そして。
「……バイバイ」
 部屋から走り去った。
「ちょ、アーシュ!」
 追い駆けようとしたんだけど、でも榊のことも心配で。
 振り返ったら、榊は黙々と部屋を片付け始めていた。
「ちょっと! そんなことしてる場合じゃないでしょ? アーシュ追い駆けなきゃ!」
「なんのために?」
「なんのって……だって、もしホントにこのまま帰ってこなかったら……」
「自分の意思で出ていったんです。もう私が世話を焼く必要はない」
 榊があたしの投げた折りたたみ椅子を拾い上げる。
「ねえ、さか……」
「私は彼が嫌いだった……!」
 突然大きな声を出されて、あたしはビクッと肩をすくめる。思えばイヤミを言われることはあっても、榊に怒鳴られたことは今までなかった。
「これまで面倒を見てきたのは、それが多紀さんの遺言だったからです。今際の際の多紀さんが私に言い遺したことはふたつ。『アーシュのこと、よろしくね』と、もうひとつは『ゆきを頼むわね』だ! 私はいったいなんだ? 都合のいい便利屋か?」
 手にした折りたたみ椅子を杖代わりに、榊が項垂れる。
「多紀さんには多大な恩がある。私の境遇に同情して、生活の面倒を見てくれた。大学まで行かせてもらった。だから彼女の望むことならでき得る限り叶えたいと、今まで努力してきた。それなのに、最後の最期に彼女が気にかけたのは、得体の知れないガキと男娼上がりの行く末だけか!? 私についてはなにひとつ言わなかった! なにも遺してくれなかった……! ……私はいったい、あのひとのなんだったのか……?」
 片手で顔を覆う。
 榊がそんな想いを抱えていたなんて、あたしはちっとも知らなくて。
(なにか言わなきゃ……)
 間違っていてもいいから、榊の話ちゃんと聞いてるって。あんたのこと考えてるって、あたしはここで示さなきゃダメなんだ。
(バカなあたしでも言えること……バカなあたしだから言えること……?)
「ねえ、榊」
 榊がのろりと頭を起こす。あたしは急いで脳みそをフル回転させる。
「子供にとっていちばんツライのって、うるさく叱られることよりも『無関心』なんだと思うんだよね。だから、あんたは仕事でやってたのかもしれないけど、アーシュはたぶん……あんたのこと好きだよ」
「……ばかばかしい」
「うん、知ってる。あたしバカなの。でもね……」
 あたしは榊に向かってビシッと指を突きつける。
「子供を守るのはオトナの役目!」
 それだけ言って、くるりと背を向ける。
「アーシュ連れ戻してくる。じゃないとあんた、ゼッタイ後悔するから!」
 あたしは階段を駆け下りた。
 玄関を出て、どっちへ行くか少し迷う。歩いて行ける場所は限られている。
 敷地からほぼ続いている森の中には、アーシュお気に入りの湖がある。でも海岸へ行くなら、従業員の通用門から出たほうが速い。
 街までは徒歩でなんて行けないと判っているから、アーシュもそれはしないハズ。
(あ、でも、さっきのチンピラどもと合流すれば……)
 あいつらの車で一緒に街へ向かったのなら、もうあたしの脚では追いつけない。
(どこを捜す?)
 左右を見比べて首をひねった時。
「あ、」

 遠くの水平線へ太陽が沈んでいく。
 夕焼けが、崖の先端にたたずむアーシュの銀髪をオレンジ色に染めている。
「よかった、見つけた……!」
 坂をのぼりきって声をかけると、びっくりしたみたいにアーシュが振り返った。
 捨てられた仔犬みたいな顔してる。
「そんな顔するなら、なんで榊のことあんなに怒らせるのよ?」
 アーシュの隣まで行って、あたしはその足元にしゃがみ込む。並んで夕陽を見るって、なんだか青春ドラマみたいだね。
「別にいい子にしてたって、榊はちゃんとあんたのこと見ててくれるよ?」
「……は? なに言ってんの?」
「それにね、『この子死んでもいいや』って思ってるひとは、あーゆー怒り方しない。イタズラしなくても、ぶったり蹴ったりしてくるしね」
「………」
「あんなふうに試さなくたって、榊はちゃんと、あんたのことたいせつに思ってるよ?」
 下からアーシュを見上げる。
 薄日に照らされたあどけない顔が、大きく歪んだ。
「でも、ひとは変わるでしょ? 昨日までたいせつだったものが、急に邪魔になったりとか……」
「それ、誰のこと?」
「……ママは、新しいカレシとうまくやるために、ボクをこの島へ置き去りにした。ボクがママの『特別』じゃなくなったから……」
「そ、か」
「………」
「………」
「反応、薄っ」
「いや、ちょっと待って! 今考えてるんだってば!」
 さっきから酷使しすぎで、あたしの脳みそはもう限界に近い。この際キレイにまとめてから話すのは諦めよう。……いつものことだけど。
「んーとさ、あたしママには1回殺されかけてるし、叔母さんにはメッチャいびられたし、義叔父さんには……ちょっとエッチなことされたりとか、ぶっちゃけ周りのオトナ、そんなんばっかだったんだけど」
 それで当時ひとり暮らししてたゆきちゃんのマンションへ逃げ込んで。
「その後もいろんなひとと悪いことしたりさせられたりしたけど、ゆきちゃんだけはいつもあたしの味方でいてくれた。そんで今は、ヴィラのみんなが大事にしてくれて……でもあたし、みんなにあたしのこと、もっと好きになってもらいたいんだよね。あたしもみんなのこともっともっと好きになって、一緒に楽しいことしたり、困ってたら助けてあげたいなーって思ってる。だからね、そのこと考えるのに忙しくて、もうママとか叔母さんのことなんて考えてる暇がないの」
 もう一度アーシュを見上げたけど、さっきよりも薄くなった陽光では、表情まではよく判らない。
「時間の使い方としては、こっちのほうがよくない?」
「………」
 街灯のないこの辺は、もうじき暗闇に包まれる。
(懐中電灯……確かに必要かも)
 そう思い始めた時、
「今さら、遅いよ……」
 ぽつり、とアーシュが呟いた。
「鷹弥はきっと、ボクのこともう……」
 アーシュが手の甲で両目の辺りをしきりにこする。
 いつも背伸びしている彼の、年相応な姿。
「ごめんなさいすれば、ダイジョブだよ」
「だって鷹弥だよ? 根に持つタイプだよ、きっと!」
「あー……、それ以上ディスっちゃダメ」
 言って、あたしは肩越しに背後を仰ぎ見る。
 アーシュも釣られて振り返って。
「根に持つタイプで申し訳ありませんね」
「鷹弥……いつから……?」
「最初から」
 答えて立ち上がったあたしの姿を、アーシュが目で追った。
 実は玄関先でまごまごしている間に追いつかれ、ここまで一緒に来たんだったりして。
「ここにいるかも、って教えてくれたのも、榊だよ?」
「………」
「あとね、桂くんとユフィルも今、手分けしてあんたのこと捜してくれてる。漣とゆきちゃんなんて、帰ってきたばっかで街にUターンだよ? 一応クラブ見てくるって」
 膝を曲げ、目の高さをアーシュと合わせる。
「だからさ、安心させてあげに帰ろうよ?」
「……嘘だ。みんな多紀に言われたからしかたなくボクの面倒見てるだけで……」
「疑り深いな、この子!」
「だって! みんなボクになんて興味ないもの! なにがあったか、家族のこととか、なにも訊いてこないって、そういうことでしょ!?」
 ああ、ここでも誤解が生まれてる……。
「いや、あんたに内緒でユフィルはあんたの親のこと……」
「詮索するな」
 榊があたしの言葉を遮る。
「それが、多紀さんからの命令でした」
「なにそれ? そんなんで納得して、素性も判らない未成年預かっちゃうわけ? おかしいでしょ?」
 うん、これはアーシュが正しい!
「『過去は』」
 軽く目を閉じて、榊が答える。
『過去は、そのひとを理解する一助にはなるけど、それ以上ではないわ。わたしは、一緒に歩きながら……笑い合って、時にはけんかもして、そうして少しずつお互い理解し合うほうがステキだと思うの。一人では見えなかったことも、見えてくるしね』
「多紀さんの口癖ですよ」
 榊がひとつ小さく息を吐く。
「おっしゃるとおり、私があなたの世話をするのは、それが多紀さんの遺志だからです」
(ちょちょ……っ、ここで話戻す!?)
 慌てるあたしを手で制し、
「ですが、彼女の想いに共感できるから、私は従っている」
 榊が続ける。
「多紀さんは苦労して地位と財を成したひとだから、自分に力のある間は、境遇に恵まれていない有為な若者へ手を差し伸べたいと、そう考えていらっしゃった。そのおかげで今の私がある。私もユフィルも多紀さんに出会えなければ、今とはまったく違う未来を強いられていたでしょう。だから私は彼女に恩を返したいんです。そしてその方法は、彼女の志を次の世代へと継いでいくことではないかと思っています」
 榊がアーシュをまっすぐに見る。
「だからアスラン、私に恩返しをさせてください」
 アーシュが答えを探すみたいに、唇を2、3度震わせる。
 軽く首を傾けて、榊が微笑んだ。
「それに、アーシュ。きみがこれからどんな大人に育つのか、個人的な興味もあります」
 アーシュのほうへ手を伸ばす。
「さあ、帰りましょうか。我が家へ」
 アーシュが榊の手を取って。
「………うん」
 あたし達はヴィラへと帰る。 
 とっぷり日の暮れた坂道で、榊の持参した懐中電灯はおおいに役立った。
 さすが執事、用意ドン!(※用意周到)

「榊」
 あたしが榊を呼び止めたのは、彼が私室のドアを開けかけたタイミングだった。
 常夜灯に切り替わった廊下は、足元は照らされているけど顔はよく見えない。
「お嬢さま? こんなところまで、どうしたんです? もう遅い時間ですよ?」
「うん、ちょっと言っとかなきゃいけないかなぁってことがあって」
「……では、立ち話もなんですから、お入りください」
 榊がドアを開いて、あたしを中へ入れてくれる。
 初めて入る榊の部屋は、すべてのものがきちんと片づけられていた。壁の大部分を占めている書棚に本がぎっしり詰まっている。その他には机とベッドがあるくらいで、面積もあたしの部屋の半分くらいしかない。ずいぶん質素だ。
「おかけになってください」
 榊は窓際の机の前にあった椅子をあたしに勧めて、自分はベッドの上へ腰かける。
「それで、お話とは?」
「うん、……まずは、今日はお疲れさま」
 あの後。
 あたし達が家へ帰ると、先に戻っていた桂くんが出迎えてくれて。腫れが青あざに変わった桂くんの顔を見て黙り込んじゃったアーシュを、桂くんはぎゅっと抱きしめた。
 ちょうどゆきちゃんと漣も街から戻ってきて、漣は無言でアーシュの頭に何度もチョップを入れてたっけ。
 夕食が終わる頃になってようやく戻ってきたユフィルは、アーシュを見るなりその場でへたりこんだ。駆け寄って「ごめんね、ユフィル、ごめんね」って繰り返すアーシュの頭をぽん、とやって「おかえり」って、それだけ言って微笑むから、見てるあたしのほうが泣けちゃった。
「長い1日だったよね」
「まったくです」
「………」
「………」
「……あ、あの……」
「先によろしいですか?」
「ど、どうぞ」
 せっかく勇気を出して話しだしたのに……!
「先ほどは感情的になって、不適切な発言をしました。謝罪します」
「フテキセツ……」
(たぶん、ゆきちゃんのこと『男娼上がり』って言ったことだろうな)
 さっきはうまく言えなかったけど、あたしにはひとつ思いついたことがある。
 短く深呼吸して、あたしは口を開く。
「……ゆきちゃんは、さ。今までいろんなこと諦めてきて……たぶんひとにも自分にもいっぱいウソついてきて……もしかしたら、限界だったのかもしれない」
 あたしの知らないところでたくさん傷ついて、あたしに見えないところで、もしかしたらあたしのために、たくさん戦ってくれていたのかもしれない。
「だから多紀さんは、ゆきちゃんを助けたくて後継者にしたんだと思う」
「………」
 榊が軽く目を伏せる。
「でもね、それはたぶん、あんたのことも考えてだと思うんだよね」
「私の?」
「だってさ、もしあんたが後継者になったら、あんたたぶん今以上に働いちゃうでしょ? せっかくこんな天国みたいなヴィラにいるのに、毎日会社までヘリ飛ばして……もしかしたらほとんど帰ってこなくなってたかもしれないよね。きっとなにもかも犠牲にして、会社をより大きくするためだけに人生使って。たぶんさ、そういう一生送ってほしくなかったんだよ、多紀さんは」
「………」
「だからあんたに遺していったんだ……家族を」
「家族?」
「前にユフィルが言ってたんだよね。ヴィラに住むひと達は、みんな家族みたいなもんだって。責任感の強いあんたのことだから、よろしくって頼まれたら、あぶなっかしいゆきちゃんと手のかかるアーシュ置いて、ヴィラを出ていったりできないでしょ? だからふたりを頼む相手は、あんたじゃなきゃダメだったんだよ」
 眼鏡の奥で、榊が大きく両目を見開いた。
「………は。あなたはバカなくせに、時々理に適ったことを言う」
「ねえ、あたしに対するその発言は、あんたの中ではフテキセツじゃないわけ?」
「そういうことにいちいち傷つく繊細さをあなたが持ち合わせていなくて、大変助かっています」
「あたしの神経が極太みたいな言い方すんな」
「だから、私はあなたがいいのですよ」
 ふわりと微笑まれて、心臓麻痺を起こしそうになった。
「え……、えっと、それって……」
 榊は微笑んだまま、じっとあたしを見つめている。
「ええっと、つまり……そういうイミにとっちゃっていいの? かな?」
「そういう、とは?」
 あ、笑い方がちょっとイジワルになった。こんにゃろ、楽しんでるわね?
「………」
 あたしは椅子から立ち上がると、榊の目の前に立つ。少し屈むようにして、眼鏡をそっとはずした。
 ガラス越しじゃなく、榊と視線が絡み合う。
(案外まつげ、長いんだ……)
 そんなことに気づいたりして。
 あたしは榊の脚をまたぐようにしてベッドへ片膝を載せる。おとなしくしている榊の肩へ手をかけて、そっと顔を近づける。
 ふわ……と、唇と唇が触れ合って。思っていたよりもずっと柔らかいことに、胸の奥がきゅん、となる。
 一度唇を離したら、榊が追い駆けてきて。
 ちゅ、ちゅ、と弾力を確かめるように押しつけてくる。
 それはあたしが今までつきあった男の子みたいにガツガツしたものじゃなく、ゆったりと甘いキスだった。
(榊って、やっぱりオトナなんだ……)
 ん? 待てよ。
「ね、榊。ちょっと訊いていい?」
「今訊かなければならないことですか?」
 言いながら、あたしの背中へ手を回す榊。
「今訊いといたほうがいいかなって思うんだけど」
「では、どうぞ」
 どうぞと言っておきながら、榊はあたしのこめかみにキスするのをやめてくれない。
「ね、ちょ……」
 くすぐったさに身をよじり……。
「あ、あんたって今、何歳なのっ?」
「………は?」
 キスをやめて榊が顔を起こす。あ、メッチャ呆れてる。
「いや、だって今まで訊く機会なかったし、でもやっぱ知っといたほうがいいかなって……」
「なにを言い訳してるんです。別にかまいませんよ。32歳です」
「………」
「自分で訊いたのですから、なにかリアクションしたらどうですか?」
「いや、ごめん、意外なのかそうでもないのか、自分でもよく判らなかった……」
「お気がお済みになったのでしたら」
 腰に手を添えられて、いきなりぐいっと引き寄せられる。
 びっくりしている間に、あたしはベッドへ押し倒されていた。
「一応お尋ねしますが、続けてもよろしいですか? お嬢さま」
 あたしの上へ覆い被さった榊が、イタズラっぽい笑みで訊いてくる。
「ダメって言ったら、やめちゃうの?」
「同意がありませんと、犯罪行為になってしまいますので」
「バカ。全然ロマンチックじゃない!」
 榊の胸をポコンと叩く。その手首を取られて。
 再び重ねられた唇は、甘くて、熱くて。
 初めて見る榊の姿に、あたしは一晩で何度も心臓発作を起こしかけたのだった。

・・・つづく


最終話 輝ける未来

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