【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】ヴィラ・ローレルへようこそ(8)
第8話 嵐の夜
『夕方から夜にかけて、しだいに雨風が強まる予想です』
テレビのお天気キャスターが、朝から繰り返し大型台風の接近を伝えている。
「窓の雨戸をすべて閉めてください。それから宿直以外の従業員は、そろそろ帰宅するように。ヴィラに残る者は、手の足りないところを互いに手助けし合って乗りきってください」
嵐の到来に備えて、榊の動きもしだいに慌ただしくなっている。
(ってか、あの男は忙しくしてる時がいちばん楽しそうだな)
窓も出入り口も、ガラスの入っているところはすべて雨戸を閉められちゃったので、外の様子がまったく判らない。びゅうびゅう音がしてるから、だいぶ風は強くなってきたんだと思う。
「………」
実はあたしは、雷・増水は見に行くし、嵐・吹雪の時は外へ出てみずにはいられないタイプだ。
なので、バタバタ忙しそうなみんなを横目に少し出かけてみることにした。
「おー、雲が走ってる!」
まだ雨は降ってないけど、強風に流された雲がもの凄い勢いで空を流れていく。
屋敷づたいにぶらぶら歩いていると、ちょうど何人かの従業員さんが裏口から外へ出ていくところだった。たぶん榊に言われて家へ帰るひと達だね。
(寮ってどこらへんにあるんだろ?)
なんとなくみんなに紛れて外へ出てみる。屋敷前の坂を少し下ったところに細い脇道があって、みんなそこを曲がっていった。
さすがに寮までついていくのはストーカーっぽいので、やめておこう。
(わー、海が鉛色だー)
反対側へふと目をやれば、波しぶきをあげる海が見えた。
青く澄んだいつもの海とは違う様子にちょっと興味をひかれて、あたしは海岸まで行ってみることにした。
……今思えば、この選択が大きな間違いだった。
(調子に乗りすぎた~~~)
波の届かない砂浜をぶらぶら歩くこと数分、ちょっとポツポツ降りだしたかな、と思ったら。
いきなり「どっしゃーーー!」と雨が降ってきて、あれよあれよという間に暴風雨。
(なにも見えない! ってか、雨が痛い!!)
砂浜には雨宿りできる場所もない。
(ヤバイ、これ、あたし死ぬ……!)
ともかくもと来た方向へ、砂浜を這うようにして戻る。
前方に、なにか黒いものが落ちていた。
(……って、ひと!? ドラえもん!?)※土座衛門。
慌てて這い寄り、助け起こす。
あれ、なんか見覚えあるんだけど……。
「……榊!? なにしてんの、あんた!?」
「……こちらのセリフです。……ご無事ですか?」
「今のところなんとか。でも、家に帰りつける気がしない」
「コテージを目指しましょう。そちらのほうが近い」
「ね、大丈夫? メッチャ顔青いよ?」
「……濡れるのが……嫌いなんです……」
「猫か、あんたは……っ!! コテージ、どっち?」
あたしに凭れかかったまま榊が無言で指を差す。
「あっちね、判った。ほら、立って!」
ぐったりした榊に肩を貸し、あたしはコテージまで頑張って歩いた。
榊の持っていた鍵でドアを開けた途端、暴風に押されたのもあって、あたし達は倒れるようにコテージの中へ転がり込む。
ドアを閉めようと手をかけたけど、風が強くて閉められない。
「危ないからどいてください」
ふらふら立ち上がった榊が、肩で押すようにしてドアを閉める。
「………」
閉まったドアを背中でこすりながら、床へへたり込んだ。
「ちょ……っ、あれ、電気つかない」
「ブレーカー……」
榊が部屋の隅を指差す。ボックスを開けてブレーカーを上げると、部屋の電気がついた。
「なんか拭くものあるかな。確かお風呂ついてたよね、ここ」
「………」
黙って部屋の奥を指差す榊。
奥にあるお風呂場の脱衣所に、きれいなタオルが数枚置いてあった。
「ともかく拭かないと。風邪ひいちゃうよ」
ぐったり項垂れている榊の眼鏡をはずし、濡れた髪をタオルでわしゃわしゃ拭いてやる。ホントに具合いが悪いみたいで、榊はされるがままだ。
(……なにこれ、なんか……かわいいんだけど!)
顔からシャツの襟もとまで、濡れた肌を拭う。
「ねえ、シャツ、脱いだほうがよくない? 体冷えちゃう」
「………」
「榊?」
気絶していた。
「ちょ、さ……っ、ん?」
寝てるだけだった。
(確かにあの雨の中歩くのは、あたしでさえそーとー疲れたもんな)
朝から忙しくしていた榊だから、どっと疲れが出たのかもしれない。
(とりあえず、体拭いてあげようかな……)
シャツの胸元のボタンへ手を伸ばす。
(………いや、待て、あたし……!)
意識を失っている男のひとの服を勝手に脱がすのって、どうなの、大丈夫なの!?
もしかしてハンザイなんじゃないかと思うので、やめた。
(せめて腕だけでも拭いとくか。ってか、なんでこいつは夏なのに長袖着てんだろ?)
濡れたシャツの袖をまくり上げ、同じくびっちょびちょの白手袋に手をかけて……。
「………」
脱がせかけた手袋の下、左手首に傷痕があった。
(高校の時、友達にリスカが趣味みたいな子がいたけど……)
その子の手首についていた傷痕と、よく似ている。
目を閉じたままの榊の顔を見やり、あたしはそっと手袋を元へ戻した。
と。
♪♪~
榊のズボンのポケットで、スマホが着信する。
少し迷ってから引っ張り出すと、画面にユフィルの名前が表示されていた。
(あたしのスマホ、バッテリー切れてんだよね。出ちゃっていいかな?)
「はい」
『あれ……嬢ちゃん、かな?』
「うん、あたし。今、榊ちょっとダウンしてる」
『え、鷹弥、どうしたん? 今どこ?』
「海岸のコテージ。榊はちょっと疲れて寝てるだけっぽい」
『そうか。嬢ちゃんは? 無事か?』
「うん、あたしは元気。でももう帰れないから、今日はこのままコテージにいる。ってゆーか、もしかして心配されてた……?」
『まあな。でもまあ、ふたりとも無事なら、お説教は後でええわ。ゆき達も今夜は天文台に泊まるて連絡あった』
「この雨じゃ前がよく見えなくて、車の運転コワイもんね」
『雨でタイヤ滑って、あの坂のぼれんからな。それ以前に、風で車が吹っ飛ぶわ』
「またまた~。大げさなんだから!」
『マジや。毎年観光客に被害が出とるねん。島の台風をナメたらあかんで』
「スミマセン……」
『コテージの戸棚に食糧入っとるから適当に食べて、おとなしくしとれよ? 鷹弥のこと、頼んだで』
「判った。じゃあね」
通話を切る。
(榊のこと頼んだ、だって! 頼まれちゃった!)
なんだかみょ~にウキウキする。だってバカなあたしにそんな重要なこと、今まで頼むひといなかったし。
(ん? でも待って。ってことは……今夜はここで榊とふたりきり!?)
急にドキドキしてくる。
(まあ、榊に限ってなにかしてくるってことはないだろうけど……でも、榊だってオトコなんだし……)
ちらりと肩越しに榊を見る。
「……うぅ……」
うなされていた。
(こういう時って、起こしたほうがいいんだよね?)
あたしは榊の肩に触れる。
その瞬間、榊が飛び起きてあたしの手を払いのけた。
「ビックリした……」
手を叩かれた拍子に落っことした榊のスマホを拾う。
「ごめん、ユフィルから電話あったから、借りてた」
「………」
スマホを差し出すけど、榊はまだ寝ぼけているのか、ぼーっとしたままあたしを見つめている。その顔は真っ青だ。
「ダイジョブ?」
「……申し訳ありません……母の、夢を見ていたので……」
「あんたにもママいるんだね!」
……って、当たり前か。
でもなんか考えたこともなかったので、ちょっとシンセン!
「どんなひと?」
「愚かな女です」
「もー、自分のママでしょー? そういう言い方はさー」
「本当に愚かなのですよ」
榊はドアへ背を預けると、立てた片膝に腕を置いて遠くを見る。
「資産家の愛人なぞをしていて……父が急死し、本妻と名乗る女性に住んでいたマンションを取り上げられるまで、私はそのことを知りませんでした」
「えっ……それ、あんたが何歳の時?」
「14歳……くらいでしたか。まだ中学に通っていた頃ですので」
「……じゃあ大変だった、ね……?」
シングルマザーの家庭に育つ大変さは、あたしも知っている。でもたぶん、それよりももっと、榊の家庭は複雑だっただろう。
「そうですね。……お定まりのパターンで、母はその後水商売を始め……私は度々、店まで彼女を迎えに行かされた。夜中にですよ?」
「そっか……。でも、でもさ、それってホラ、ママだってあんたのこと育てるのに必死だったんだよ。あんたのこと愛してるから、頑張ってたんでしょ?」
「ええ、愛されていましたよ……。私の布団に裸で潜り込んでくるほどね」
「えっ……?」
「おまえはお父さんにそっくりだ、と言って、私の体を撫で回し、抱きついてくる……。あの日も……」
・・・
暑い夏の日だった。
学校から帰宅すると、母がリビングの床で寝こけていた。
起こさないように脇をすり抜け、風呂場へ向かう。肌に纏わりつく汗を流そうとシャワーを浴びた後、脱衣所へ出ると……。
寝ていたはずの母親が、タオルを持って立っていた。
「拭いてあげる」と言う母の手からタオルを引ったくり、「自分でできるから」と手早く衣服を身に着ける。
その背中へ、母が抱きついてくる。
「……ますますお父さんに似てきたのね。ふふ、ステキなひとだったのよ、お父さん。男らしくて、優しくて……」
背中にキスをされ、身の毛がよだつ。
乱暴に母を引き剥がした自分の指が、震えていた。
「いい加減にしてくれよ! 僕は父さんじゃないんだ! こんなふうにベタベタ触られるのは不快だ!」
「お、怒らないで……。どうしたの?」
母には、息子がなぜ怒っているのか理由が判らない。だから、これ以上言ってもしかたがない。
踵を返し、母を置いて脱衣所を出る。その腕を掴んで、母が追い縋る。
「どこ行くの!? いやよ、お母さんを置いてかないで。お母さん、あなたに嫌われたら、もう生きていけない……!」
「じゃあ死ねよ! うんざりなんだよ!」
頭に血がのぼった。母へ怒鳴りつけたのは、おそらくこれが生まれて初めてだ。
その後は顔も見ず家を飛び出して、夜まで繁華街をうろついた。
雨が降りだし、ほかに行くアテもなく、日付の変わる頃に家へと帰る。
アパートのドアを開けた時。
首を吊って死んでいる母親が、そこにいた。
・・・
「ほら、ね? 愚かでしょう?」
「………」
「まさか本当に死ぬとは、思いませんでしたよ」
唇を歪めて、榊が床へ目を落とす。水を吸った床板が黒く変色していた。
(なにか言わなきゃ……)
あたしはない脳みそを絞りに絞って考えたけど、結局なにも言えなくて。
「……つまらない話におつき合いさせてしまいましたね。お風呂の準備をします。体を温めてください」
立ち上がり、榊がお風呂場へと向かう。
その様子は、もういつものキビキビとした執事のものだった。
翌朝。
「あまりうるさく言いたくはありませんが、出かける時は一言声をかけてからにしてください」
家までの帰り道、あたしは榊に叱られていた。
「今回はセキュリティセンターの者から、海岸へ向かうあなたの姿が監視カメラに映っていたと報告があったので見つけられましたが。あと、スマホは必ず充電しておくように!」
「スミマセンでした……」
海岸から家までは歩くとそこそこ距離がある。
(その間ずっとお小言なのかなぁ……)
いや、あたしが悪いんだけど。
その時、後ろからスーッと車が近づいてきた。運転席にいるのは漣だ。
「乗ってくか?」
「乗ります!」
助手席へ榊が、あたしは後部座席へ乗り込む。
「おはよ」
「お、おはよ、ゆきちゃん」
実はあの日以来、ゆきちゃんの顔をちゃんと見るのは初めてだったりする。
別に避けてたわけじゃないんだけど、朝早くに出かけていつ帰ってきたのかも判らないほど帰りの遅いゆきちゃんを、あたしは見送ることも出迎えることもできてなかった。
(なんかちょっと……痩せた?)
前部座席では榊と漣が仕事の話をしている。
「昨日の台風であちこちのカメラがやられたと報告があった。後で見て回る」
「助かりますが、部下にやらせてください。きみは最近、少し働きすぎです」
いや、あんたもね!
「………」
ゆきちゃんはずっと、黙ったままだった。
そんなゆきちゃんが、
「今、少し時間いいかな?」
と声をかけてきたのは、そろそろ夕食という時間だった。
帰宅後、ゆきちゃんは仕事があるからとすぐに自室へこもり、朝食も昼食にもダイニングへは下りてこなかった。しょーじき、ちゃんと食べたかどうかも疑わしい。
(ゆきちゃん、ヒドイ顔色。ゾンビみたい……)
「庭に出ようか」
ゆきちゃんが先に立ってお庭へ出ていく。台風一家?で朝から晴れていたせいか、足元の土はほとんど乾いている。
ところで、台風と青空を家族にたとえるって、なんか可愛くない?(※台風一過の間違い)
「昨夜は鷹弥さんと一緒だったんだって?」
少し前を歩きながら、ゆきちゃんが訊いてくる。
「うん、雨の中捜しにきてくれて」
「ふぅん……」
沈黙する。
「………」
「………」
「………」
「あっ、あのさ!」
耐えきれず、あたしが先に口を開いた。
「こないだ、ごめんね。あたし家出しちゃって……」
「………」
「その……、あの女のひとって……」
少しの間の後。
「……キス1回5万円、ベッドインで20万、1日貸切なら60万」
ゆきちゃんが答える。意味が判らなくてポカンとゆきちゃんの顔を見上げていたら、初めてゆきちゃんがあたしの顔を見返した。
「それが、僕の値段」
まるで今にも消えてしまいそうなほど、はかなげな笑顔だった。
「値段……って……」
「体を売る商売をしていたって意味だよ。この間のひとは得意客のひとり。でももう足を洗ったから、あのキスはロハ」
「……ろ、60万って、凄いね」
「それだけの仕事はしてたよ?」
なにを言うか困ったあげくの発言だったんだけど、さらに反応に困る返事をされてしまった……。
「軽蔑されても仕方ないと思うから、言い訳はしないよ」
「別に……ケーベツはしないけど……。なんでその仕事始めたの?」
「最初は、大学の友人に誘われてホストクラブにね。生活費を稼ぐためのバイトとして始めたんだけど……これが驚くほど稼げちゃって。最初の2か月で指名客がバンバン増えて、店のオーナーに気に入られたっていうのもあるんだけど。……今まで実生活の中でしてきたのと同じことをしてお金が入るなら、これが僕の天職なんだろうな、って」
(実生活でしてきたこと? なんのこと?)
ゆきちゃんが、アーチに絡んだ青い花を指でくすぐる。
「その後、お得意さまの引き立てで、会員制の秘密クラブへ移籍したんだ」
「ひ、秘密クラブ?」
「高級ホストクラブみたいなものかな。政財界のお偉方や、芸能人とか、そういったステイタスのお客さまを相手にする……男娼だね」
「………」
「多紀さんも最初は客のひとりだった」
「……え?」
「ずいぶん目をかけていただいて……一緒に旅行へ行ったり、車を買ってもらったりね」
ええっと、ええっと……つまりそれって、松平のオヤジの言ってたことがウソじゃなかったってこと?
ほんのちょっぴりショックを受ける。
……でも、なにがショックなんだろう?
「かわいがっていただいたんだけど……」
ゆきちゃんが話を続ける。
「2年前に多紀さんがビジネスの第一線から退いて島へ隠棲することにしたから、一緒に来ないかって訊かれて。専属契約の条件は悪くなかった。僕もこの先ずっと同じ商売で喰っていけるとは考えてなかったし……。歳が行って容色が衰えれば、商品価値も下がるからね。でも、それは専属になっても同じこと。多紀さんが僕に飽きれば、そこで契約は打ち切られる。それがいつになるかは判らないけど、いいかげんな年齢になってから放り出されては、そこから立ち行かなくなってしまう。そう考えると、少なくともまだ後2、3年はクラブで客を取れるし、独立して自分で店を持つとか、業界にい続けた方が得策かなと思って、返事を濁したんだよ」
大変ありがたいお話ですが、少し考えさせてください。
そう答えたゆきちゃんに、多紀さんは「もちろん」と応じた。加えて「希望があるようなら言ってちょうだい。あなたのいいようにしてあげるわ」とも。
「だから『私を高く買っていただけるなら』って返した。そう言われたら、多紀さんは可能な範囲での上限を提示せざるを得ない。それはおそらく破格だろうし、少し時間を置けば気持ちも冷めるかな、って思ったんだけど……10日後に一条グループ本社の応接室に呼び出されてね。なにごとかと思ったら、鷹弥さんから養子縁組の書類を渡された。あれは予想外だったよ」
苦笑する。
「お断りしたけどね」
「え、でも……」
今ここにいるってことは、その話を受けたってことだよね?
説明を待ってゆきちゃんの顔をじっと見つめる。
ゆきちゃんは当時を思い出すみたいに、遠い目で夕空を見上げる。
「僕が思っていた以上に……多紀さんは本気だった」
・・・
申し出を断った征斉を本社ビルのエントランスまで見送ったのは、多紀の秘書室の若者だった。
「本日はご足労いただきまして、ありがとうございました」
どこまで事情を知っているのか、青年が深々と頭を下げる。
「お車をご用意してありますので、ご自宅までお送りいたします」
ビル前で待機していたリムジンの運転手が、征斉のためにドアを開けた。
「ありがとう」
窓にスモークの貼られた車へ乗り込もうとして、ギクリと動きを止める。
奥のシートに、多紀が座っていた。
束の間言葉を失う。だが一瞬後には、商売用の微笑を浮かべることができた。
「こんばんは、多紀さん」
穏やかに挨拶をして、あくまでエレガントに車へ乗り込む。これもいつもどおりだ。
動揺すれば相手の分になる。油断はできなかった。
彼がシートへ納まるのを確認すると、静かに車が発進する。
「……このたびはご期待に沿えず、すみません。身に余るほどの光栄だったのですが……」
「お気に召さなかったようね。鷹弥から聞いたわ」
多紀は前を向いたまま、特段機嫌を損ねたというふうでもない。
いや、落胆はしているだろうか? これまでのつき合いで、征斉には彼女のわずかな情動を窺うことができた。
「……多紀さんにここまで高く評価していただいたことは、本当にありがたいと思っています。それは嘘偽りなく、僕の本心です」
一介の男娼を養子に迎えるという決断は、なまなかにはくだせない。それは征斉にも充分理解できる。
「ですが……あなたがその智略と行動力で育て、守ってきた一条グループを、受け継ぐだけの力量を私は持っていない。あなたが思っているほど、私は優秀な人間ではないんです」
だからこそ、こちらもいい加減な気持ちで受けるわけにはいかないと思った。
多紀が口を開く。
「……わたしにとっては一条グループが一番だわ。なにをする時でも、一番に一条グループのことを考える。でもね、自分のために利用することもあるのよ」
多紀がゆっくりと征斉の方へ顔を向ける。ひとの心の内奥までを見透かすような鋭い視線が、征斉を捉える。
「ゆき。わたしはあなたが好きよ。あなたは見てくれも綺麗だけど、心も綺麗だわ」
「――っ」
征斉が僅かに顔をしかめる。それへ、多紀はクスリと小さな笑いを洩らした。
「ほら、そういうところ」
「え?」
「あなたは普段とてもポーカーフェイスだけど、ひとつだけ、それが崩れる時があるの。……自分の人間性を褒められた時よ」
「私は……」
「途中でそのことに気づいたの」
多紀が車窓へ片肘をつく。
「最初はね、あなたはわたしにとって、綺麗で充分に躾の行き届いたただの男娼に過ぎなかったわ。でも、あなたは今の自分を嫌っている、そのことに気づいてから、わたしはあなたという人物に興味を持った」
「………」
「あなたは生活のために今の人生を選ばざるを得なかったのかもしれない。でも、もし環境が許すなら、夢を追うことだってできるのよ?」
「夢……ですか?」
なにを言っているのだろう、と心の中で失笑する。この歳になって夢を語れるほど、征斉はロマンチストではない。
「わたしがあなたと移住しようとしている島には、天文観測施設を備えた研究所がある。一条グループはプラネタリウムや科学博物館への協賛だってしている。望めばそういった事業に携わることができる、そういう状況に、今あなたはいるのよ」
そんな征斉とは裏腹に、多紀の口調が徐々に熱を帯びてくる。
「ねえ、ゆき。ひとは人生の中でいくつものチャンスを得るわ。でもそれをモノにできるかどうかは自分しだいなのよ? そして今、わたしが与えようとしているチャンスは、あなたの人生の中でおそらく最高のものだと、わたしは確信しているわ」
「………」
「わたしを信じられない? それとも、今の生活を続けたいの? 胸糞悪い男のベッドの相手も務めなければならない、今の境遇がいい?」
「………」
嫌なことを思い出し、征斉が曖昧に微笑む。今の彼は高級男娼だが、それでもベッドの上での人権は限りなく無に等しい。
その時、車が停まった。
「……降りましょう」
多紀に促されて外へ出る。途端に、満天の星空が広がった。
「……ぁ……」
「いい場所でしょ? 昼間はただの野っ原なんだけどね。今日は月が細いから、星を見るには最適よ」
圧倒されて言葉を失う征斉の隣で、多紀も広い夜空を見上げる。
「宇宙にはこれだけたくさんの星があるのに、わたし達はたまたま地球という同じ星の、同じ時代に生まれ合った。しかも日本だけでも人口1億2千万。巡り合えても、わたしがそのひとを好きになる確率はさらに1/2。ねえ、これって奇跡に近いと思わない?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、征斉の顔を覗き込む。
「その奇跡に導かれて出会ったひとに、酷いことなんてできないわよ。それにね、わたしは夫に先立たれているの。だから、あなたと縁続きになるのに養子縁組をする必要はないのよ。婚姻届を持ってこなかったことの意味を、よく考えてちょうだい」
ここに至ってやっと、征斉は多紀の意図を悟った。
このひとは本当に、自分にチャンスを与えようとしてくれているのだ。
経験の浅い征斉をいきなり会社の中枢へ据えても、どうせ叩かれて潰される。だから一線から遠い孤島で、少しずつ実績を積み上げる。
ただの退屈しのぎで彼を島へ連れていくのではないのだ、と。
征斉は、ひとつ静かに深呼吸する。
「……これが賭けなら、乗りましょう」
「賭け?」
「はい。……もしかしたら僕は本当にろくでなしで、あなたが与えたチャンスをまるで活かせないかもしれない。そればかりか、あなたの大切なものに大きな疵をつけてしまうかもしれない。そして僕も、すぐにあなたに飽きられて捨てられるかもしれない。1度囲い込まれて捨てられたという前歴は、僕の商品価値を大きく損なう。お互いにリスクがあるでしょう?」
多紀が不敵に笑った。
「おもしろいわね。その賭けに乗るわ」
車体の天板の上へ養子縁組の用紙を広げる。そうして、征斉に万年筆を差し出した。
小さく笑んで、征斉が書類へ筆先を落とす。
「あ……」
「あら、まだなにか問題が?」
「……島への移住は今すぐなんでしょうか? 今、住居を移るのは……」
「不都合かしら?」
「妹がまだ在学中で」
それとも一条グループは、私立の教育機関も運営していただろうか? 頭に入れたはずの事業内容を大急ぎで検索する。
その結果が出る前に、多紀が答えた。
「そうね……妹さんは今高校1年生だったわね。いいわ、移住は2年後まで待ってあげる。当面は定期的に通ってきてちょうだい。ああ、ヘリを出してあげるから、移動の苦労はそれほどないはずよ」
「ますます僕にばかり都合のいい条件になってしまって、すみません」
「あら、投資家は気が長くなければ成功しないのよ。それに」
征斉のサインの入った書類を畳んで封筒へしまうと、
「この賭け、勝つのはきっと、わたしだわ」
多紀は得意げにウィンクした。
・・・
(多紀さんって、ホントにステキなひとだったんだ……)
ユフィルから聞いた人物像といろいろな推測とが、今の話で1本の線につながる。
「……あたしも多紀さんに会ってみたかったな……」
もし出会えていたなら、多紀さんはあたしを好きになってくれただろうか?
ゆきちゃんはそんなあたしを束の間見つめ、目線を足元へと落とす。
「僕は……縁組を解消しようかと思ってる」
「………………えっ!?」
あまりにとーとつで、意味を理解するのにたっぷり5秒はかかっちゃった。
「ちょちょ、急になに言ってんの?」
「急でもないかな。多紀さんが亡くなってから、ずっと考えてはいたんだ。一条多紀の後継者という位置は、本来なら鷹弥さんのものだから」
ドキッとした。ナントカ夫人のパーティーでいろんなひとが言っていたのと同じことを、ゆきちゃん本人の口から聞くとは思ってなかった。
「で、でもさ、それは……多紀さんが榊じゃなくてゆきちゃんに譲りたいと思ったわけだから……」
(ああ、でもそう言っちゃうと榊が可哀想な気がする……)
フクザツな気分になって、途中からモゴモゴしちゃうあたし。
不意に、
「正太郎くんって、覚えてる?」
ゆきちゃんが訊いてきた。
「しょうたろーって、従兄弟の?」
ママの再婚が決まって、ゆきちゃんとあたしはママの実家へ預けられたんだけど。実家にはお祖父ちゃんお祖母ちゃんと一緒にママの妹夫婦が住んでいて。その子供がしょうたろーだ。
「叔母さんは最初、僕達を引き取るのには反対してたんだよ」
「うん、知ってる」
あたしはそれを面と向かって叔母さんから言われたことがある。
「でも叔母さん、ゆきちゃんのことは気に入ってたよ?」
「……買い物帰りを狙って声をかけて、荷物を持ってあげたり、家事を少し手伝ってあげたりね。ひとの好意なんて、案外そんな小さなことで掠め取れたりするんだよ」
言葉悪いな!
「そのうち僕にだけ内緒でお小遣いをくれたりね。外でお茶をごちそうになったこともある。でもそれは……本当は正太郎が受け取るべきものだよね」
どうなんだろう? 一緒にお茶するなら、たぶんあたしもしょうたろーよりゆきちゃんを選ぶと思うけど。
「なんかこれって、鳥の托卵みたいだなって。その巣で安心して育っていけるはずだった雛を、赤の他人の僕が追い落とすんだ」
「え、でも、ゆきちゃん、しょうたろーとも仲良かったじゃん」
「やっかまれるのも面倒だから、彼の好きなアイドルのグッズなんかを、偶然手に入れたふうを装ってあげたりしてたんだよ」
そんなことしてたのか! メッチャ苦労してたんだね、ゆきちゃん!
「そういうことを僕はわりと素でできるから。でも今回は、掠め取ったものが大きすぎた。僕には荷が重い。だから、鷹弥さんに返そうと思って」
(どうしよう、なにか言わなきゃ……)
そう思うけど、バカなあたしには言うべきことが見つからなくて。
『それって、できないんじゃなくてやってないだけじゃない?』
不意にアーシュに言われたことを思い出した。
(バカだからできない、って、もしかして言い訳なのかな……?)
俯いて黙り込んだあたしのことをどう思ったのか、
「未亜のことは鷹弥さん達に頼んであげるから、心配ないよ」
ゆきちゃんが付け加える。
「今のようにお嬢さま待遇のままとはいかないだろうけど、厨房の下働きとか、きみにできる仕事を探して生活の面倒は見てくれると思う」
「……ゆきちゃんは、どうするの?」
「僕? そうだね、ホストに戻ろうかな。たぶん天職だし」
力なく笑う。
「ずっとホストを続けられるとは思ってないって、さっき言ってたよ? それに養子になったら商品価値が下がるって……」
「……僕のことは気にしなくていい。どうにでもなるから」
「ゆきちゃん、ウソついてる」
「………」
「ホントにホストが天職だって思ってるなら、もっと堂々としてればいいじゃん。なんで『ケーベツされてもしかたない』なんて言うの? 学校で習ったよ、ええと、尊いにもひとつムズカシイ漢字書くやつ……」
「貴賤、かな?」
「たぶんそれ。職業にそういうのないって。ホストだって誰かが必要としてるから仕事になってるんでしょ? でもホントはやりたくなくて、ゆきちゃんがそれで自分のこといやになるんだったら、そんなのやめた方がいいに決まってる。そう思ったから、多紀さんだってやめさせたんじゃないのかな」
「どうかな。彼女は少し僕を買いかぶっていたから……」
「だって多紀さんってスゴイひとなんでしょ? そんなひとが簡単にダマされたりしないんじゃない? ゆきちゃん、そのひとのことミビ……クビ……?」
「見くびってる?」
「たぶんそれ! それにゆきちゃんは自分のこともミクビッテる。ゆきちゃん、榊のことソンケーしてるって言ってたけど、あたしはゼッタイゆきちゃんのほうが将来スゴイひとになれると思う! だって、あたしのお兄ちゃんは頭良くて優しくて、世界一カッコイイもん! 妹のあたしが言うんだからゼッタイだよ!」
「……根拠のない励ましだけど……」
ゆきちゃんの顔に、ふわりとした笑みが浮かぶ。
「ありがとう。味方がいるって、ずいぶん心強いものだね」
「えっ、それじゃあ……」
「いずれにせよ、今やってるプロジェクトが片付くまでは縁組解消だなんだって話もできないしね。もう少し考えてみるよ」
完全に思いとどまったわけじゃなさそうだけど、さっきまでのゾンビみたいな表情はすっかり消えていた。
「未亜は……変わったね」
「あたし? そうかな」
「今まで僕のことなにも訊いてこなかったから、興味がないんだと思ってたんだけど」
「ええっ!? そんなことないよ、なんなら今はいてるパンツの色とかも知りたいくらいで」
ぺちっ!と掌でおでこをはたかれた。
「こんなにはっきりした意見を持ってるとは、思ってなかった。大人になったのかな」
目を細めてあたしを見つめる。
(興味がなかったんじゃなくて、バカだから聞いてもしょうがないと思ってた……)
でも。
こないだのあたしの子供の頃の話だって、別に今さらユフィル達に聞いてもらったところでなにかが解決するわけじゃないけど、みんなが怒ってくれただけで、あたしは嬉しかった。
(……榊は昨日、どうしてあたしに自分のママの話をしたんだろう……?)
ホントはもっと聞いてほしかったんじゃないかな? そう思った。
・・・つづく
第9話 はじまりは『今』
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