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心について、からだが伝えてくれること

心というものが
どこにあって、どんな形をしているのか

本当のところ、私たちの誰もまだよくわかっていないので

だからとりあえず、心について語ろうとするとき、多くの人は「言語」を使うことにしています。


もちろん言語以外の、何か別のものを使う人も、中にはいます。

たとえば音楽家は、楽譜として書かれた一音一音に込めた作曲家の思いを、音色で表現します。歌手なら声で、ピアニストならピアノの音色で、人生の悲しみやよろこびを表します。それは作曲家の心のことばであり、演奏する人の心のことばでもあります。

たとえばアスリートは、ほとばしる激情や興奮を「動き」で表します。走ったり跳躍したり、蹴ったり打ったり。あるいはじっと動きをこらえて、最後の瞬間になって爆発的にショットを決めるようなスポーツもあります。ゴールや勝利の瞬間、拳を振り上げて叫ぶようなこともあります。それらはすべて、アスリートの心のことばです。

ゴッホの油絵の色彩や筆づかいも、彼の心のことばです。ゴッホの絵を観賞するとき、そこに描かれた彼の苦しみや絶望を見ることになります。


でもほとんどの人は、言語を使って、心というものを語ろうとします。

たとえば心理カウンセリングは、心の悩みを言語というツールを使って語ります。カウンセリングを受ける人もカウンセラーも、言語を使います。

「こういうことがあって苦しいんです」「苦しいんですね」「どうしたらいいでしょうか」「こうしてみたらどうでしょう」というように。つまりトークセラピーです。

身近な人に相談するときも同じです。会って打ち明けるにしても、LINEで話を聞いてもらうにしても、言語を使います。歌やダンスで伝え合うなんてことは、あまりありません。

言語は、心のことばでもある

と、私たちは思い込んでしまっている節があります。


先に結論を言うと、言語は心のことばではありません。

どちらかというと言語は、脳のことばです。脳の進化の歴史の中でもわりと新しい、大脳皮質のことばです。

たとえば仕事などの場面で、相手に対してものすごく腹が立っていたとしても「ありがとうございました」と言うことはできます。はらわたが煮えくり返っていても「おっしゃるとおりです」とか「申し訳ありません」と言うこともあるし、あっ嫌なあの人だと思っても「いらっしゃいませ」と言うこともあります。

そのとき「口にした言葉(言語)」は、「心のことば」ではありません。

感謝の気持ちなんて全然ないのに「ありがとうございました」と言うとき、言語はむしろ「心とは正反対のことば」だったりするわけです。

それなのに、なぜか多くの人は、心について語ろうとするときには「言語」を使います。現代人の私たち、脳のことばと心のことばとを、ごっちゃにしてしまっているところがあります。

心のことばがよくわからなくなってしまった私たち、なのかもしれません。

言語活動や思考、論理や理性や意志といった大脳皮質の活動にばかり一生懸命になりすぎて、心のことばをすっかり忘れてしまったのです。



心が発するほんとうのことばは、からだを通して現れます。

からだのことばが、心のことばです。

大嫌いな人に笑顔で挨拶しようとすると、まぶたや頬や口周りの筋肉が引きつります。からだや足の先は正面より少し斜めを向きます。嫌いじゃない相手よりも距離を取ります。握手も軽く短くなります。吐き気がしたり、内臓が重たくなったり、指先が冷たくなることもあるかもしれません。

でも「お待ちしていました。お会いできるのを楽しみにしていましたよ」とうやうやしく挨拶します。

そのとき心の真実を伝えているのは、言語ではなくからだです。

壮絶なストレスにさらされながら仕事をしていて、仲間や部下や家族に心配をかけまいと「大丈夫だ、気にするな」とこたえていたけれど、実は重大な病気が進行していたり蕁麻疹ができたり毛が抜けたりすることがあります。

そのときも、心の真実を伝えているのは、言語ではなくからだです。

怒りや依存といった衝動がなかなか抑えられず、社会生活に支障をきたしている人がいて、「怒りに任せて人を殴るのは悪いことですよね」と諭したとして、本人もそのことをよく自覚して「今度こそ止めよう」と強く決意しているのに、いざ衝動が出てくるとコントロールできず、やっぱり同じことをくり返してしまうということもあります。

そのときもやっぱり、心の真実を伝えるのは、からだのことばです。

「悪いことだ」「止めよう」と言語上は理解している。大脳皮質ではちゃんと理解して、強く決意もしている。

でも、からだに湧き上がる衝動をコントロールするのは、とても難しいことです。殴ってしまいたい衝動、飲んでしまいたい衝動、抱かれてしまいたい衝動。それは心が発する「からだの叫び」とでもいうようなもので、言語や大脳皮質が間に割って入れるようなものではないからです。


現代に生きる私たちの多くは、心のことばをすっかり失ってしまいました。

そのかわりに言語を使って思考することを進化させ、より論理的に合理的に、理性と意志でもって心をコントロールできると錯覚するようになりました。より高いモラルをもって社会生活を送ることを、お互いに求めるようにもなりました。

それができない人は、意志が弱く、論理的思考が欠落している。
現代人失格。社会不適合。

心にことばがあったこと、
そもそも心があることさえも、ほとんど忘れかけています。

かわりに、心ではないものを心であるかのように扱い、大脳皮質のことばである言語を使って心について語り合うようになりました。

心と、からだと、脳とが
ばらばらになってしまったのです。

ほんとうはひとつのものであるのに。
ひとりの人間として、ひとまとまりのものであるのに。

忙しくて、情報が多くて、テクノロジーの進化が速すぎて、なのに時間が足りなくて、現代人として生きるのは何かと大変なことです。



現代社会を生きる私たちが抱える心身の失調、その原因の多くがここにあります。

心のことばを忘れてしまった。
心のことばは、からだが伝えてくれていることを忘れてしまった。

そのことを無視して、大脳皮質のことばである思考と言語で解決しようとしても難しいのです。

心に抱える悩みも、身体に出た不調も、
「それが伝えていることばを聴く」
ことから始まります。

からだはすべてを知っていて、どんなときもそれを伝えてくれようとしています。

何が辛いのか。
何が苦しいのか。
何に怯えているのか。
何を恐れているのか。
どこで無理をしているのか。
どんなトラウマを抱えているのか。

悲鳴をあげている心とからだを救うために、自分に何ができるのか。

どうしてほしいのか。
本当に求めているものは何なのか。

からだが伝える心のことばに耳を傾けてみること。

何よりもまずそうすることが、癒やしの第一歩です。