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「おつかれさま」でグッドバイ 令和のこども世界

 年末年始。友人らとつながつるInstagramのストーリーが、ゆく年への感謝と、くる年への希望に染め上げられる。どれも明るい投稿ばかり。

 彼らと少なくない時間を共に過ごした僕も、本来ならこのうちの一人に数えられたのだろう。だけど、後期から休学して一人の時間が長くなると、かえって心は社会とかの大きな事柄へと向かっていく。

 2022年は、決して明るい年ではなかった。どこへ向かって行くのかわからない不安が、自分ごととは違う層で、だけど確実に自分と重なりながら、不気味に膨れ上がっていく。「年末に親子が電車に飛び込んだってさ。いよいよ日本終わりだな。さて、昼飯は何にしようか」。こんなぐあいに。

 少し前までは、僕らの生活が危うい土台の上で成り立っていることを、想像もできなかった。それを理解したつもりの今でも、ニュースはニュースで、自分とは関係のないお話のように感じられる。戦後は永遠に続くのだとさえ。


 年末最後に人と会う用事で、電車に乗った。僕は吊り革を掴んで本を読んでいる。途中の駅で電車が止まってドアが開いたとき、隣にいた10歳やそこらの男の子が耳を疑うようなセリフを言った。同伴の若い女性(先生か?)に向き直って、「それじゃ、おつかれさまです」なんて言って会釈をするのだ。目線を本から上げて、電車を降りた男の子を一瞬見てから、僕はなんだかすごく気が滅入ってしまった。

 大学生が疲れてもいないのに「おつかれ〜」なんていうのはまあいい。イヤな感じがしないでもないが、大学生とはそう言う生き物だ。だけど子供がそんなことを言うと、言い知れぬ焦りというか、悲しみさえ抱かせる。だいいち10歳の男児が疲れたりなんかするもんか。話の要点はそこではないのだが。

 立川駅で降りて屋外に出ると、デパート壁面のスクリーンにデカデカと流れる「"国家"を守る、公務員。」("は筆者注)なんて広告が視界に飛び込む。大げさに溜息を吐いた。


 自分の幼いころの記憶。疲れなんて知らず夕方まで校庭でボールを蹴って、家までの道のりを惜しみながら帰る。友達とどうやって、なんと言って別れたのか、いちいち覚えてもいない。たぶん「じゃあね」とかが普通で、「また明日」とかカッコつけて言ってみたこともあったかも。子供の体から自然に湧いてくるような、混じり気のないやりとりがあったのだと思う。目上の人が相手だとしても、「さよなら」がここ二百年あまりの標準だったはずだ。これも自然に感じられる。

 「おつかれさまです」。これは単純に、子供の背伸びなのだろうか。あるいは言葉が変遷するだけなのか。言葉は集合的な合意のもと変わるものだから、古い言葉に固執するのは控えたいと思う。だけどこの「おつかれさまです」は、そういうものとして受け入れていいようには思えない。少なくとも僕にとっては、胸騒ぎを掻き立てる経験だった。美しい少年時代が崩れていって、もう二度と戻らないような、そんな胸騒ぎだ。


 子供の言葉なんて、考える前に出てくるものでいい。先生に「お母さん」って言っちゃうくらいでいいじゃないか。言葉の泉さえも濁してしまう世相が、「おつかれさまです」に現れたのだろうか。これは一体どういう現象だろう。

 まず「おつかれさま」が使われるべき場面として考えられるのが、仕事の終わった相手をねぎらうときであることに、意義はないと思う。これは僕なりの解釈になるが、「おつかれさま」は、公から私に戻る合図でもある。「おつかれさま」が使われるのはもっぱら公が終わった後であって、大学生どうしが別れ際に言うのは、バイトなんかで身につける「おつかれ〜」の派生系だと言える。お手伝いが終わった子供に母親が「おつかれさま」なんて言うのも、働くことの再現、つまりおままごとのようなものではないだろうか。

 公から私への切り替わりの合図を、日常のやりとりで使うなんてよそよそしいじゃないか。それまでのやりとりが業務のように片付けられてしまう。大学生が言うならかわいいものだが(これはある種のルールであり、ちょっと大人ぶったカッコつけでもある)、小学生が言うと、とたんに薄ら寒くなる。すごく機械的で、業務的で、人間の温もりが感じられない。仕事をしていたわけでもあるまいに。

 どこでこんな言葉を学んだのだろう。僕は高校の部活の初日で「おつかれぃ」と先輩に言われ、なんて返せばいいかわからなくてモジモジした記憶がある(ほんの5年前のこと)。おおかたインターネットで氾濫するコンテンツから吸収したのだろう。ユーチューバーとか「おつかれ〜」って言ってそうだもんな。


 子供の内にある「じゃあね」「さよなら」というささやかな自然さえもが、人間味のない記号に組み換えられてしまう。イヤな感じだ。

 世の中を覆う不気味な空気が口を開けている。どこかの島の草木をはじめ、そのへんの八百屋なんかと一緒に、内面にある自由や自然が、そいつに呑み込まれてしまうような予感がする。そんな想像ができるようになってしまった。

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