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読書記録「歌に私は泣くだらう」

永田和宏「歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年」新潮社 2012年

細胞生物学者で歌人の永田和宏さんが、同じく歌人で妻の河野裕子さんを2010年に亡くすまでの10年間をお二人の歌とともに振り返った一冊。
最近テレビで永田さんをお見かけするまで、お二人のことを知らなかった。
河野さんのことを語る姿を見て、二人の関係性と絆に興味を持ってこの本を読んでみることにした。
深すぎる絆で結ばれた二人の人生、闘病生活、家族のこと、歌への思いなど様々なことが書かれており、久しぶりに時間を忘れて夢中で読んでしまった。
都度出てくる京都の地名にも家族の存在が身近に感じられて、生々しかった。これは物語ではなく、すぐそこで起きていた実在の生活なんだ。
とにかく歌から伝わってくる痛いほどのお互いへの思いに圧倒された。
文章の方が込められる文字数も情報量も多いはずなのに、短歌に込められた想いを超えることはできないように感じた。

強く愛し合い続けた二人を羨ましく思う一方で、愛する人を亡くす悲しみがこんなに大きいなら自分は耐えられないかもしれない、とも思う。
それならいっそ孤独に思い残すことなく死ねたら楽だろうと。
自分が死ぬことの悲しみより、愛する人を残していかなければならない悲しみ、残された側が亡くした人の思い出と共に生きていかなければならない悲しみの方が大きい。
自分はそんな人に出会えるだろうか。

また、癌という病気から自分の祖父母と両親のことを思い出した。
祖父母は共に癌で亡くなった。10年以上経つし、まだ幼かった私は2人の衰えていく様子や闘病の様子をあまり覚えていない。しかし、祖母が先に亡くなってから、後を追うように祖父も逝ってしまった。愛する人を失って生きる気力が尽きてしまったのだろうか。
この時の祖父の悲しみは計り知れない。でもこの本を読んで、少し想像することができた。祖父母にとって最大限幸せな人生だったら良かったと思う。

河野さんは64歳で亡くなった。母もその年齢に近づいてきて、その姿を重ね合わせてしまった。母が今癌を宣告されたら自分に何ができるだろう。母がいなくなってからもその存在を残せるように、書いたり撮ったりするのだろうか。
人の死は、残された人たちがいなくなって、忘れ去られてしまった時に初めて訪れる。誰かが覚えてくれている間は、その人の中で生き続けることができる。
誰にも訪れる死というものに初めて恐れを感じる。残された自分が生きていかなければ、故人を殺してしまう。大事な人を亡くした時、思い出の中で生きられるよう強くいてあげられるだろうか。

やはり永田さんが羨ましい。最愛の人が残した歌に泣きながら、新たな歌の中で故人を生かし続けてあげられるから。

美しい短歌を通して、愛と死について考えた。答えは出ないが、他の歌集も手に取ってみたいと思う。

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