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忘我の世界

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一遍上人が法灯国師と会った時
こう歌を詠みました

となふれば
仏も我もなかりけり
南無阿弥陀仏の
声ばかりして

すると、法灯国師はこう言いました
「下の句に、何か工夫をされたらどうか?」

その後、一遍上人は熊野に籠り、21日の修行をされて
また、法灯国師のもとに立ち寄り、再び歌を詠みました

となふれば
仏も我も無かりけり
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

国師は
これです!これです
と、何度もうなずかれた

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忘我の境地とは
一体どのようなモノだろうと考えた時に
一つの歌を思い出す

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
わが身さへこそゆるがるれ

梁塵秘抄(りょうじんひしょう)にある歌で
何年か前の大河ドラマ「平清盛」でも
テーマとなっていた歌

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お昼に近所の公園に行くと
桜が咲いていて
たくさんの子供たちが遊んでいた

コロナウィルスの事もあり、学校がお休みになったので
子供たちは、思い思いに遊んでいる

小さい頃、学校帰りに遊びに夢中で
夕方5時を知らせるサイレンを聞いて
ハッと我に返ると

青空でキラキラしていた公園だったはずなのに
あたり一帯が夕焼け色に染まり
公園の遊具の影が黒く長くのび
これから夜が来ることを知らせていて

ちょっと、足をはめて家へと帰った事を思い出す

遊んでいる間
他の事なんて全く考えても
見えてもなかった

ただ、ひたすら目の前のことに夢中で
我を忘れて遊んでいた

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「自分は何のために、この仕事をしているんだろう」

「自分は何のために、生まれてきたんだろう」

「自分のやりたい事って、何だろう」

大人になって、そういうことを考える人も
子供のころは、ただ遊ぶことに必死だったと思う

良くも悪くも「自分」という意識が強くなり
それによって、「我」が強くなり
それ故に、悩みも生まれる

「南無阿弥陀仏の 声ばかりして」から
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」への変化は

まだ声を聞いている「我」が残っている状態をはなれるという事は
このあたりにヒントがあるのかもしれない

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