見出し画像

学校の方向性:こだわりの整理

しばらく学校創りに関する記事が滞っておりました。
というのも、9月に本務校の新学期が始まってから次から次へと舞い込むトラブルと雑務。想定外のライフイベントの多発。
仕事に、家族に、夢にと、どれも捨てられずにいれば、必ずどれかが息詰まるというのは必然でした・・・

というわけで、学校作りは事業案も含めて暗礁に乗り上げっぱなしです(涙

が、逆に余分なものが削ぎ落とされて学校の方向性も見えてきたので、今回はそれを整理していきたいと思います。(2回に渡ります)


譲れないこだわり

わたしには、どうしても譲れないこだわりが3つあります。
学校として子供達のキャリアパスが保証された存在であること。
多言語多文化背景を持つ外国につながる子どもたちが当たり前に存在している学校文化と、彼らの言語教育を多方面から支えるカリキュラムを設定すること。
③子どもたちの「なぜ」「なに」「どうやって」が常に渦巻く能動的な学習者中心の学習環境を整えること。

それぞれについて、項に分けてお話していこうと思います。

キャリアパスが保証された学校であること

多様な家庭環境にいる子どもたちでも必ず通える保証のある公立学校。
現代の子どもたちのニーズに応えるためのフリースクールやオルタナティブスクール。
どこにいても授業を受けることができるオンラインスクール。
この数年で、「学校」の形もニーズに合わせて本当に様々になりました。

これらの学校について俯瞰しながら、どんな形でも必ず守らなければならないと思うのが子どもたちのキャリアパス、つまり卒業後の進路です。

公立の小中学校や日本の私立学校に通っていると心配することはほぼないのですが、たとえば、私の勤務するインターナショナルスクールは法的には「学校」とは認められていません。つまり、ただうちにボヤッと通っているだけでは、日本の学校の卒業資格は認められません

株式会社の運営する「私塾」の一つとして社会では認識されるため、解決策としては地元の所属予定だった小中学校に本校に通っていることを報告し、その学校の校長先生(あるいはそのエリアの教育委員会)と相談をして本校を卒業することで公立小中学校を卒業したのと同じ資格を得たと認めてもらえるようにしなければなりません。(今もあるかわかりませんが、数年前は認められないケースもありました)
条件は地域によって様々で、「その学校を卒業すればOK」というところもあれば「長期休暇前に1週間ほど登校すること」「定期的に公立担任と面談すること」「学校指定の課題を提出すること」などを聞いたことがあります。

これを保護者の方個人で交渉するの、めっちゃ大変だと思うのです。

こうした現状から、どうせ学校を開くなら、「この学校を卒業したならOK」というお墨付きが必要。きちんとキャリアパスが保証されているものにしなければという使命を感じています。

そのために、私ができることはなんだろう。
やはり、教育委員会や市の教育担当、地元の教育関係者に認知してもらえるような存在にならなければ。とっても苦手だけど、営業活動もしなくちゃだ。そして初めからは無理でも、設立後必ず、学校法人認定にチャレンジしたいです。

多言語多文化の存在が当たり前の学校であること

1つ目のキャリアパスの話は、学校として不可欠な要素として挙げた話ですが、この2つ目は私のライフワークとして不可欠な要素と言えます。

なんどかnoteでも書いてきたように、インターナショナルスクールといえども実態は全然「インターナショナル」でも「グローバル」でもないことがあります。今の勤務校は、はっきり言って英語偏重主義です。(運営母体の影響もあるので仕方ない)
先生方や在籍生徒の国籍が多様であれば「国際的」なのか。答えはNOです。
いろいろなアクセントの英語が許容されているとしても、「この学校にいる間に話していいのは英語だけ」「インターに来たのだから日本語は話さないでほしい」というのは、私には「ここは日本の学校なんだから日本語で話さなければいけない」「日本の学校なんだからポルトガル語(スペイン語/中国語など)を話すのはおかしい」というのと同等で、どうも国際人的な感覚からかけ離れているとしか思えないのです。

効率よく目標言語を習得させるためにこうした手法が現場では主流になっていますが、残念ながら、無理やりに詰め込んだしわ寄せは必ず他のところに出てきます
母語の喪失、母語と目標言語のどちらも不安定となるセミリンガル状態、アイデンティティの崩壊、帰属意識の希薄化、特定の言語文化に対する偏見など。

言葉と思考、言葉と心はつながっている。
これは私の信念です。

共通語の必要性は否定できないけれど、学校文化として複数の言語が尊重され柔軟に存在しており、ひいては複数の文化が尊重されているべきです。
「韓国学校」「中華学校」「独逸学園」「フランス学校」と、ナショナリティが限定されているならまだしも、母国およびホスト国としての日本語日本文化世界共通語としての英語と洋式文化、そして各々のバックグラウンドを支える母語・継承語と各国文化子どものアイデンティテイを支える3本柱となる。そんな「日本式インターナショナルスクール」があってもいいんじゃないか。この点は、どうしても譲れないポイントです。

学習者中心の学習環境がある学校であること

ここはもう私個人でどうにかできる話ではなくなってしまうのですが、心がけたい点としてこれからの学校に不可欠な要素です。

結局、学んでいるのはだれなのかという話。それだけです。
「私が教えたい」とか「大事だから教えなくちゃ」とか、「これだけは伝えなくちゃ」といった気持ちを全面に押し出して、なんのしかけもなく子ども達に熱弁したところで、心には響かないのです。

「学習者中心」はもう何年も教育分野の論文では当たり前のように使われてきて、「みんなもちろんやってるよね!」みたいなテンションで使われている用語になりますが、実態としては、子供のためを謳った先生のための授業、先生のための発表の場となってしまうことが往々にしてあると思います。先生の技量の問題だけでなく、システムの問題であったり、業務量の問題であったり原因は色々ですが、とにかくそれだけは避けたい。

文部科学省でも「個別最適化された学び」をするように言っていますが、その教え方についての研修だったり、勉強会だったり、そういうことに時間を割く余裕が教員サイドにも必要だなと思うのです。
学ぶ側の余裕と、学びをファシリテートする側の余裕。どちらも守っていきたいです。

次回へ

今回こうして書き直したのは、様々な取り組みが日本国内でもされ始め、教育の在り方がより活発に議論されるようになった中で、自分の軸がぶれ始めてきてしまったと感じたからです。

今の日本の教育環境は、お世辞にも素晴らしいものだと胸を張って世界に示せるものではないでしょう。
それでも、現場の先生方や、研究者の方々、学校コミュニティを支える方々の声が積み上げてきたものは、とても大きく尊いものです。

多様なニーズが叫ばれるようになった中、それぞれの分野の専門家として子どもたちの居場所を作っていく動きになってきたのかなと思います。

だとすれば、私にできるのはどんな子どもたちのための居場所つくりか。
私にできるのは、外国につながる子どもたちとその家族のための居場所作りです。得意分野は多言語多文化環境で学習をする子どもたち。

というわけで、次回はより具体的な内容へ進んでいこうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?