絵を描く時に邪魔な物

大学に入りたての頃は、絵は伝わってなんぼのものだと思っていました。年を重ねるごとに、だんだんそれが真逆になってきています。それはなんでだろうなと思いました。
どうして伝わる絵が良いと思ったのか、それは美術予備校で過ごした三年間がこびりついていたからです。
予備校では、とにかく裏ワザみたいなのとか構図が決まっていたり、やっちゃいけないルールがたくさんあったりしました。当たり前ですが自由度がありません。
藝大の日本画の試験は石膏デッサンと静物着彩です。ざっくり言うとどちらもモチーフを本物みたいに描いて競うものです。「自分の見たモチーフを具体的に正確に説明する」これを全て絵で表します。しかもただ正確にだけでなく、ちょっと話を盛らなくてはいけません。花は本物より美しく、食べ物は美味しそうに、自然に見えるように描きます。少しでも説明が上手く行かなければ試験に落ちる可能性が高くなります。ごまかしたら見抜かれてしまいます。この、美化をする仕事が、私には苦痛で仕方ありませんでした。絵に嘘をつけない、嘘をついたら嘘の絵になる。みんなどうしてこんなに、上手くて美しくて心のない絵を描き続けるんだろう、どうしてそんな絵が受かるんだろう。自分が苦しい理由に気づくのに2年ほどかかってしまいました。

藝大を目指す人達は毎日毎日、石膏デッサン、着彩、を交互にやり続ける生活をします。同じ部屋で毎日。
私は藝大をなんとなく目指していました。周りに同調していたのでしょう。何の疑問も持たず毎日毎日、よくわからない石と綺麗だと思えない花を描いていました。いつまで経っても上手い人と同じように描けるようにならなくて、みんなと違うと順位は下がるばかり。同じような毎日を過ごして、変な固定観念が染み付いたようです。それが、伝える、説明するということ。これが大学に入ってから途中で邪魔なことに気づきました。石膏デッサンと静物着彩はサポーターのようなものでした。それが外れた途端に自由に近づいたのです。
今までやってはいけなかったことを、やっていいこととして受け入れることで、私自身に絵が近づいた気がしました。でも外したサポーターはたまにつけないと困るくらいには必要なものです。
私の表現したいものは伝えるのが難しいものでした。ただ、伝えることに重きを置かなくていいと思ったのです。それよりも大事だったのは美しいと思った情景のイメージに寄り添うことでした。何が自分にとって魅力的に映ったのかをひたすら絵を見ながら自分に問いかけることが、大学から新たに芽生えた能力です。受験期はそれに気づかずただルールに縛られて描いていただけでした。美しいと思えない物はどうやっても美しくは描けない。どうりで魅力的な絵が描けなかったわけです。ただ絵画となると、収まりの良い構図や色のバランス、りんごの描き方などの予備校でのノウハウは少し余計なのです。もちろん役に立つものですが、この基本のルールに縛られると私自身を発揮できないのです。教授が、愛する人を描くと必ず良いものが描けると言っていたが、それは本当にそうだと思う。大切なのはその対象をどう見ているかであり、筆と心をどれだけ一体化できるかだと思う。伝えるためにわざとらしい説明はいらない。言葉がいらないような部分を絵で必要としているはずなのです。

あと、絵は「わからない」があったほうが私は面白いです。感じるものが違う形で受け取られたとしても、深く探してくれたのなら嬉しいです。やり過ごされるのは寂しいです。
それが絵に現れる今の自分の人間像かもしれません。

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