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36歳、コネ入社

こちらはエンジニアと人生コミュニティメンバーによるAdvent Calender2020 16日目の記事です。これまでの記事を読む際はこちらから。

なお今回の記事に技術要素は皆無です。
プログラマーのエリアに身を置いてみた7ヶ月強とその前後の話です。

「やりたいこと」と「やってみたいこと」


好きなことや趣味、たくさんあります。
やってみたいこと、たくさんあります。

ただ、やりたいことは見つかってない人間だったりします。


 現在37歳になった僕ですが、「人生」というとそこそこ長く感じられ、しかし「エンジニアとしての人生」というと7ヶ月ちょっと。赤ん坊でいうと首が据わりはじめてちょっとしたくらいですね。さあこの”帯に短し、たすきに長し”な状態で一体なにを書いたらと迷うところですが、サクサク行ってみましょう。

 短いながら僕のエンジニア(以降はプログラマーと言い換えます)人生における、最初のターニングポイントはこちらを読んでもらえたらと思います。

大嫌いだったJavaScriptがプログラミングの楽しさを教えてくれた

 いまでも会社の戦力になっていないと焦る日々はあるものの、ここの前後で「時間をかけてもできない」から「時間をかければできるはず」の心持ちに代わりました。当時はかなりきつかった精神状態ですが、でも歯を食いしばれたのはちょっと過去のこともあったりします。それは前職をやめて、祖父の介護とまではいわずとも一緒に暮らし始めて、でも3年目にギブアップ宣言をした話をしなければなりません。

 過去の職は自動車部品メーカーで化学系開発業務をしていました。でも辞めました。それは悶々と「あと30年くらいこの風景を見続けることはできないなあ」と思ったり、「さてこの会社を出たときに自分に何ができるんだ?」 

──手に職がない──

 先の先の、もうちょっと先、おおきなエアポケットが潜んでいるような予感は入社2年目からどんどんと膨らんでいきます。

 小説を書きました。動画編集をしました。ビジネススクールに通ったりしました。朝活に参加しました。いろいろな人に会いました。

 でも「やってみたい」が先行して「これをやりたい」は見つかりません。で、そんなこんなで運と人に恵まれ、とりあえず会社でそれなりの成果を出したので、もうええやろと次を見据えずに辞めてしまいます。(見切り発車もいいとこです)

祖父との暮らしから離れる

 で、そのころ祖父は持ち家に一人で暮らしていたのもあり、僕も貯蓄こそあれ収入は無くなるので転がり込むことにしました。でも介護とはいかずとも、文化の違いによる共同生活の苦悩が出てきます。僕は嗅覚と聴覚がやや過敏なところがあり、......まあこのへんは割愛しますが、ややつらい状態になっていきます。

 僕はひとり、ライターをしたり、動画制作代行をしたり、みたかったプログラミングの勉強を始め、ホームページを作るひとり会社を始めます。

 しかし、祖父と一緒だと騒音と生活リズムの関係、そもそもの自分のダメさ加減もあって仕事がうまくできません。甘えと言われたらそれまでですが、本当に環境的にダメでした。子育てしつつとか介護しながら働いている人は本当にすごいことだと思います。でも一番つらいのはつらいをわかってくれる人が近くにいないことでした。

 なのであるとき、「〇〇に祖父の家を出るからね」と家族会議を開いてまで両親に伝えました。しかし、ある時に何気ない会話でそれをもういちど伝えた際「あれ、そうなの!?」と母から言われた言葉に、たくさんのものが瓦解したのを覚えています。

 その前後のタイミングで、叔母が知り合いの会社が人を探しているということで、僕はそこに背伸びして入ります。営業的な役割かと思いきや「プログラミングしてください」と言われて、心が跳ねました。家を出ることは祖父には申し訳ないと思いつつも、いろいろと手続きをして、免許も完全に返納してもらい、家族にも危機感が出たのかその辺の連携が生まれ、いろいろ整って僕はようやく、借りたワンルームの部屋で初めて夜を迎えたとき、自分の時間が戻ってきたと懐かしさを覚えました。

 いまも祖父は元気ですし、母も自営業しつつも叔母と連携取りながら祖父を見てくれており、僕も月に何回かは帰って顔を見せてます。

地獄のような天国の環境

 入った会社はSE系ともいえるし、僕はフロント側なのでweb系だったりとも言えたり、とにかく幅広い勉強が必要になりました。しかし皆一様に忙しく、振られる言語は僕が初めてのケース等もあり、夜遅くまで残る日々。

 つらかったけど本当に楽しかった。

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(6月から始めた学習計画スケッチブック。非常に広い範囲を押さえる必要があった)

 会社はたぶん面倒見る余裕がないということで放任してくださったので、勉強法やら相談相手こそ自分で見つけなければいけませんでしたが、24時間、静かで、使っていい環境があって、自分の面倒だけ見ればいい(決めた時間に食事をしなくていい)。家に帰ってもUdemyだ、本だ、Kindleだ、わからんけど写経だと、そんな環境は本当に猛進できた環境でした。(頑張りすぎて熱を出し、コロナ疑惑で迷惑かけたのはまあ……うん、すいませんでした)

 短納期の時は「もうだめだ」とか泣いたら楽になるかな、とか本当に知恵熱で頭が壊れると思ったり、自分の能力の低さに死にたくなることもままあります。そんな紙一重で綱渡りな日を経つつも、まだいちおう会社に籍はあるし、仕事も振ってもらえています。ほかの方も仲良くしてくださいます。きつい瞬間も来るし、辞めた方がいいと思ったこともあるけど、でも僕は、

地獄とはいえ、こういうプレッシャーが欲しかった。

 自分が好きすぎて、できない自分が嫌いだった。

だからそんな環境に身を置きたかった。

 最近でこそ、心が持ちませんからもうそろそろ、ほどほどでお願いしますと願いつつも。おかげでプログラミング知識も遅いなり浅いなりに読み解けるようになってきて、37歳になった今ですら、まだなお出来ることが増えていく嬉しさに心が満ちていくのです。

 以前は「こんなことができたらいいのに……」が「がんばれば、自分で作れるんじゃないか?」と思えるようになったのですから、プログラミングの可能性たるや。そして人間、手に職をもつ安堵感の大きさたるや。

 昔見ていたあのエアポケット。視線の先からちょっとずつ逸れ始めている気がします。まだまだ自分の航路は足を止めればすぐ墜落していきそうな不安定なよわよわ状態ですが、

まあこれからよ、と思ったり

ぼちぼち漕いでいこうじゃないの

 と、プログラミングとその道の先を走るたくさんの技術者の皆様が、僕に前向きな気持ちを与えてくれています。その節はありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。


プログラミングは年々新しくなる。だから勉強し続けなければいけない

 最高じゃないか。

 初めて聞いたとき、僕はそう思いました。
僕の喜びは、《作る》《学ぶ》《貢献する》です。
皆さんの喜びは何でしょう?

プログラミングはこれができる。
し続けられる。

だから今でもこう思います。

 最高じゃないか。(2回目)


じつはまだ「やりたいこと」は見つかってません。


 そんな経験を通じても、まだ僕の生涯通じての「やりたいこと」は見つかってません。もう遅いのかもしれませんねw でもプログラミングを通じてさらに「やってみたいこと」が増えてしまいました。これからもヒマになることはなさそうです。

 最近こっそり、出会った素人メンバー3人とメンター一人でベンチャー的なシードステージを始めました。手を挙げた手前、推し進めつつもこの歳になると「時には流れ着くところまで流されてみても面白いかなー」と思ったりしています。

まだできない。でもできるようにはなるはず。
できなくても、人にどう伝えるかの知識は備わり始めたはず。
作るつらさはこれまでにいくつも経験した。
プログラミングでも経験した。

だからきっと、人と話せる。
いざとなったら誰かに頼れる。

 プログラミングでこうも人間の心持ちは変わるのかと、ここまで書いててちょっとびっくりしています。

『エンジニアと人生』というテーマは、やっぱりまだプログラマー経験の浅い僕には纏めきれないまま結構な量になってしまいましたが、願わくばいつまでもプログラミングとともに人生を歩んでいけたら面白いかなと思います。

 遅まきながら出会って、飽きっぽい僕が「これならきっと飽きることがない」と確信めいた気持ちは、いまのところ正解だったようです

 これからも正解であってほしいなと思いつつ、そろそろこのへんでこの話を結ばせていただきます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。心から感謝いたします!!


 次回は、オランダ出国者さんの記事です。この、エンジニアと人生コミュニティメンバーによるAdvent Calender2020 はクリスマスまで続きます。引き続き、多種多様なエンジニアな人生模様の記事をお楽しみください♪

明石多朗はペンネームです。たっぷり朗らか、と書いて「多朗」です。太郎と間違えられますが画数がとてもよいので間違えないでください。 多朗です。