利己(≒排他)的な人たちよ、さようなら

自分中心の言動を公然と発する家族が増えてきた気がする。少なくとも私がそういう人たちを見る機会が、私の子供時代より増えた。

例えば、最近のコロナウイルス騒動で不足しているといわれているマスクやアルコール消毒液について、ある婦人が家族との会話で、「買い占めようとしたら店員に『お一人様2つまでです』と止められたよ。初めに2つ買ってまた戻って知らんぷりして買えばよかったわ」と言う。他人の私にも聞こえる場で。

またある人たちは、食事の持ち込みが禁じられている狭い公共の部屋で、他の家族もいる中、食事を持ち込み、自分たち親族大勢で会食をする。うるさければ他の人が出ていけばよい、という考えだ。これには私が即座に訴え、若干改善された。

他にも、私の入院時、同室だったある老人は、「まあ俺は〇才代(=私の年代)とかで病気にならなくてよかったよ」と、私に聞こえることを承知で、家族にそんな話をする。

自分とその家族や仲間が得をし、他の人は損をさせる。それが彼らに共通する価値観だ。換言すれば、「自分の幸福は他者との比較においてしか成り立たない」という未成熟な人生観の表れだ。状況をゼロサムゲームでしか捉えられず、安直に利己的行動に走る。

ことが重大だと思うのは、そうした言動を青少年でなくその親・祖父母世代が率先していることだ。私はまだ若い方の世代だけど、憂うよこの先の社会を。


その一方で、相手を含めた全体の最適化をモットーとし、そのために行動する人々が確かにいる。

例えば、私が誰も経験のない仕事で困っていたときに、ある他部署の先輩が「うーん、わかんないねえ」と言いながら隣に座り込んで深夜まで作業に付き合ってくれた。先輩の作業自体は足しにならなかったけど、あの時の寄り添いがなかったら、私はあの仕事を達成できなかった。

また、ある病状を診てもらうために行った病院で、そこの院長である老医師は私にこう言った。「今は君の仕事が求められている。君の症状は緊急に対処が必要というわけではない。仕事が落ち着いたら、ゆっくり診察にくるといい」この医師を、私は人生の師と仰ぐことにした。



私が見るものは私が選べる。人生の師よこれからもよろしくお願いします。利己的な人たちよさようなら。

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