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食虫植物のニーナ

 鬱蒼と繁る緑。ただ、半分人工。初夏を感じさせる日の光が、ガラス張りのドームに差し込む。じんわり汗をかくような気温だ。
熱帯地方に生育する植物が、3階層になっているドームの中で群生している。足元には、植物の名前が書かれている看板が並ぶ。
「ほら!カカオの実なってるよ!これ中身潰してチョコにするんだっけ?」
「あぁ。そうじゃない?」
俺は上の空でニーナの発見を往なす。
「リク聞いてんの!?ほら、ここ撮って!」
ニーナは虫眼鏡を持っているかのように、近付いたり離れたりして、実がひとつだけなっているカカオの木を観察している。彼女のスマホのカメラが壊れているから、撮影担当は専ら俺だ。
 ゴールデンウィークにたまたま仕事の都合が付き、ニーナと俺は一泊二日の温泉旅行に来た。宿から歩いて行ける距離に植物園があると知り、訪れた。わざわざこの為に来た訳ではないが、なかなか趣深い場所だ。この時期にしては客が全くいない。そんな場所で、俺はずっとタイミングを見計っている。ニーナに恋人関係になろう、と言おうと。
「これ滅多に咲かない花のやつじゃない?何年くらいこのままなんだろう?」
ニーナは聞き慣れない名前の植物の前で腕組みをしている。三十代とは思えない落ち着きのなさで、自分の背より高い、そびえ立った赤みのある緑を前から、横から、と見つめている。昨日の夜からはとても想像の付かない無邪気さだ、と一人で思い出して、自分の顔が赤らむのを感じる。
「可愛い子いる?新入社員。」
次の植物を観察しながら、こちらを向かずにふいにニーナが訊ねた。
 かれこれ彼女とは十年以上の仲になるが、毎年この時期に訊かれている気がする。恋人関係になったような時期はあれど、はっきりしないまま今に到っている俺達。好きな人や恋人ができたら少し妬いてしまうのはお互いそうらしい。
「処女がいた。」
おどけて答える。
「何で知ってんだよ!狙ってんのか!」
 歩いていると、もう植物の階層は終わって、ドーム内の小屋のようなところに入った。光が届かない薄暗い通路の横に、飼育ケースが並んでいる。
「タランチュラだよ!毛深いねえ。あんまり動かない分には、このでかさでも怖くないね。待ち受けにするから、上手く撮ってよ!」
さっきの話題はもう終わったらしい。ニーナに言われて、ケースの中で憮然としている、ように見える生命を画角に収める。カシャッという音にも動じないそれに、人々が一般的に言うタランチュラの怖さ、とはまた違った怖さを感じる。この生命体は何を考えているのだろう。
「良い良い!リク写真上手!送ってね!」
スマホを覗き込んでニーナはご満悦だ。そして向き直り、トカゲは興味ない、と呟くと、ケースが並んでいる通路を足早に通りすぎて行った。
 追いかけてドームを出ると、外は既に日が翳っていて、少しひんやりとしていた。上着を着込み直して先を見ると、建物があった。横に『ドクターフィッシュはこちら』と幟が立っている。
「あれだよあれ!!」
と、また三十代には見えないはしゃぎっぷりで、ニーナは絶叫した。スマホで調べて、やりたいと言っていたやつだ。水槽に足や手を浸けて、魚に角質を食べてもらうものだ。
トカゲをスルーした時よりも足早に、建物の中に入る。番頭さんのような人にお金を払って、二人で靴を脱いで、服の裾を上げる。
「今日は食虫植物の柄の靴下です!さっきいたやつ!」
ニーナは嬉々として、花と食虫植物が描かれた靴下を自慢している。それを脱ぐと、丁寧にまとめて、横に置いた。俺も靴下を脱ぐ。
二人で水槽のへりに座り、魚がたくさん泳いでいる水槽に足を浸ける。すぐに魚たちが足に寄って来ては、つついていく。
「何かくすぐったいな!ニーナの方が魚いっぱい集まってないか!?」
俺の方がテンションが上がって言う。
「そんなことはない!」
と一言ニーナは言ったきり、静かになった。さっきのテンションはどうした、思ったよりつまらなかったのか、と顔を覗くと、ニーナはじっと水面を見つめていた。俺も言うことがなくなって、ゆらゆら揺れる水面を見つめる。
 何分経ったか分からない。水槽のポンプの音か、魚がつついている音か、ポクポクという音だけが聞こえる。それはやがて、俺の心臓の音と重なる。切り出そう。と思ったと同時に、俺の置いていた手にニーナの手が重なる。ニーナは水面を見つめたままだ。そして俺の人差し指の節を優しくなぞる。
「ニーナさあ、今好きな人とかいるの?」
高校生かよ、我ながら言葉のチョイスを恨む。なるべく明るく言ったつもりだったが、調子がおかしくなってしまった。
「いるよ。」
ニコッと笑う。俺はその笑顔に安心して、用意していた次の言葉を続けようとする。
「だから昨日みたいなことはもうできない。」
「えっ…。」
血の気が引いていくのを感じる。長い付き合いで分かる。意志が固い時のニーナの顔だ。
「それは彼氏でもできたの?」
明るく、明るく、と徹するが無駄に終わる。必死さが重なった手から伝わりそうだ。
「ううん。女の子。これからずっと大切にしたいんだ。」
ニーナは手を離して、水槽に手を浸ける。魚たちが、スイスイとそちらにも寄っていく。
「私達もっと早くしてればね。そろそろ行こうか。」と続ける。俺は泣きそうになる。店員にタオルを借りて、空虚な足を拭く。
「食虫植物!」
ニーナはそう言って、今日一番の笑顔で靴下を見せて履いている。
二人並んで建物を出ると、さっきよりも空が暗くなっていた。赤と紫の間くらいの空。どのくらい一緒にいただろう。帰ろうかニーナ。食虫植物のニーナ。

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