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意味への臆病

運命を直感した詩は母親に「よくわからない」と一蹴されて

私は時々、詩を読んで「あああああああああ、出会ってしまった…」と感じる体験をします。私は運命の糸で引っ張られ、ついにこの詩に出会ったのだ、という。この世の美しくも醜い万象について、静かに鋭く言い当てる彼ら(詩は人格を持っていると思いますので彼ら、とします)は、私から原初的な快の感覚以外の全てを奪ってゆきます。名状し難い充足感と多幸感。この内的な動きを「心が編まれる」と(私は個人的に)形容しているですが、それについては前回のnoteをご覧くださいませ。

今回の短歌が問題になるのは、その後です、「心が編まれた」後。往々にして、私は自分以外の他者にその詩を共有したくなります。それはときには親友だったり、ときには尊敬する方だったりするのですが、自宅にいる時は母親が対象となります。「ねえねえカーチャン、この詩読んでみて」みたいな具合で。

私のカーチャンは優しいので私の興奮を受けてしっかり詩を読んでくれるのですが…読み終えたあと「うーん、よく分からんな…」みたいに、ひやん、と言われることもあります。こういうとき、私は自分の皮膚が結露するような感覚を覚えるのです。体の内側を摂氏100度くらいに熱らせた私と、常温の母上。温度差が凄まじい。自分が熱を覚えるものに、相手も同じように熱を覚えるとは限らないのですね。

私とあなたとは違う」という、当たり前の事実。この事実に引きずられ、私は時々、事象に価値・意味を付与することに臆病になってしまいます。今回は、なぜ、私が臆病になったのか、その理由と、打破するための思考の現在地を記そうと思います。

「考える」とは、意味を与えること

いきなりですが、「考える」とき、私たちには何が起きているのでしょうか。少しだけこの命題について、未熟ながらも論じさせてください。

ではまずここで問題です。「この絵には、何が描かれていますか?」

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何と答えられたでしょうか。「羊飼い」「地平線」「雪原の様子」「灰色の物体」などなど、いろいろあると思いますが、大事なのは、この問題を考えるとき、あなたはきっと、言葉を使ったのだということです。(ちなみにこの絵はアントン・マウフェの「雪の中の羊飼いと羊の群れ」という作品です。ハーグ派大好き。いやそんなことはどうでもいい。)

考えるとき、私たちは必ず言葉を必要とします。言葉を使って考えます。そして言葉を使うということは、意味を与えるということだ、と私は考えています。例えば、絵に何が描かれているか考えて、右上にいる黒く細長いのを見つけて「羊飼いだ」といったとします。その瞬間に、あの黒く細長いのは「羊飼い」として表現され、「羊飼い」という意味を与えられることになります。

多元的な世界

私たちは多元的な世界に生きています。
多元的、と大辞林でひくとこのように出てきます。

【多元的】-   考えや事物のもととなる立場・要素が多くあるさま。

この定義に基づいて分解してみると、多元的の「元」は、「考えや事物の元となる立場・要素」を指し示しているはずです。
では、「考えや事物の元となる立場や考え方・要素」とは一体何でしょうか。パッと思いつくのは以下のようなことです。

法律/宗教/行動規範/文化/言説/自身の経験

エトセトラ 。ところどころ概念的なダブリや連関がありますが、とりあえずざくっと分けてみました。他にもあるでしょうが、これらに基づいて、私たちは考える:つまりは、事象に意味を与えようとします。

ただ、ここで留意しなくてはいけないのは、この世の中にはたくさんの法律があり、宗教があり、文化があるということです。経験なんて、一人一人で千差万別です。考えるときに依拠する元が違えば、帰結、つまり事象に与えられる意味も変わってきます。

自分の意味は普遍ではない

日常、自分と似たような人たちと似たような生活を送っていると、だんだんと「自分が事象に与える意味は普遍的なものである」という錯覚を起こしてしまいがちです。別の言葉で言うならば、ある一つの物事に出会ったとき、「自分が考えるのと同じようにみんな考えるだろう」と思いこんでしまう。でも決してそんなことはないのです。自分と同じ考えを相手にも期待し、ひいては強要することは、時として暴力となります。無自覚の暴力。相手からの抵抗、主張があって初めて、それは暴力であったと気づくことになります。

その主張を受けたとき、私は対象となった事象について、私と違う捉え方を、意味の与え方をする人もいるんだと、とてもびっくりしてしまいます。それが自分にとってあまりにも当たり前でスルーしてきた物事であればあるほど、ああ、私は自分を普遍だと思い込んでいたなあ、と落ち込みます。私って、なんて偏っていて、無知なんだろう、何で、他の意味を与え得る可能性に気付けなかったのだろう、と。

意味への臆病

そして、他にも気付いていないことがあるんじゃないか、と考えているうちに、それが積み重なって、いつしか私は意味を与えることにものすごく臆病になってゆきました。

例えば、先日強盗の事件の犯人が捕まった、というニュースを見た際。私はぼつっと(ああ、ようやく捕まったんか。悪いことしたから捕まって当然だ。)と思ったのですが、そうやって「悪い」と意味づけをした自分に気がついた途端ほとんど反射的に(私にとって強盗は罪だけれど、でもその人にはその人の事情があって、悪いと思わずにやったのかもしれないし、しかたなかったのかもしれない。悪いと決めつけるのは私の一元的な見方だ、いかんいかん)と思い直しました。
でも、そう思い直した途端、もう一人の私が「ってことはお前はあの強盗を支持するんか?え?向こうは法律破っとんぞ」と詰問してきました。うーん、指示するわけではないんだけど…悪い、と決めつけるのも違うし…。私は、にっちもさっちもいかず、心の中で押し黙ってしまいました。

他にも、友人と話していた際「ブランドもののバッグとか、無駄遣いするの全然良くないよな」とさらっと言った後に、(あ、でもこれを無駄だと決めるのは私の価値基準であって、ブランドもののバッグによってアクセス権が保証される場があったりするんだから、一概に無駄だとは言い切れないよな、まずいまずい)と瞬時に思い、「ああ違う、無駄っていうか、ゴニョゴニョ」と言い淀んでしまったこともあります。

自分の与える意味はあまりにも偏ったものである、と考えると、途端に足が竦む感覚になってしまうのです。

じゃあどうすんの?

しばらく、そうやってウジウジしていた私ですが、最近ようやく一つの結論というか、一時的な収まりにたどり着きました。何か決定的な体験があるわけではありませんが、とるに足らないいろんな出来事の積み重ねで、この結論が生成されたのかなと思います。

その結論というのは、ずばりこうです:「選ぶ、ことが大切である」。

「選ぶ」という行為は、二つの条件のもとに成り立ちます。
①:複数個の選択肢を認知する。
②:①から、一つを取り、それ以外は捨てる。

これを、今までの論に当てはめるとどうなるか。
まず、①の段階として、私は事象に意味を与える際に、他の可能性もあるのだということを常に意識しなければならないのだと思います。「みんながこう考えるだろう」という傲りを捨てて、他の意味について考えてみること。これは、とても大切なことだと思います。ただ、この沢山の意味の中に溺れているままでは、先ほど述べた私のようにどんどんと意味に臆病になるだけです。
そこで大事なのが②の段階なのだと思います。その複数個の中から、たった一つを選ぶということ。熟慮の末に、私はこの意味を信じる、この意味のもとで生きていく、と表現するのです。そこには当然責任が伴いますし、他の意味に生きている人からの反感を買ってしまうかもしれません。でも、一つの意味を信じて選ぶことこそが、大切だと、私はそう思うのです。

多元的な世界で、自分の意味を信じ、貫いてまいりたいと思います。

おまけ:関連する書籍一覧

野矢茂樹『初めて考えるときのように』

野矢先生〜〜〜〜〜♡ 私、野矢先生のスティルめちゃくちゃ好きです。デレデレしちゃう。考えるとは、論理とは。について、とてもやさしく書かれていました。電車で、ニヤニヤしながら読みました。

ケネス・J・ガーゲン『現実はいつも対話から生まれる』

去年の冬くらいにこの本を初めて読んだとき、フォウ!今まで私が何となく感じていたこのモヤモヤは、「多元性」という言葉で言い表すことができるんか!と興奮したのを覚えています。社会構成主義、という考え方の入門書です。

バーガー・ルックマン『日常世界の構成』

構築主義の本です。人々の認識の積み重ねにより作られていく日常。私にとっては難しかった。もう少し字を大きくしてくれるだけで読みやすさ変わるのかな、って思うくらいに字が小さめです。

ご挨拶

最後までお読みいただきありがとうございました。ただいま月曜23:39、本日一日今宿は食あたりで七転八倒していたのですが、毎週更新の執念で何とかこのnoteを書き上げました。勢いで書いたので多分論理の穴だらけです…悔しい。いつも以上に自分の思考力と散文力の未熟さを感じてヘニョんとしました。鍛えて、少しづつ前進して参ります!それではまた来週。

あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。