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祈りについて

震災の話をします。

アイへ

久しぶり。元気にしていますか?アメリカの様子はどうですか?
日本では、春がもうすぐそこまで来ているのを確信します。おとめつばきがしっとりと満開だし、まぶたに乗っかる光の粒はまあるいし。多分、あの2個目の角を曲がったところあたりで待っているんだと思う、春。
去年の11月、あなたと最後にあってから、私にはたくさんのことが起きました。まあ、お互いにとって最も盛り上がれるトピックは「恋愛について」だけと思うけれど…笑。本当にもう、大変だったんだから!!!あなたに共有したいことが山のようにある!!!
でも今日は、別のこと、もう少しシリアスで、自分でもまだ答えが出し切れていないことについて書こうと思っている。あなたに手紙を書く中で、自分の気持ちや考えを丁寧に整理できる気がして。

あなたも知っている通り、今日は2020年3月11日、そう、東日本大震災が起きてからちょうど9年がたった。震災当時、私はまだ11歳だったから当時の様子を詳細に覚えているわけではないけれど、でも、テレビを通して焼き付けたあの時の「色」の印象は、記憶にこびりついて離れない。それは白に近いほどに眩しすぎる炎の赤だったり、反対にずっと鈍くて、重くて、暗い海の青だったりした。次々に映し出されるその色を、恐ろしく思いながら見つめていた時のあの感覚だけは、今でも鮮明に覚えている。
それから9年が経った今日は一人で、家にいて本を読んでいたのだけれど。ああ今日は、と思って、2時40分すぎを目掛け報道番組を点けた。番組では東北の様子が生中継されていたの。そして、2時46分が来て、私はテレビの向こう側にいる人たちと一緒に手を合わせ、黙祷を捧げた。1分経って、テレビは画面を切り替えて青汁やら日焼け止めやらのCMを流し始めたけれど、私はなんとなく動くことができずに、しばらくぼーっとしていた。それでも、2,3分たったあとかな、テレビを追いかけるようにして、私も日常に戻って行ったの。

でも、その出来事から今までずっと違和感が残っていて…その違和感を無理やり言葉にするのならきっと「できごとは引き摺るようにして起きたはずだ」ということ、そこから「私は何に向かって祈ったの?」ってこと、になるんだと思う。

3月11日2時46分。私だけじゃなくて、みんながこの時刻を掴んで離さないな、って感じる。新聞も、テレビも、ネットも、この時刻を指し示す声であふれている。でも、今日改めて立ち返る中で、これは震災の「はじまりの時刻」でしかないなと思ったの。誰かが、(それは匿名的・非人格的な誰かではなく、名前を持った、体温を持った誰かが、)「震災」と語る時、示されるのは2時46分という時刻ではないな、と確信する。それはむしろ、その時刻に起きた揺れによって、時間差で押し寄せてきた波がもたらした結果かもしれないし、失った誰かの記憶・記録かもしれないし、それら全てによって変わった生そのものなのかもしれない。そして、一直線に進む時間の中で生きる限り、「ここまでが震災」とて区切ることができずに、そこに籠る意味は変わり続けるのだと思う。できごとは、たとえば砂浜に重い袋をおいてそれを引き摺るようにして起きたはずだし、起きているし、起き続ける。震災のはじまりはあっても、終わりを定義することは不可能なんじゃないかな。

なのに、わたし(たち)は、この3月11日2時46分に並々ならぬ意識を注いでいるんだよ。人間が作った暦という恣意的な尺度の中に生きて、ちょうど一年、起きてから一年って、それをすごく主張する。それはなんでなんだろう。前にも後にも、生活があるのに、その弛緩した流れをぶつ切りするように、2時46分だけが、不自然に浮き出ている。

話は少し逸れてしまうかもしれないけど、正直、私は震災について私は「外の人だ」っていう意識がずっとあるの。私のすごく身近にも、震災によって傷をおった人が何人かいる。震災が起きた後、すごく未熟ながらもボランティアに行ったりもした。それでも、やっぱり昔も今もずっと東京で生活している私は(すごく冷ややかな言い方をすると)「当事者」ではないんだよ。
「心を寄せる」という言い回しがあるけれど、それは綺麗事なのかもしれないな、って時々思う。心を寄せられても、からだはここにいるままだから。(だから、あの時の出来事で印象に残っているのが「色」なんだって書きながら思った。「当事者」じゃない私が記憶したのは視覚情報だった。「あの場所にいた」のだったら感じていたのかもしれない、地面の揺れや空気の冷ややかさではなくて、テレビが擬似的に作り出した視覚情報の世界、それだけが私の記憶なんだね。そして今日も私は、変わらずにテレビの前にいた。)

「当事者じゃない」私があの日手にした袋は、きっとすごく軽くて、砂浜を引き摺るどころか担ぎ上げていることすら忘れてしまう。もっと大切な日常があって、もっと気を配らなくてはならない別の袋を持っているから。そんな私が、1年ごとの3月11日2時46分に、思い出したように決まって手を合わせている…これってすごく、奇妙なことじゃないかなあ、って思ってしまったの。
私があの1分間に捧げた祈りは、なんの意味があるんだろう。前にも後ろにも暴力的なエネルギーを持った日常があって、それらから、まるで強化ガラスか何かによって守られているような3月11日2時46分があって、そこで捧げた祈りは、どうなるんだろう。この1分以外を、私はもっと大切な(あるいは怠慢な)日常のために使う。直接的には、結局何もしないんだよ、震災、あるいは、それに寄って引き摺られる袋の跡のためには。開き直るわけではないけれど…でもそれが事実なの。何もしない。そんな中で、精神的な祈りの意味はどこにあるのかな。

「忘れないで欲しい 生きたかった命があるのだということを 伝えて欲しい …」
津波に飲み込まれ、多くの命が失われたという町役場の壁に書かれた詩のことを思い出した。(記憶が曖昧なせいで、あなたにも読んで欲しいなと思ってさっきネットで全文を検索しても、でてこなかったや。)でも、その詩の中では、何度でも繰り返されていたの、「忘れないで欲しい」って。それだけは覚えてる。
1年に1度、3月11日の2時46分にだけ、祈る中で、この出来事を思い出すなら…それは「忘れていない」ってことになるのかな。それで、いいのかな。

すごく怖い、これはいつも思うことだけれど、私は「当事者」と呼ばれる人の気持ちをわかりきることができないから。想像することはできる、理解しようとすることもできる、でもわかり合うことは永遠に不可能だから。そんな中で、正直な気持ちをぶつけた時に、それが相手を踏みにじっているのではないかとか、出来事を軽視しているのではないかとか、そういうことを物凄く気にして、怖気づく自分がいる。
でも、これが自分の震災との向き合い方です。「1年に1度、祈りを捧げて、忘れないでいる」。考えに考えた結果、ここにたどり着きました。それが何を意味するかはわからない、もしかしたら、というよりもおそらく、いやほぼ確実に、私以外の人間にとっては何も意味をなさない。でも、やっぱり来年も再来年もその次も、祈り続けていたいなとそう思うの。

最後まで読んでくれてありがとう。

今自分が置かれている状況に感謝します。
たとえ物質的な欠乏を感じることがあったとしても、他者(それは生身の人間にとどまらず、自然も、芸術作品も、時間も、人格を持ちうる全ての概念)との関わり合いの中に幸せを見出し、人と人とが笑顔をかわしあえる日本になりますように。
いただいたたくさんの御恩を、別の誰かに送れる人でありたいです。

あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。