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心が編まれる、という感情

幻にしてしまえれば楽なのに何故だか君には体温がある

片思いの短歌です。好きな人と結ばれることが難しいと知った時、その人を形而上の世界に押し込めてしまいたい欲求にかられるのはわたしだけでしょうか。「その人」の存在は幻だよ、もしくは夢だったんだよ、と誰かが言ってくれれば。それは対話を通して真実となり、わたしは恋をなんとか諦められる気がするのです。でも、現実に立ちかえると、「その人」は血を巡らせ、ちゃんと代謝して、生きているんですね。悔しいです。抑えられない感情は、どこに逃せばいいのでしょうか。短歌に逃そうと試みた挙句、上のようになりましたが充分ではありませんでした。

一年前から、好んで哲学書を読むようになりました。過去の思想家たちが主張していることは確かに理路整然としていて納得ができるのですが、でもそれらの「論理」「ロゴス」だけで人間存在のあれこれを説明することは甚だ不可能だなあ、とつくづく思います。どうしても、説明しきれない感情や衝動、欲望があって、それらは時に易々と論理を凌駕してゆくのですね。

今回のnoteでは、そのような「感情」について書きたいと思います。自分の感情を言葉にすること、あるいは感情にラベルを貼るという行為。日常、詩をひそやかに書いているわたしは、この行為に強く惹かれると同時に、時々それを放棄したくなるのです。

言葉にする、という行為

言葉にする、とはどういう行為か。この命題についてはずっとずっと昔から、様々な方々が考え続けてきたと思います。脳味噌が「二足歩行はじめたて」レベルの小娘が、ああだこうだと語れることは殆どございませんし、今まで語られてきたことを網羅的に記述することも不可能でしょう。ただここでは、言葉の特性について、二つだけ論じたいと思います。

言葉は世界を切り分ける
言葉は、私たちが知覚している世界を切り分けます。
様々な要素が相互的に連関しあう、「全体」として、世界は私たちの目の前に現象しています。境界線などない、曖昧な実在。
ただ、私たちは言語化によって、世界を「部分」として捉える事ができるようになります。対象をありとあらゆる変数にわけ、名前をつけ、意味を与え、操作可能な記号として扱えるようになるのです。例えば、今私が身を置いている世界から、私は「macbookair」を切り分けて、それらを他のものと区別し、扱う事ができます。言葉は、世界を、感覚を切り分ける。

言葉は二項対立を生み出す
言葉によって切り分けられたその瞬間、世界は二項対立的になります。Aが決まれば、非Aが決まるという事です。
例えば、先の例で考えてみると、世界から「macbookair」が切り分けられた瞬間に、「macbookair」以外は「非-macbookair」となり、明確に区別されるようになります。と同時に、「macbookair」自体は「非-macbookair」である可能性が否定されます。

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心が編まれる、という感情

話は一気に具体的になりますが。大学2年生の夏、ある現象を目の前にして、私は、今まで味わったことのない不思議な感情が自分の中に生まれるのを感じました。午前4時、空の白く淡い光を受けた古民家の、畳の上での出来事でした。詳細は申し上げられませんが、あの時の感覚ははっきりと覚えています。何か、あたたかいものがどこからか渾々と湧き出て、私の心に充ち満ちてゆきました。じゅんわりとした、多幸感・充足感に似た柔らかい感情。当時はだいぶ当惑しました。え?なんなんだこれは?こんなん初めてだぞ、と。
その後、家に帰ってからどんなに辞書をひいても、ネットで調べても、私の感情をピタリと言い当ててくれる単語は見つかりませんでした。でも、夏を経てから今まで過ごす中で、私は同じような感情を経験することが何度かあったのです。そこで私は、いつしか自分でその感情に名前をつけることにしました:「心が編まれる」と。

そして、「心が編まれる」瞬間を何度か経験する中で、私の中でこの感情の正体がどういうものなのか、少しづつわかってきました。曖昧ですが、定義がかたまってきたのです。

第一に、「心が編まれる」時、私ははっきりと言葉を失います。でもそれは、言葉を尽くすことができない、とか、明確な言葉が見つからない、とかいうよりも、「言葉」という概念・道具・衝動があること自体を忘れるのです。言葉への志向性が停止します。脳味噌は質量を持たない固体と化し、シナプスの結合が行われなくなったのではないかと錯覚します。
この錯覚する主体が誰なのかというと、それは「もう一人の自分」です(言葉にするとだいぶ安っぽいのですが)。私は日頃より二重の自分を生きている感覚があります。リアルタイムに感覚を捉えて、溺れるようにして生きている自分と、それを静かに観察している自分。その「観察している側の自分」が、「嗚呼今、私の心は編まれていっている」、と明確に捉えるのです。

第二に、「心が編まれる」感情を私にもたらす現象(カンフル剤?刺激剤?みたいなもの)には傾向性があり、3つに大別することができます。以下、列挙してみます。

①自分の作品

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自分の作品(詩であれ、空間芸術であれ、音律であれ)が、完成した瞬間。嗚呼、否、永遠に完成することなんてないのですが、明確なかたちを持った時、換言すれば、胎児が胎児でなくなった時、それらは私とは異なる人格を持った存在として、生を始めていきます。不完全でありながら、呼吸し、代謝し、次第に朽ちていく存在。

②大切な他者の作品
自分と同じくらい大切に想う他者が、作品を生み出すこともあります。作品、というのは大仰かもしれません。詩や小説など、ある程度自己表出性の強いものとして私に示されることもありますが、大抵の場合それは手紙であったり、あるいはSNSの投稿であったりします。

③熱のこもった概念
「それを感覚した瞬間、ショートしてしまいそうになる」概念が、私にはいくつか存在します。以下のような。

詩/言葉/性/生/意味/愛/私

エトセトラ。どれもこれも、vagueなヤツばかりですね。まあ、概念なんてそんなもんか。

心が編まれた現象を、言葉にする

上に列挙した①、②、③のような現象(?)に出会い、心が編まれた時、私は先述したように言葉への志向性が完全に停止します。そして、一人の世界でじゅんわりします。
しかし、幸か不幸か、しばしばその現象について、他者から意見を求められる、あるいは他者への言葉がけが必要な状況があるのです。「あなたの作品について、あなた自身はどう思っているの?」「これ、書いてみたんだけど、読んで感想を聞かせてくれないかな」「愛について、あなたはどう考える?」など。
書き言葉ならまだしも、話し言葉で返答をしなくてはならない時、私はかなり狼狽します。私は言葉を持ち合わせていないからです。一つも。からからに乾いたの雑巾を絞る感覚に似ています。何も出てこない。

それでもなお言葉にしようと念じ続ければ一言二言、かろうじて何か出てくるのかもしれませんが、だいぶ苦しいでしょう。というのも、わたしがひとたびAと言って仕舞えば、冷酷に、暴力的に、非Aの可能性を否定することになるからです。例えば、私が作ったあの作品を目の前にして「鮮やかだと思う」と言ったとすれば。その瞬間に、「作品を『鮮やかでない』と感じているわたし」の可能性は、明確に否定されることになります。「力強い」と言って仕舞えば、「作品を『脆弱である』と考えているわたし」の可能性は否定される。

でも、絶対にそんなことはありえないのです。あの作品は、概念は、鮮やかでありつつも、確実に鮮やかではないし、力強いのと同時に限りなく脆弱なのです。だから、言葉を出すのが、ものすごく苦しい。

この感情と、どう付き合っていこうか。

それでもなお言葉を紡ごうとするのが詩人だろう、と、糾弾されてしまいそうですが。確かにそうなのかもしれませんね、詩を書く人を名乗るくせには、怠慢なのかもしれません。

でも、この感情がとても特殊で、あまりにも柔らかな幸せで私を包んでくれるしので、しばらくはそこに浸っていたくなるのです。

その際、長い間黙り込んでじっとしているので、その場に他者が遭遇している場合、往々にして心配されます。「え、なんか悪い事言った?」「そんなに僕の作品がつまらなかった?」と。これに対し私は「心が編まれているので、しばらくそのままにしていただけませんか」と言いたいです。「え、心が編まれるってどういう感情ですか」と聞かれたら、これからはこのnoteを見せようと思います。

というわけで、実際に黙り込んだ今宿を目の前にしてこのnoteを読んでいるあなたへ。今のこの状況はそういう事です。私は、あなたが提示してくれた作品、あるいは問いかけを、とても大切なものとして捉えています。決して怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもありません。つまらなかったわけでもありません。しばらく時間を置いた後に、そこから慎重に、とても慎重に、ことばを探すたびに出たい。目の前にいる、あなたと一緒に。それまで、少しだけ、待っていてください。ありがとうございます。

おまけ:関連するあれこれ一覧

池田晶子『14歳からの哲学』

私の憧れ、池田晶子さんが14歳程度の青少年向けに書いた哲学の入門書です。考えるとは、自分とは、死とは。哲学の根本的な考え方が、至極易しく、わかりやすく、問いかけるようにしてかかれています。もちろん「言葉について」の章もあります。吐き気がするほど難しい本を読んで露頭に迷ったときには、ここに立ち返ります。北極星的な一冊。

谷川俊太郎「言葉を覚えたせいで」
谷川俊太郎大先生の詩です。新作。現代詩手帳、2020年1月号に載っています。ことばというものがあるせいで、私たちのありようはいかに規定されるのか、について、滑るようにかかれています。(と、まとめてしまう事自体非常におこがましいので読んでみてください。とても良きです)

ご挨拶

最後までお読みいただきありがとうございました。あまりにも個人的な感情の話ですが、どうしても、と思って書きました。
それでは、また来週に。さよなら。


あなたに言葉の花束を差し上げたいです。 ちなみにしたの「いいね!」を押すと軽めの短歌が生成されるようにしました。全部で10種類。どれが出るかな。