「たとえそうでも」と思えるか
先日、アメリカで働く知人と話す機会がありました。
ドナルド・トランプ氏が大統領にしてまだ1週間も経たないのに、なんかもう無茶としか思えないことを言ったりやったりしているので、その知人に、「大丈夫?」と聞かずにはいられませんでした。
その知人はもともとはヨーロッパ大陸出身であり、優秀な人でもあるので、アメリカを出てよそへ行くとか自国に帰るとか、いろいろ選択肢はありそうなのですが、今のところ、その気はないそうです。
知人は、何もかもが crazy だ、と嘆いてはいましたが、会話の最後で、「それでも、ここにとどまって自分にできることを精一杯する」、と言っていました。
彼の言葉を聞いて、"Nevertheless"(たとえそうでも)、と思えるかどうかで、どういう生き方をするかが決まるのかもしれないな、と感じました。
この知人とは異なる選択をした人もいます。かなり前ですが、私がロンドンに住んでいた時、私よりずっと年配の日本のかたが、定年を目前にして日本へ帰国されました。イギリスの永住権を取得し、ロンドンに持ち家まであった方なので、びっくりしました。
その方いわく、「イギリスは好きだけれど、それでもやっぱり老後は日本で暮らしたい。イギリスで積んだ経験が何かの役に立つのなら、それをここ(ロンドン)ではなく、日本で役立てたい。」
当時の私は、そんな生き方もあるのかなぁ、くらいに思っただけでしたが。
冷静な判断のためには論理も感情も大事
何か決断を要する際は、まず関係する要素を全部書き出すとよい、と言われています。それぞれの長所・短所を表にして並べてみて、どっちが良いか吟味する、というやり方です。
これは、関連する要素を可視化して考えをクリアにするのにはある程度は役立ちます。しかしながら実際には、人間の心はもっと複雑で、長所の数が多いほうで決まり、などと単純に決められるものではありません。
長所・短所の数だけでなく、その質や、自分の価値観の中での重みなども関わってきます。
思うに、物事でも対人関係でも、コミットメントや愛情というのは、Nevertheless という言葉に集約されるんではないかと感じます。
欠点もあるし、問題もある、たとえそれでも、見捨てない。
あるいは逆に、リスクを負ってでも、それでもあえて一歩踏み出して、持っているものを手放す。
いずれの選択をするにしても、合理性と自分の感情の両方を大事にして冷静に判断する必要があります。とはいえ、この二つが相反する場合が多いので、決断はつねに難しいのですが。
ただ、明らかに良くないのは、「だめだから(またはたんに嫌だから)」という理由ですぐに見限るという幼稚な態度や、反対に、惰性でずるずる現状に甘んじる、という態度です。
結果として現れる行為は正反対のようですが、両方とも、現状を打破する努力を怠っているという点で共通しています。物事に対して受け身であり、無責任とも言えます。
なにかを決める時には、直面している問題に能動的に働きかける勇気があるか、まずは自問してみるべきでしょう。
そして、「たとえそうでも、自分はこうするのだ」といったん決めたら、迷わずつき進むのが賢明です。能動的かつ前向きに決めたことならば、たとえ結果はどうあれ、悔いのない人生が送れるはずです。