コロナで「暇で死ぬ時代」はやっぱり加速すると思うから、現実とゲームはリンクしたほうがよい
こんにちわ
ちょっと無性に書きたくなったので。
書きなぐったので読みづらかったらごめなさい。
以下の記事で書いてある内容の違う一面を書いているので、もしまだお読みでなかったらぜひお読みください。
この上の記事でも書きましたが、世の中の生産性は劇的に改善しています。結果的に、飢餓や病気、暴力でしななくなってきています。
人間は、衣食住や身の安全が確保されたら集団に所属し、その次は「承認されたい生き物です。この承認欲求を満たしていたのは、実は資本主義においては「会社における仕事」だったと考えています。
資本主義における会社を承認欲求の機構として捉える
資本主義というものは、大雑把に言ってしまえば経営者が株主から資本を預かって労働者を使役し、効率を追求することで対価を得ることことによって成立してきた社会構造です。
この中において、多くの人(労働者)はいわば「社会の歯車」として効率性の追求を求められてきました。
一方で、会社は上司や仲間、部下に承認されやすい機構でもありました。
生産性がこれだけ上がっている社会においては、本来はそこまで効率的に働かなくても満足に生きていけるはずなのに、この機構のおかげで認められることが心地よく、人は無意識に頑張ってきてしまったとも見えます。
ポストコロナ
今回のコロナの騒動はどんな変化を生むのでしょうか?
僕は、この変化は多くの人が「効率性の追求が不要であった」ということに気づいたことから生まれると感じています。
前述の通り、マックス・ウェーバー的プロテスタンティズムの中で、「怠惰であること」は忌避されがちで、結果的に人は会社という機構から得られる承認欲求を求めて、ある程度の監視の中で個を犠牲にして、仕事をし続けてきたわけです。
今回のコロナは、人々が在宅で効率性という監視から離れ、自分のペースで働くということを捉え直すことができる機会になりました。
さらに、現時点で起きているデジタル化による生産性の改善は、余分な仕事の削減をうむため、「自分が承認される」仕事を通じた機構を失いやすくなります。
つまり、効率性からはなれ、会社という機構を失いやすくなることで、生きる目的を失いやすくなる社会がポストコロナの社会であり、それこそが「暇で死ぬ時代」です。
暇で死ぬ時代だからこそ
暇で死ぬ時代を生きるためには、盲目的に会社で働いているのでは生きる目的が失われやすく、自らが好きなことを追求し、何かに認められなければなりません。
だからこそ、やっぱり「ゲーム」という娯楽が求められるのではないでしょうか?
誰しもが「主人公」として、その世界の住人に認められ、心地よく時間を使うことができるそんな機構が今求められていると強く感じます。
そして、そうしたゲームが現実世界と深くリンクした場合、ゲームで得られる喜びは既存のものとは大きくことなるものになるはずです。
ゆえに、僕は現実世界と深くリンクしやすいゲームを作りたいし、関わっていきたいと感じています。
みんなが主人公で、世界を救える存在になれるように、がんばります。
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