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005★不登校の卒業式

一ヶ月たってしまいましたが、新型コロナウィルスの影響で、開催すら危ぶまれた卒業式ですが、無事終わりました。今更書くのもどうなのかというくらい時間が空き、しかも高校の入学式が延期になっている現在、今更ではありますが、卒業式のことを書いてみたいと思います。

娘たちはサバサバ

行くこと自体ごねるかな?と、思いましたが、区切りをつけたい思いが強かったらしく、むしろ出席したいようでした。出席にともない、学校側から三つの提案がありました。

1 普通にクラスの生徒と同じように登校し、式に出席。終わりのホームルームまで一緒に行動する。

2 保護者とともに別に行動し、体育館一番後ろ後方の見学スペースにて出席する。終了後クラスでホームルームがあるのでそれに出席するかどうかはその時決める。

3 そもそも卒業式には出席せず、別の日時に校長室にて卒業証書授与を受ける。

2の場合も①証書はみんなの前で受け取る。その場合かなり長い距離を歩かねばならずとても目立つ。②ホームルーム前のタイミングで校長室で受け取る。という選択肢がありました。

2-②のコースで出席しました。

新型コロナウィルスにともない、来賓の挨拶や長々しい紹介、祝電の細かい紹介など一切簡略化。市長と教育長の挨拶はプリント配布。卒業生とその保護者(1家庭2名まで)の出席。大まかには国歌斉唱、校歌斉唱、記念の歌、校長祝辞、証書授与、卒業生代表答辞と、シンプルな式でしたが、すごくよかったです。正直来年以降も在校生が出ても二年生だけ(小学なら五年生)を加える程度でいいんじゃないかと感じました。

なぜかツボにはまる

ところで、娘たちはかなり神妙にギャラリー席で出席していましたが、急にツボにはまって笑いをこらえはじめました。

というのも、校長の祝辞のBGMで、いきなり歌入りの曲が流れ始めたから。

娘たちは「誰だよ、着メロ流れてるじゃん」と、思ったようですが、誰も止めません。そしてようやくBGMと気づいたわけですが、それにしても歌詞付き!気が散ります。

校長は「人間誰の体の中でも毎日、たくさんの細胞が生まれ変わっている。つまり君たちは毎日蘇生している。君たちはしたがって毎日どんなつらいことがあっても、生まれ変わり生きなおすことができる。だから命を大切に苦難を乗り越え生き続けてほしい」というメッセージを伝えたく、そのメッセージに即した曲を選んだ(女性のベテランのシンガーソングライターの曲だった)のだけれど。

わたしはギャラリー席で肩をふるわせたりして、ステージ上から見て校長が気づかないかはらはらしましたが、あとで校長室に証書をもらいに行くと、校長が

「さっきのわたしの挨拶は聞いてくれましたか?」

と、おっしゃったので、わたしもツボにはまりそうになってしまいました。

不登校に至るまで、学校の指導にはたくさんの不満もあったものの、校長は思った以上に骨をおって子どもたちに心を寄せてくれたとは思っていますが、入学式でいきなり英語の格言を述べたりして、ドラマチックなことが好きな校長だなと思っていたので、最後まである意味期待を裏切らず、忘れられない人となってしまいました。

それにしても国家斉唱は省けないほど大事なのか?

ところで、かつては「日の丸君が代論争」というものがありました。

わたしとしては全然終焉していないテーマなのですが、その理由は「日の丸君が代の強制感が半端なく、主に教育現場において『強制されてもなんとも感じない国民を見事に育むことに成功している最大事例であり、教育手法そのものであるから』」に尽きます。

そしてわたしは娘たちの不登校を一言でくくるなら、「強制や同調圧力に結局のところなじめず居場所をなくした」ことが原因なので、この日の丸君が代問題というのは、まったく、ぜんぜん、とことん、ひたすら、無視できない問題なのです。これは右派とか左派とかの問題ではなく「強制されて生きる」ことの許容の問題なのです。

とはいえ、ヨーロッパでは右と左の違いというのは「資本主義万歳」対「共産主義が理想」の対立ではなく「強制されてみんなで同じように生きる(右)」対「個人が尊重されて自由に生きる(左)」の区分けになっているというのを、フランスの憲法研究家から伺ったので、その区分けで行くとやっぱり、右とか左の問題ではあるんですけどね。

このテーマの本質について、政治的じゃなく思想史的にわかりやすく書いている記事が流れていないか、検索してみたところ、東洋経済の2016年の記事にうってつけのものがありました。しかも筆者は1984年生まれと、このジャンルにおいてはかなり若手の書き手なので、新鮮な目線もあり、右でも左でもないと自負されるかたにうってつけの内容なので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

それにしても、以上の議論から「君が代」が「日の丸」より不人気な理由を読み取れただろうか。軍国主義に利用された点や、性急に法制化されたという点では、「君が代」も「日の丸」も変わらないはずである。
では、歌詞の存在はどうだろうか。なるほど「君が代」を扱う場合、例えば「君」が何を意味するのかという厄介な問題に取り組まなければならなくなる。歌詞も古典に由来するので、その意味を完全に理解するには様々な文献を参考にしなければならない。おそらく「君が代」が支持されない理由のひとつはここにあるといっていいだろう。
だが、「君が代」問題の本質は、それがまさに「歌う」ものであることに求められる。
これは「日の丸」と比較するとわかりやすい。「日の丸」掲揚は「見る」ものなので、「目をつむる」「視界に入れない」「別のものを見る」「別のことを考える」などの行動で比較的簡単にやり過ごすことができる。我々は普段、街中に配置された看板や、インターネット上に表示される広告をほとんど意識すらせずに流してしまっているはずだ。
それに比べ、「君が代」斉唱は「歌う」ことなので、なかなか無視することが難しい。「歌う」とは、その歌詞を頭に入れ、音程を外さないように注意しながら、周囲とも協調しつつ、腹に力を入れて、一言一句、声を出すことにほかならない。「歌う」とは、心身をフル動員した、能動的かつ意識的な行為なのである。そのため、その強制は「見る」よりも全身に行き渡り、やりたくない人にとっては遥かに屈辱的で暴力的なものとなってしまう。
われわれは普段「君が代」のこの特性に気づいていない。なぜなら、いったん学校を卒業すれば「君が代」を歌う機会はまったくといっていいほどなくなるからである。国際的なスポーツの試合で「君が代」が使われることもあるが、観戦者の多くにとってその「君が代」は「歌う」というよりも「聴く」ものであろう。「聴く」は「見る」よりもやり過ごしにくいかもしれないが、「歌う」ことに比べれば拘束力の点で明らかに劣る。

という点をふまえて、こんな非常時に君が代斉唱を省けないことに、ものすごく違和感を感じたわたくしでした。

わたしがこんなでもママ友は優しかった

さて、わたしという人物の日常について、ちょっと分析してみたいと思っています。

というのも娘たちの不登校においては、わたしという人間の在り方について考えざるをえない局面がたくさんありました。そしてわたしという人間が本当にダメダメで、日常生活を送ることも困難なほどなら、それこそ何らかの治療なり、カウンセリングなり、思考の強烈な転換をおこなわなければ、わたしが勝手に社会から孤立するならいいですが、娘たちが被害を被ることになるからです。

しかし幸いなことに、式終了後にグラウンドに集まって子どもたちはそれぞれの友達とお別れを惜しんで話したり、記念撮影したりしていましたが、その間、何人かのママ友さんたちが声をかけてくれました。

保育園から一緒だった人、小学の卒業準備に一緒にバラの花を折り紙で追った人、PTA活動でともに悪戦苦闘した人・・・。特に不登校がどうのという話はふれず、今日のハレの日の喜びを語り合いました。

その中でひとつ印象的だったのが、子だくさんのママの証言。

「ひと家庭二人だったため、娘のお兄ちゃんとお姉ちゃんが式に出席してわたしはグラウンドで待ってたのよ!どう思う!!?」

思えばわたしたちの娘たちの代は、卒業式と東日本大震災が同時でした。

特に娘たちの保育園では、震災の当日が式だったので、その時間は園の近くの公民館でお祝い会を開催している最中だったのでした。そのときもそのママさんは「お姉ちゃんが高校の観劇の日で帰宅難民になった」と言っていたので記憶に残っているのですが、事前にわかってたら一緒にグラウンドにいてあげてもよかったな、と、ちょっと思いました。

わたしは日ごろから思想信条の話をあまり包み隠さず話しているほうなので(だってこの大変なときにマスク二枚ってどうよ!!?程度のことってみんな言うでしょう?消費税がイートインと持ち帰りで税率違うとかそんなややこしいことでいいのかよ!!?程度のことは言うでしょう)すが、わたしのようなのは「ちょっと、えりさんこのことどう思う!!?」って聞く役割としてちょうどいい立ち位置にいて、世の中に一定数いるとスッキリするひととして役割を担ってるんだろうなぁと、思ったりもするわけです。

特に「友達に不登校のこと相談されたけど、実際どんな対応があるの?」という電話やメールをくれた方々のお役にすこしはたてたと思います。今後は時々思い出してお茶にでも誘ってもらえると嬉しいな。

区切りがついても新生活がはじまらない子たちに

目下のところ、我が家の困りごとは、「新生活が始まらない」ということです。特に教科書購入ということが先送りになっていて予習もできません。

習ってもいないことを予習できるような子たちでもないという現実もありますが、もっと困ることは、教科書代としてとっておいたお金も生活の維持に消えてしまう可能性が高い(いやそれでも死守するけどさ!)ということです。

実際このコロナ禍で経済的打撃を受けている家庭は多いでしょう。早く国が補償に乗り出してくれるといいのですが。

マスクは手作りできますが、お札は国が決めなきゃ発行できないですからね!

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。