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001★不登校を振り返る

わたしの中のダメさと良さと

娘たちは中学三年のほとんどは不登校だった。

娘たちいわく、小学生のころから時々学校に行きたくなくて行きたくなくてたまらなかったという。

理由はいくつかあると思うけれど、実はほとんどの原因はわたしにあるし、学校からもそうみられていたと思う。加えて言うなら娘たちは繊細で、わたしの子どものころは、わたし自身の感性も周囲ももっとゆるかったという違いは大きいと思う。

娘たちは「くさい」とよく言われた。実際体臭もあったが、お気に入りの服を毎日着ていたのもあると思う。といってもうちは乾燥機を使っていたので実際のところ毎日熱風消毒をされていたわけで、臭くはなかったと思う。だけど毎日同じ服を着ていることは、ほかの子から見て異常だった。

おかしな話だ。中学に行けば毎日同じ制服を着させられる。

小学で毎日同じ服(洗濯済)を着て何が悪いのだろう。

正直ここまで読んで「なんて無責任でだらしない親だろう」と思う人がいるのは理解している。多くの親は羽交い絞めしてでも毎日違う服を着せて登校させるだろう。そして「女の子はおしゃれに興味関心をもって身ぎれいにして嫌われないようにしつけるのが親の務めでしょ」と思うだろう。

わたしだってそうしようと試みなかったわけではない。第一わたし自身が洋服とか髪をいじるとかそういうことが好きなほうだし、娘たちがそういうことにほぼ興味がないことに不思議さしか感じない。

でもふたりともが「お気に入りの服を毎日着ていきたい」挙句の果てには「おしゃれとかそういうことばっかり話してる女の子たちの頭の中が理解できないしそういうふうに盛り上がっても楽しくないし好きじゃない」とまでいわれたら、それはそれでわからなくもないので、それじゃ好きにしていいよ、というしかなかったのだった。

これはたぶん発達障害

そうはいっても、「いいや、臭かった。だからいじめられても仕方ないじゃないか。みんな年ごろなんだから」という声もあるだろうと思う。

積極的にいじめられたかはともかく、確かに浮いていた。

保護者面談の際には注意も受けた。しまいには担任の先生が給食着の洗濯は家に持って帰るのではなく、学校の洗濯機で代わりにやってくれたりした。わたしはダメな親なんだと先生に思われてるんだろうなというのは、わかっていた。

子どもたちがくさかった(と言われていた)のもあったけど、月曜の朝に「給食着洗う日だった」と、いきなり出されてあわてて洗ってアイロンや乾燥機をかけて乾かした(当然乾ききれなかった)ことが何度かあったのも災いした。

ほかの保護者に「うちはすごく気をつけて洗っているのにずるいな」といわれるのはわかっていたから、相談も雑談でそういう風にフォローされていることも言ったことがない。

「お子さんがそういうタイプだってわかってるなら、毎日持ち物チェックをして、やるべき家庭の仕事をするのが親のつとめじゃないの?」

と、誰もがそう思うだろう。でもわたしはそうはできなかった。正直忘れてしまっていた。小学校のときから忘れ物女王だったし、今も家に一度持って帰ると忘れてしまうので、提出物はその場で書いたり、あらためてメールを送ってもらって対応するのを待ってもらったり、そういう風にして社会の中でなんとかやりくりしている。

自分のことでめいっぱいなのに子どもの日々の忘れ物とかチェックする余裕なんてわたしには、到底なかった。

でもある時子どもが言った。

「先生に脱いだカーディガンのにおいをかがれて呼び出された」

当然、カーディガンも、毎日洗っていた。洗うべきところにあったものは、洗っていた。

子どももやっぱり発達障害

小学生のときはそれでも、先生が「まあそういうタイプの親子もいるよね」と思ってわたしに対してはつべこべ言ったりしなかった。しかしその情報はどうやら中学に伝達されていたらしい。

のち、子どもが登校しにくくなっていったころ、わたしは中学では保健室に行って休ませてもらい、また教室に戻ったっていいんだよと伝えていた。

保健の教員は再任用のおばあちゃん先生だった。

おばあちゃん先生は言った。

「あなたたちは小学の時は時々ちびってたそうだけど、今はそういうこと自分でちゃんとできるようになったの?」

後日そのことを聞いたとき、わたしは血が逆流するほどの怒りと悲しみを感じた。昼間失禁のことは確かに小学生のころから先生に相談していたし、着替えを保健室に預かってもらっていたり、いろいろ助けてもらった。

だけど中学生の、さすがに本人たちもいろいろ気にするお年頃になっていたときに、保健室の先生から上から目線で「お漏らしをしてただめな子たち」みたいな言い方でチェックを受けるなんて!

この先生には本当に困らされた。不登校になりかけのの段階の保健室登校なんて夢また夢レベル。

あるとき「具合が悪いので少し保健室で休んでいいですか?」といった長女に向かってこの保健教諭が言い放ったことは「保健室は病気を持ってる人が来るところじゃないんだよ」

(じゃあなんであんたが学校にいるんだよ。仕事しろよ)

比較的穏やかで、親にも口答えをほとんどしない長女が内心そう思って口まで出かかったと、後で言っていた。

不登校になりかかって、居場所を探し始めたころ、市の教育相談でWISK診断を勧められて受けた。

娘たちの名誉のために言うが、娘たちはすべて発達が遅れているのではなく、ありがちなことだが人よりものすごくすぐれている部分がある。だが人よりのんびりなところもある。平均すると点数的には平均点になるが、生きにくさは抱えているだろう。

それが診断結果だった。

たいていの子は容赦ない

今の学校と昔の学校を比べた時、いつからそうなったか知らないが、今は「学級会」がないということだ。学級会ではいろいろなことを決める。お楽しみ会をいつして、どんなことをするか、日常生活では班長を決めたり日直の当番の回し方まで自分たちで話し合って決めていたように思う。

心に残っているのは、クラスでいじめが起きた時、それについて話し合いをしたことだった。わたしは時々「学級会で言うからね!」といって本当に議題にしてしまったのでかなり男子から恨まれた。それでもわたしにとっては身を守るうえで大事な時間だった。

今は学級会がない。授業がつめつめでそんな余裕がないというのが学校の本音だと思う。

ちょっと自分の時代に戻るが、あるとき積極的にいじめられている子の話になった後、先生が突然に言ったことがある。

「みんなあれこれ言い合っているが、自分たちできがついていないことがあるだろう。AさんとBさんはいつもふたりで一緒にいるがほかのひとと話しているのを見たことがない!みんなふたりを仲間外れに無意識にしてるってこと、考えたことがあるのか!」

わたしはふたりとそこそこ仲がいいつもりでいたのでショックだったが、確かにいろいろいる友達の中で、ふたりを後回しにしていることは確かだとは思った。同時にみんなの前でそんな風に名指しにされるふたりはどうなんだろうとも思った。

その時間のあと、ふたりに「先生が言ったとおりに思ってた?」って聞いたら「時々思ってた」と、ふたりは言った。わたしはふたりの家に遊びに行くことにした。

うちのふたりだが、実は家に友達が遊びにきたことがない。多くの理由はわたしが片付けができない女だからであるこれは本当に重症で、これまでも仲のいい友達に何度か「たまに片付けに手伝いに来てもらう日」というのを作っていたが、だんだんそういう気の置けない友達を呼ぶことができないほどに散らかってしまった。

(何の自慢にもならないがごみ袋をかき分けないと歩けないタイプの散らかり方ではない。ただあらゆるものがタンスにものが収まっていることはあまりない)

でも子ども同士には距離感というものがある。家に行き来もできないような友達は遠い存在なのだ。

だから子どもたちが友達がいなかったのは、ほぼわたしのせいだよなあとおもうことはいっぱいある。

ここで写真の説明です

次女のコレクション。手で削ったちび鉛筆。もはやキャップにすら入らない。それだけなら普通にちび鉛筆だが、背景にあるのはアンデルセンなどの作家の伝記上の身長の比較表である。アンデルセンはすごく高身長だったらしい。

関係ないが大塩平八郎には、高身長と低身長どっちのうわさもある。

大塩平八郎と娘たちのエピソードは面白いのがあるので、後日、書く。

自分の経験をもとに思いのまま書いていきたいと思います。 現在「人工股関節全置換手術を受けました」(無料)と 「ハーフムーン」(詩集・有料・全51編1000円)を書いています。リハビリ中につき体調がすぐれないときは無理しないでいこうと思います。