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マガジン shim・zen・vie! について

真善美ーシンゼンビーと書いて、マサミ。
俳優で劇作家でもある真善美。さんの本名です。
これまでの人生において、真善美を『まさみ』と読めた人は皆無でした。
そのため、いろんな人から別名にしたら?
と言われてきました。

特に所属する事務所の社長さんには、必ずと言って良いほど、
芸能活動をする際に読めない名前は駄目だからとアドバイスを受け、
別名を考えたこともあったけれども、
結局は変えることなく活動を続けてきました。
さらに今現在では、原 真善美という本名から
苗字の原をとって芸名とし、『真善美。』で活動を続けています。
なぜそこまで真善美にこだわっているのでしょうか?

実はこの名前、三歳の頃に亡くなった
父上の願いが詰まったものだから。
では、真善美。さんの父上は、
どんな願いを込めてこの名前をつけたのか?

noteでマガジンを始めるにあたって、タイトルをどうしようかとなった時、
真善美。さんの現在の劇団名「東京夜間飛行」にしようか、とか、
以前の劇団名「まぜ卵」(まぜらん、と読む。大航海時代のポルトガルの探検家にちなんで芝居の海を大航海しよう! という思いからつけられた)
にしようか、など幾つかの案が出ました。
けれどどれも今ひとつピンとこないなあと思っていた時、
真善美。さんが一言。

「いっそのこと、シンゼンビ で行くのはどう?」
「いいじゃない。適度に抽象的だから、何でもできそうだし。それでいきましょう」
 ということになったのです。

そうなって初めて、真善美。さんの父上の思いに心寄せることになったわけです。

「真善美」は形而上学的な言葉?

 まずはネットで調べ、ざっくりまとめてみると・・・

「真善美」は、紀元前400年代から300年代に生きた古代ギリシャの哲学者プラトンが<イデア論>の中で語っている究極の理想であると考えられます。また、それから2000年ほど経った18世紀。ドイツ古典哲学の祖と言われるカントが、<純粋理性論批判>で「真」について、<実践理性批判>で「善」について、<判断力批判>で「美」について理論を展開しているとのこと。

 つまり「真善美」は、西洋哲学の源流とも言える概念なのですね。

真善美。さんの父上は「真善美を具現する理想の人間になってほしい」という描いを込めて、この名前をつけたのでしょうか。

あるいは・・・

 日本では<弓道>の世界で、「真善美」という言葉が使われています。まず「真」は正しい形。正しい射法で射った弓は、必ず的中する、と説いています。次に「善」は、弓道における心のあり方。誰かを憎んだり、誰かと争ったりするのではなく、自分自身と向き合い、心を養い、平常心を学ぶことで、他者への礼節や慈しみが生まれる。それを「善」と呼ぶそうです。
 そうして「真」と「善」が整うことで生まれるのが、「美」。「真」の
<形>と「善」の<心>が一体となった時に、おのずと「美」が生まれるということだそうです。

 真善美。さんの父上は、弓道が求めるような真善美を娘に託したとも言えるかもしれません。

 いずれにしても、たいそう哲学的で精神的なメッセージを、真善美。さんの父上は名前という形で娘に遺したと言えるでしょう。
 
 そしてその名前を、読みづらいからと安易に変えたりしなかった真善美。さんは、父からの遺言ともいうべきメッセージを演劇の世界で具現することを運命づけられているのかもしれません。

 とはいえ・・・。

 プラトンが生きた世界や弓道の精神が求められた時代よりも、科学技術やコミュニケーション方法が飛躍的に進化して絡まり合い、複雑怪奇な様相を呈するこの現代を生きる私たちにとって、真善美(英語だとgoodness, truth and beauty!)という言葉には、どこか絵空事のような、一面「清く正しく美しく」といった標語的なイメージを持ってしまうのも事実。

真善美の裏には、偽悪醜があるということ。 

ですから、「真」の裏には「偽」があり、「善」の裏には「悪」があり、「美」の裏には「醜」があって、それも含めての「真善美」というものを考えていきたいと思います。

「真偽」「善悪」「美醜」は、ある意味表裏の一体とも言えるのではないでしょうか。

 バリ島に古くから伝えられるお話の中に、聖典を表紙から読むと<祈り>になり、裏表紙から読むと<呪い>になる、というようなものがあって、なるほどと唸ったことがあります。

 真実を求めて取材を続けていたジャーナリストが偽りのネタに踊らされることもあるでしょうし、正しいことをしているつもりでいても、それが別の視点から見たら悪事になっていることもあるでしょうし、ずっとブスと言われ続けていた少女がパリでトップモデルになって、「東洋の美」と賞賛されることもあるでしょう。真の基準も、善の基準も、美の基準は時代や社会によって微妙に変わっていると思われます。

 むしろお芝居やドラマや小説などの<お話>は、真偽と善悪と美醜が渾然一体となっているから、面白いとも言えるかもしれません。

 プラトンは、詩歌や演劇を、「視覚で捉えられる『美』は不完全であり、イデアの模倣に過ぎないから、そこに人々の関心を向けさせてはいけない」と言って批判し、数学や幾何を推奨したと言います。
 のちにプラトンのこうした考えは、多分に「全体主義的である」という批判の対象にもなりました。

 そう。つまり人間は誰もが多かれ少なかれ不完全な肉体と心を持ち、多様な価値観をもとに生きている。だからこそ、彼らが紡ぎ出すドラマにはなんとも言えないおかしさや悲しみや、楽しさ、深みがあるのだと思います。

 だからと言って、今の時代、「真善美」を追求するなんて馬鹿馬鹿しいと捨て去るつもりはありません。「真善美」をより深く洞察しながら描き出していく姿勢は、保ちたいと考えます。どんなに求めても夢見ても、理想形にはなれないけれど、求めることをやめないのも、また人間なのだと思います。

 マガジン shim・zen・vie! は、そんな人間の、人間臭さを様々なジャンルや角度からアプローチしていく存在に育てていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

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