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ポストインダストリアル時代のデザインとリーダーシップを哲学的視点から読み解く

これからの社会のデザインを考えていく際には、デザイン自体を問い直す視点が必要になる。

前提を疑い、根本を考え直し、別の角度から光を当てる。

哲学とデザイン。

はじめに

本書は、「武蔵野美術大学 大学院造形構想研究科 クリエイティブリーダシップコース クリエイティブリーダシップ特論 第六回(6/22)古賀 徹さん」の講義レポートである。

講師:古賀 徹(こが とおる)
九州大学大学院芸術工学研究院教授。専門は哲学。近現代の欧米圏の思想を中心に研究を進める。水俣病やハンセン病、環境破壊、全体主義、消費社会など、現実の諸課題に即して思考を続ける一方で、デザインの基礎論の構築を試みる。単著に『超越論的虚構――社会理論と現象学』(情況出版、2001年)、『理性の暴力――現代日本社会の病理学』(青灯社、2014年)、『愛と貨幣の経済学――快楽の社交主義のために』(青灯社、2016年)。編著に『アート・デザインクロッシングI・II』(九州大学出版会、2005–2006年)他

近代工業化時代に何が起きていて、いま何から脱却すべきなのか。ポストインダストリアル時代のデザインとリーダーシップをテーマに、哲学的視点から紐解いてみたい。

有機性が忘れ去られた、余白が許されない工業化時代のデザイン思考

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デザインは、有機性と機械性の両輪で成り立つ。しかし、近代工業以降は、機械性があまりにも強くなりすぎてしまい、創造性に対する歪みが起きた。

工業化時代の主流は、目的を掲げ明確な目標を持ち、そこを目掛けて合理的な道筋を立てて進むこと。重要な要素は生産性の向上と効率化であり、PDCAサイクルで最適解へ改善を繰り返していく。そのために必要な組織はピラミッド型の垂直的組織で、マーケティングは市場調査やニーズ主義。全ては目標達成のために合理的に進められ、精密化していけばいくほど、余白という創造性の土壌は無駄という名にすり替わり排除されていく。一瞬たりとも意識が他にいかずに決められた枠から抜け出すことができなくなり、新しいものが生み出されることも難しくなっていった。活動の要因は自分の内側から湧き出る主体的なものではなく、外側にあるある種強制力が発生した能動的なものになるのである。

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「こういう風にしたら面白い」という自分の内側から出る有機的な運動は、合理主義的機能主義のもとでは「主観性」という言葉で乱暴に片付けられ、「客観性」を上書きするために市場調査やアンケートなどのマーケティング的枠組みでくくられる。一部の限られたヒーロー的な人が有機的に何かを生み出し、大半の人が機械的にそれを進めていくという構図が起きたのである。

構想としての身体性のインベンション

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「1. concentte|概念」→「2. invenzione|構想」→「3. forma|形」という経路を経て人は概念を形式化しているのだという。いつかのテレビ番組では、どこかの国の人が来日して日本の街にいる鳩を見た際、鳩を捕獲をしようとしていた。日本人にとって鳩は街にいる平和の象徴のような存在だが、諸外国では食用の鳥という全く別の概念を持つ場合もあり、その概念によって構想は判断されることで、鳩を見守るのか、それとも食べるのか、異なった形式や運動が生まれる。

外的自然はそのままの姿で内的自然にうつるのではなく、機械論的な「観察」による培われた"目"によって概念に変換される。そしてその概念は、有機論的な「構想」による訓練された"手"によって形を成す。つまり、鳩を見た瞬間、観察を通じていくつかの特徴からあの鳥は鳩であると判断し、鳩は食べるものだという概念を通して、捕獲する技術と調理する技術を持って初めて、鳩を調理する形式へと自らを移すことが出来るのである。

構想としての有機論的なエンジニアリング

エンジニアリングとは、客観の側でモノの側で作られるのではなく、人間の内発的な創造性と絡んで生み出されるものである。機械的工学技術の中にある有機性を、ジャンバッティスタ・ヴィーコは以下のように述べている。

鋭敏な人々 argumen とは、互いに遠く離れた異なった事物のあいだにそれらを結び付けているなんらかの類似関係を見つけ出し、自分の足元にあるものを飛び越えて、遠く隔たった場所から自分の扱っていることがらに適した論拠を探し出してくる人々のことである。これこそは構想力(インゲニウム)に富んでいることの証拠であり、鋭敏と呼ばれるものなのである。

出典:Vico, 1720. ヴィーコ『イタリア人の太古の知恵』(上村忠男訳、法政大学出版局、129頁、1988年)

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ここで重要な論点となる「論拠」とは、2つのバラバラの概念を感覚的に繋ぎ合わせ、言葉を与えることだという。例えば、「A:夕日」で「B:沈む」とすると、それをつなげる中名辞は"太陽"となる。太陽は東から昇り西へ沈むという人間が持ちゆる概念であり、その概念を生み出しているのは人間の考えでしかないということ。これが論拠だという。

また、話し手と聞き手が共振し、聞き手の内側からも「まさにその通りだ」と内側から溢れ出るような気づきを与えることでもある。

リーダーシップからフォロウィングへ

リーダーシップの像も、時代と共に変化する。

工業化時代における指導者像は、Critica(クリティカ)だという。これは「物差し」を持った進め方。目標をはっきりと定め、そこにたどり着くための最も効率的な線路をつくる。機械論的に飴とむちで動機付けと管理をし、評価制度もそこに合わせる。引かれたレールから逸脱することは許されず、すなわち創造性が育まれることが難しくなる。ちなみに私が属する組織はOKRを導入しているが、工業化時代と同じ船の進め方がいなめない。

一方、ポストインダストリアル時代の指導者像は、Topica(トピカ)だという。正しい場所を見定め、鍵となる要となるものを握ること。何か上手くいかなくても、その鍵となる手段をとると上手く方向転換をすることができ、それを無意識レベルで実行することが出来るのが、新しい指導者だという。また、理解した上で進むのではなく、実験的にやってみた後に理解が進むというというのだ。

そんなTopica(トピカ)の指導者は、リーダーシップではなくフォロウィングが求められるという。重要なのは、状況に生命を通わせる第三項をつねに提示し、後から全体最適にアプローチすること。その状況下においてデザインはプロセスとなり、つまりdesigning(デザイニング)になる。誰かが創造したものに対して、どう手を入れて活かしていくか、フォローしていくか、ここが最大の価値の起点であり、重なり合うコンビネーションを持って連鎖をスムーズにさせていくことが最も重要になる。作り手は、クリエイターという個人ではなく、繋がりある集団としてのピープルであり、人はみなデザイナーであるというのだ。

おわりに

哲学という別の角度からデザインに触れることで、新しい側面のデザインを見ることができた。そして、常に様々な角度から物事の本質を問い直す作業は哲学もデザインも同じであり、その工程こそが人間的自由への道なのだと思う。

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