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西洋からみた日本の詩

日本語の表現の広さは、英語と比較するとよくわかります。
俳句を英語に翻訳したものをいくつか例に挙げてみます。


古池や蛙飛び込む水の音
A lonely pond in age-old stillness sleeps,
Apart, unstirred by sound or motion,
Till suddenly into it a little flog leaps.
(なんの響きにも動作にも妨げられずに、幾代かを経たる一つの静かな池が眠っている。そこに突如として一匹の軽い蛙が飛び込んだ)
俳句を英語に翻訳すると、ただの自然の説明になってしまいます。水の音の響きが聞こえてきません。


起きて見つ寝て見つ蚊帳の広き哉
I sleep .................. Iwake,
How wide the bed with none beside.
(私は寝る、私は覚める、誰も傍に寝ていないベッドがいかに広いか。)
こちらも品のない説明になってしまいます。寂しさや情感が伝わりません。


朝顔に釣瓶取られて貰い水
All round the rope a morning glory clings,
How can I break its beauty's dainty spell?
I beg water from neighbor's well.
(釣瓶の縄をぐるりと朝顔が絡んでいる。私はこの花の甘き秘密をいかにして破ることができようか。私は水をもらってくる。隣の井戸から。)
場の説明としてはよく分かりますが、この俳句に込められた命は表現されていません。
西洋の場合、誰に釣瓶を取られたのか、どこから水をもらったのか等と因果関係の説明が入ります。
対して、日本語は因果とは自明のものとして、余計なものを去って物の命を表現しようとします。


例えば俳句の添削過程が良い例です。
板の間に下女取り落とす海鼠(なまこ)哉

板の間に取り落としたる海鼠哉

取り落とし取り落としたる海鼠哉
板の間だとか、下女だとか、場面や人の説明はどうでも良いのです。海鼠の海鼠たる所以を表現出来れば良いのです。
西洋の場合、枝葉をつけてなるべく細かく説明しようとします。
日本語の詩は主語がなく、説明が多すぎてもダメで、なるべく余計なものは取り去り、本質を表現しようとします。
根本と枝葉との区別を明らかにして、枝葉を簡単にして根本を培養するのが日本語なのです。
日本語の汎用性の高さはなんとなく知っていたのですが、俳句を英訳して比較すると西洋人と日本人のものの見方の違いが浮き彫りになって、改めて日本語って奥が深いなぁと思いました。
和歌を作るようになってから猶更そう思います。今月の添削楽しみだなぁ~😆

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