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譲るってことは

今年の6月に上賀茂神社の崇敬会に入会した。崇敬会とは簡単に言うと神社ファンクラブだ。上賀茂神社ファンクラブ。私の推しは賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)。

突然謎のテンションで上賀茂神社ファンを連呼されてもドン引くと思うのでわかりやすい崇敬会の説明はこちらに。

今年の誕生日に初めて訪れた上賀茂神社にすっかり魅了され、何度か訪れる内にこの神社を支えたいと思って入った崇敬会。そんな崇敬会から「令和四年度 崇敬会会員安泰祈願祭のご案内」というお手紙が届き、「これはファンクラブの集いであるな!」と思い、嬉々として参加のハガキを返信した。そんな上賀茂神社崇敬会会員安泰祈願祭に先日行って来た。

見事な快晴。早朝の秋の京都は心地よく、市バスに揺られて一路上賀茂神社へ。


くるりの「東京」のジャケ写を何か思い出した
立派な鳥居
清々しい参道

ウキウキと受付に訪れ、その光景を見た時「これは場違いかも知れん…」と感じた。分厚い祝儀袋が重なっていた。事前に社務所に電話して、当日はいくらか包んだ方がいいのか?を確認すると「崇敬会の会員様なら参加費は結構ですよ」と返答いただいたので安心し切っていた。「どうしよう…」と思いつつ財布を持ちながらおずおずと受付を行うと、受付担当の方から笑顔で「結構ですよ」と伝えられた。

しばらくすると神主さんが現れ、まずは境内で祈祷を行うので…と案内されて本殿へ。たまたま案内する神主さんのすぐ後ろを歩いていた私は祈祷の場の最前列に座ることになった。祈祷の場に来る人来る人、会社の役員クラスの人たちなんだろうな…と思わせる風貌の方ばかりで恐らく私が最年少。上賀茂神社崇敬会の役員の方々が最後に入ってこられると、私の前に上賀茂神社の田中安比呂宮司がお座りになった。


雅楽の音、巫女さんが五十鈴を鳴らし、神主がお祓いを行う。ひとつひとつ丁寧に作られたお供えを神主が国宝の本殿へ運ぶ。祈祷を行った後、司会の神主から「本年度は皆さまのおかげで○○と○○を新調しました」という報告があった。何だろう、この株主総会みたいな雰囲気は。そして周りにいる方々はどう考えでも相当な額の寄付を行っている空気感。私は年会費5,000円しか払ってない…。ええんか、コレ…。

本殿での祈祷と報告が終わり、お神酒をいただいた後に新しくできた明神会館へ案内された。そこでは式典があり、裏千家の前家元:千玄室さんの講演が行われた。千玄室さん、御年99歳。歩行器も車いすも使わずに歩いて壇上に上がられ1時間ほどの講演をしっかりお勤めになられた。覇気って言葉があるけれど、私は初めて覇気というものを感じた。それほど人間としての迫力があった。

千利休の血を受け継ぐ99歳の御大の言葉を聞くのはとても貴重だし、なるべく忘れたくないので、講演の中でお話しになった印象的な言葉をわかる範囲で書き留めておく。


大切なのは、祈ること、礼、祝うこと。

祈ることは神仏にすがるのではなく、四季折々の中で生かされているというのを感じて神とつながること。

礼とは尊敬し合うこと。

祝うとは満ち足りること。

願いは稲を植えるようなこと。ままならないことが多いが、それでも育て守るもの。

生きるということは、自分と同じくらい人の為に生きること。

血を大事にする。

祭りとは神に自分たちのところに来てもらいたいという想い。しめ縄は縄張り。そこに神様をお招きして、最高のおもてなしをするということが祭り。

「平和」「peace」という言葉など使わなくていい。大切なのは和である。和とは何か? 和やかさ、「お先にいかがですか?」という気持ち。

お茶の作法で茶碗を何回まわしたらいいのかをよく聞かれるが、形式が大事なのではなく、正面を避けるということが大切。それは謙虚な心。

前に出よう出ようとするから戦争になる。出ていこう出ていこうとするから戦いになる。お互いに謙虚になる、その気持ちが大切。大きな声で平和を訴えるのではなく、生活の中でぶつからないようにちょっと下がる。

余裕、ゆとり、謙虚な心を持って人様を疎かにしない。人間はみな汚い。それでも家元になったら、どんな人にでも一番のお茶をお渡しするのだと母に言われた。

神仏はいつも観てござる。だから、正直に、素直に生きていないといけない。自然と共生することが神に対する想い。

お茶を一服、捧げ念ずるその気持ちが大切。


お話しを聞いて、また「譲ること」か!!と思った。

というのも、ここ最近、何だか「譲ることの大切さ」ばかり私の耳に入ってくるのだ。実はこの2週間前にSNSにこんな投稿をしていた。


【負けて勝つ 譲って巡る】

昨日乗ったタクシーの運転手さんと、昨日たまたま見た友人のYouTubeで何だか同じようなことを言ってて不思議だったので書こうかなと思います。

荷物がたくさんありすぎてタクシーに乗った時、運転手さんが行こうとした道にけっこう自己中心的な駐車をしてる車が3台くらいありました。駅方面だから送り迎えの車なんだけど、タクシーがその間を通れなさそうな右端左端に止めている。

「何ちゅう止め方しとんねん」とおじいちゃんのタクシー運転手さんはボソッと言った後に「よしよし動いた動いた!」と言うので見ると1台の車がスペースを空けるように動いた。

その後に運転手さんが突然饒舌に話し出した。

「あんな、ああいう時はな、腹立つけど文句を言うたらあかんねん。(何しとんねん! どかさんかい!)言うたらお終いや。(どいてほしいなー。どいてくれたら嬉しいなー。ありがたいなー)思っとったら、不思議とな、自然とどきよんねん。これは何十年とこの仕事やってきてホンマに身に染みとることや。せやからな、もし相手に腹が立ったとして、向こうが悪かったとしても腰を低くうして(すんません)言うたら済むんや。相手がじゃなくて、そういう風に自分で引き寄せるんやで」と熱弁した。

友人はYouTubeで人に譲ることを説いていた。

「何でや?と思うことも譲っておくといい。みんな取りに行こうとするけど、譲っておく方ががいい巡りになることが多い。

要は相手の立場になること。例えば、首切り族が何で首を切るのか? 首を切るってだけで引いてシャットアウトしてまうけど、何で首を切る風習があるのか?を考える。そうやって相手の理由を考えてみる。自分の友達以外はただの人だと考えてしまいがちになるけど、その人が自分の友達だったら?って考えてみるとか、損得ではなくそういうことで巡っていく方が何か良い感じになる」

同じ日に聴いた。ちょっと違うようで何か似てるというか、同じことだと思った。


とどめは上賀茂神社で引いた八咫烏おみくじ。こんなことが書かれてた。


八咫烏人形が可愛いおみくじ
大吉でした

争事:負けるが勝ち
縁談:謙虚になればある
恋愛:思いやること

譲る、負けて勝つ、謙虚になる、思いやる。そんな言葉の矢がひたすら私に向かってくる。

これは一体何なんだ。

譲るって、我慢すればいいってこと? 私が犠牲になればいいってこと?

それは何か違うと思うんだけど、これをどうとらえたらいいんだろう? 

私は今までけっこう本当はこうしたいけど…とか、本当はこう思うけど…ってことを我慢して、声の大きな人とか、ぐいぐいくる人が欲するものを譲ってきた。でも本当は嫌だったから最終的に「嫌だ!」って感情が爆発して自分だけでなく相手にも嫌な思いをさせてきたんだけど…。

譲るってことをどう捉えたらいいんだろう?

そんな風にしばらく悩んでいたんだけど、たまたま友人と電話で話してたら謎が解けた。話した内容が不思議とリンクした。

自分の本音は大切にする。自分の一番の叶えたい願いを認め、恐れずに出してみる。素直に伝えてみる。

だけど、自分の願いを叶える為に人を傷つけたり、押しのけたり、押し付けたりしない。自分の願いや想いを何が何でも突き通せばいいのではなくて、自分の願いや想いは大切にしつつ、執着せずに譲る心や思いやりの心を持って人に接するということが大事なんだ。どんな相手にも最高の一服を差し出す気持ちで接する。きっとそういうことなんだ。それが譲ることなんだなぁ。

譲る気持ちは大切にしつつ、自分の本音や本当は欲しいものに対しては我慢したり遠慮はせずに、与えられたなら、ただただありがたく喜んで受け取ろう。

自分の心からの本音は自然そのもの。自然と共生することが神に対する思いなら、自分の本音と共生することが大切。だけど、それを何が何でも突き通すとか、他者を否定するとか、そういうことをしないように心を配る大切さを色んなバリエーションで何かが伝えてくれた気がしてならない。

まったく関係ないところから、同じメッセージを聞く時は、よくわからないけどすごく大切なことなんだと思う。私以外にもどこかで必要なメッセージな気がして書いてみました。



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