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1億

東京などに行くと、「この場所の、この瞬間だけでこんなにも多くの人がいるのに、日本の人口は1億人しかいないのか」と思う時がある。

電車の窓から眺める風景からも地表を見せまいとばかりに家々が並んでいるのに、1億。

私は1億という数字をナメているんだろうな、とは思う。ナメているというか、やりたいことをざっと上げても1億は全く足りないから、どうしても少なく感じてしまう。私の身体にある細胞が数億というのも少ないと思う。私は数億の細胞で構成できるほど単純なものなのか?と、考えない事もない。

しかし、1億が私のように自律的意思を持って「生きている」と考えると、それはそれはとんでもない量だと感じるのだ。
人生をPCだとすると、たかだか18年と数ヶ月生きただけでも、恐ろしいほどのデータ量を消費しているだろう。若干動作が重くなり始めていてもおかしくは無い。

それが1億、同時に日本という大きすぎるスパコンの中で日々私のように思考して暮らしている。私の前に並んでいたあの人も、さっきまで話していたあの人も、今ベッドで寄りかかっているあの人も、皆私と同じように(そしてそれ以上の)人生データの重みを持ち、今この瞬間もデータを食い続けている。

生きているだけで、データが消費され続けていく。
いつか、いつの日にか。
人類のストレージがなくなってしまうのでは無いか。その時何が起こるのか。瞬間、我々は思考を止めなければならないのかもしれない。かと言って今後は省データで生きろ、というのも酷な話だ。思考せず、学ばない。そんな人生、なんの価値があるというのだ。悪いが私は圧縮ファイルを使うつもりはない。

少なくとも今はただ、人類にcloudがあることを祈るしか無いのかもしれない。

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