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#004 第三章 学生たち

#統一協会 #カルト #入信 #脱会 #体験手記 #やま
#山下ユキヒサ  

本文の前の「はじめに」


ボクの20代の数年間はカルトの記憶でした。

「カルトの記憶」は、

ボクの統一協会入信から脱会までの体験手記です。

    *

ボクはこの世界で生きる意味を与えられ、

仲間たちと共に毎日夜中まで活動に明け暮れました。

そこには、説明の要らないような青春のきらめきも確かにありました。

そして、もう一つ確かなことは

落ちても落ちたことに気づかないような、

マインド・コントロールという〈落とし穴〉に、

しっかりとはまり込んでいたことです。


カルトの記憶/目次
 
プロローグ

第一章 ブンブン

第二章 アジト

★★★第三章 学生たち

第四章 チャーチの人々

第五章 三軒茶屋

第六章 特急ロマンスカー

第七章 出口

エピローグ

主要参考文献
        

カルトの記憶


【第 三 章  学生たち 】

 

 
警戒心が解けるとると、ホームへの訪問回数は確実増えていった。

その場所に行けばいつも気のいい仲間がいて、他愛のない話で盛り上がった。和やかなやりとりは、いつのまにか〈神〉〈愛〉〈真理〉というような宗教的内容へ移行していく。

そんな流れに抵抗はなかった。それどころか、そのような話題を真正面から語り合うのは、なんだか大学生らしくてちょっと気分がよかった。

それは入学したのがキリスト教系の大学だということも大きかったのかもしれない。一年時には「キリスト教概論」という科目履修が必須だったし、年に数回だったか礼拝に参加してレポートを提出せよという課題もあった。 

仲間たちとの親密度が深まるにつれ、この場所がじんわりと躰になじんでくる。だからといって彼らの世界に深入りすることには抵抗があった。もし仮に、彼らの主張する世界に飛び込めば、いまある自由はきっと大きく制限されてしまうだろう。

彼らのように、ここが唯一の場所だと強く思い決めれば、これから先の大学生活がとても窮屈になるのは容易に想像できた。これから自分は何がしたいのか、胸を張って言えるようなものはまだ何もなかった。ただ漠然と考えていたことはある。それは、いろいろなアルバイトを通して社会経験を積もうというものだった。

ただもう一方では、せっかく親しくなった彼らとの関係をぷつりと断ち切ってしまうことにもためらいがあった。彼らとの語らいは愉しく有意義なものだったからだ。そんな揺れ動く心のバランスを密かにとりながら、僕のホーム通いは続いていた。

 

七月下旬、前期試験が全て終了する。

最後の試験が終わった日の帰り道。宮益坂を渋谷駅に向かって歩いていると、なんとも言えない解放感に包まれた。試験の出来はともかく、大学に入って初めての輝かしい夏期休暇が目の前に広がっていた。

これで九月の末まで約二ヶ月間は大学に行かなくてもいいのだ。しかし一方で、思い出すと気がめいる事柄があった。それは原理研究会のメンバーと先日交わした一つの約束だった。

ホーム通いが日常化しお互いに気兼ねがなくなると、彼らは「スリイデイズ・ワークショップ」なるものの参加を盛んに誘ってきた。これは三日間の合宿研修会のことだ。統一協会では泊まり込みの研修会を「修練会」と呼んでいた。

彼らが信じている教えの内容を、自分も知りたいという積極的な思いはなかった。いくら誘われても大学やバイトを休んでまで参加する気持ちまではなかった。

だから、あれこれ口実をつけて言い逃れていたのだが、それももう限界になっていた。そしてとうとう逃げきれず承諾するはめになった。

しかしいざ参加となると、直近ですぐに申し込める「スリイデイズ」は開催されてはいなかった。だから初参加がいきなり「セブンデイズ(七日間の修練会)」ということになってしまった。

貴重な休みの中から一週間も割く事は、了解してしまったあとでも気持ちを重くさせていた。しかし、まあ、これまでのメンバーとの付き合いというものもある。ここで頑なに拒み続けるなら、今後ホームへの出入りは難しくなるだろう。

今度だけ、とりあえず義理を立てて一回だけ、と自分をなだめながら数日を過ごした。そして約束の日がやってきた。

西沢さんの案内で修練所へと向かった。東京都西多摩郡五日市町(現在はあきる野市)。その場所は関東地区の原理研が利用する統一協会所有の施設だという。

近くには秋川が流れていて、そこは通称「秋川修練所」と呼ばれていた。電車を乗り継ぎ最終駅に着く。改札を抜けて田舎道をしばらく歩く。着いた場所は平屋の質素な木造の建物だった。

その敷地の庭にはちょっとした池があり、その柵囲いの中には四、五羽のアヒルが放されていた。最初閑散としていたこの施設だったが、やがて関東各地から集まってきた大学生の男女でみるみるにぎやかになっていった。

本来は大学生対象らしいのだが、今回は何名かの高校生もまじっているという。それはK大学付属の高校生原理研究会の男子四名だった。やる気満々で純粋一直線の彼らは、期間中十代真っ盛りのパワーを、僕ら大学生たちに見せつけた。

詳しいことは何も知らされていなかった。

そもそもこの「セブンデイズ」というのは、「スリイデイズ」という三日間の研修につぎ四日間の研修を終了した者が、次のステップで参加するという位置づけのものだった。

段階的に用意されたプログラム。それなのに自分は、第一歩がこのセブンデイズへの初参加となった。こんな参加の仕方はかなり珍しいことらしかった。その証拠にスタッフの学生たちは、僕が初参加だと口にするたびに驚きを隠さなかった。 

参加者が徐々に増えていく。人に人が加わりにぎやかになっていくこの空間。早目に着いた僕は、そんな光景をぼんやりと眺めながらなんとなく考えていた。義理立てして参加したような自分が言うのも何だが、この集団に青年たちが集まってくるのもなんだかわかるような気がした。

確かに執拗な勧誘という状況はあったかもしれない。人が人を熱い思いで強く誘えば、思った以上に人を動かすことはできる。しかし、強引なだけの勧誘でそうそう人も集められないだろう。
きっとここには、学生たちの若い心を魅了し、心を引きつける何かがあるのだ。

たとえばこうだ。大学に合格し目の前の目標がなくなる。期待した講義にもすぐに失望する。空疎な心を抱えたまま行き場を失う。何か夢中になれるもの、打ち込めるものが見つかればいいが、見つからないまま日々を過ごす学生たちもいるだろう。

そこで統一協会のような新興宗教と出会ったとする。

どのような宗教団体にも教えを体系化した教義がある。そして、問いかけるのだ。何のために人が生まれたのか、生きる意味とは何なのか。

そして、それまで聞いたこともないような世界観が広げられ、崇高な理想を注ぎ込まれる。今の生活に、今の自分に満足しているのかと迫り、変革へといざなう。そして驚き、感動する。自分が今まで見たことも聞いたこともなかった世界、そんな魅力的な世界があるのなら飛び込んでみたい、そう思わせるのかもしれない。

生き方を模索する若者たちは、やがてそんなメッセージに心惹かれていく。

さらに、組織は若者たちを勧誘するために若い力を発動させる。自分と同世代から声をかけられ誘われるのには抵抗が少ない。

出会い、打ち解け、親しくなる。やがて彼らと同じ目的・理想に向かって動き始めると、自然に連帯感や団結力が生まれる。それはたとえどのような活動であっても、仲間と共に一心に打ち込み、得られる達成感や充実感は何ものにも代えがたいものになる。

そんな彼らが「生きる目的を見つけた」「本物の生き方がわかった」「自分の居場所を見つけた」などと熱く語りだすのも、何ら不思議ではないのかもしれない。

自分を賭けられる何かを見つけたい。そう思いながらそれが何なのかわからない。
可能性に満ちあふれていると同時に、見えない将来に大きな不安を抱えた青年たちには、このような宗教団体がとても魅力的に映るのかもしれない。

そこには〈今を生きる道〉がダイナミックに示されているからだ。

始まってみると、僕らは缶詰だ、と思った。

一つ講義が終わったと思うとまた次の講義が始まる。それが早朝から夜更けまで続くのだ。午後に多少の自由時間はあるにせよ、施設から外出できるほどの時間ではないし、そもそもそんな気力もない。
新聞やテレビもなく外界との情報は遮断されている。

やっと長い一日が終わるころ、就寝前には感想文を書かなければならなかった。修練会は朝目覚めてから就寝するまで管理されている。

要所要所ではなるほどとは感じる講義も、長時間の集中講義に疲労も蓄積されていく。ここにはエアコンなんてものはなかった。窓を開け風を呼び込むしか涼を得る手立てが無かった。

座っているだけでも汗は額に粒となった。夜は夜で個室などなく、広間に何十人も雑魚寝だ。いびきに寝言、寝苦しい夜は長く辛い。

そんな日々を重ねれば、若い肉体にも疲労が色濃く滲んでいく。確か、四日目の、朝食後のことだった。

進行係からある発表があった。

「本日、午後から河原でゲームを行います」。きけば男女混合のチームを作り、ラグビー対決をするのだという。

体を動かすことはもともと好きだ。まして缶詰状態で講義漬けのスケジュールで体はうずうずしていた。たとえ炎天下のプログラムでさえ連続講義から解放されるのなら大歓迎だった。

真上にあった太陽が西に少し傾いた頃。

みんなは運動着に着替えると外に出た。「進行さん」の先導で土手をしばらく歩くと河原に下りた。ところで、この修練会を引っ張っていく全体のリーダーは、「進行さん」と呼ばれる進行係だ。

修練生の前に立ち、何かと指示出しするのは彼だ。この役目はある意味講師以上に重要なポジションであると言われている。数十名の様々な個性の大学生をまとめ、短期間に練り上げる。

そこには相当なリーダーシップというものが必要だろう。それは厳しいだけでも、また優しいだけでも勤まるものではないにちがいない。彼は連日の講義で疲れたわれわれを、ときどき空気の抜けたようなジョークで脱力させた。かと思えば、叱るときには声を張り上げ、みんなをピリッとさせた。

 さて、土手におりて木々を抜けると、広々とした河原に出た。今までほとんど屋内に閉じこもっていたせいか、遠くまで見渡せる視界のひろがりが心地よい。緑に溢れた風景が心を癒やした。

進行さんは全員を呼び集めると、ゲームの説明と注意を与えた。

「さあ、みなさん。お楽しみのリクリエーションがこれから始まります。男女混合で行うわけですが…いいですか、決して手を抜いてはいけません。完全投入(※統一協会用語、全力を出し切ること)です。

特に女性に言っておきますが、エデンの園ではご存じの様に女性エバから堕落しました。

ですからその蕩減(とうげん)(※同、罪のあがないを意味する)としてこのゲームも頑張らなければいけません。イタイだとかキャー、コワイだとか恥ずかしいなどと考えてはいけない。そのようなものはすべて、堕落性本性(※

人間の罪から発生している性質だと統一協会では教える。ここでは羞恥心の意味)です。男性のみなさんも相手が女性だからといって手加減しては絶対にいけません。…いいですね。えーと、これからラグビーをしてもらうわけですが、今から使うボールはただのボールではありません。

〈神様〉だと思って大切に、また激しく奪いあって下さい」進行さんはそう結んだ。

さっそく男女を半々にして二つのチームを作った。そして簡単なルールやフィールドの説明がなされる。使われたボールはバレーボールだった。

しばらくの間、人の腕にすっぽりと納まるこの丸いボールが神様というわけだ。いよいよゲームは開始されようとしていたが、実はこれがとんでもないものだった。
しかし、僕はこのとき呑気にこんなことを考えていた。

…ラグビーなんて激しいスポーツをやれば、結局男同士の戦いになって女の子たちは脇で眺めるしかないだろう。スタッフももっと全員が楽しめるようなゲームを考えればいいのに…甘いな…。

しかし、本当に甘かったのは修練会初参加の僕の方だった。

そのことを思い知らされたのは、開始のホイッスルが鳴らされて間もなくだった。

バスケットボールと同じ要領。両チームから選出された長身の二人が向かい合う。ゲーム開始のボールがトスされると、二人は勢いよくジャンプした。弾かれたボールは回転しながらゆるい弧を描いて落下する。

ボールの軌道に向けて殺到する仲間たち。ぶつかり合い激しく揉み合うかたまり。その中から弾き出されたボールが、早速僕の目の前に転がってきた。咄嗟に拾い上げると、神様はいとも簡単に手中におさまった。

 

――――ドンッ、バンッ、グリグリッ。

 

次の瞬間、背中に強い衝撃を受けた。一瞬息が止まり、痛みでその場にうずくまりそうになる。誰かが背後から体当たりしてきたのだ。二発目は脇腹に受けた。

あっという間に動きが封じられた。四方から全身を圧迫されると骨がギシギシと鳴いた。

周りを瞬時に取り囲まれ、ボールを奪おうとする手や腕が何本も何本も胸元にねじ込まれ、絡み合う。ボールを掴んでいる自分の手がいったいどれなのか、自分でもわからなくなった。

しばらく揉み合い押し合いを続けているうち、人のかたまりはバランスを失い、脇を固めていた何人かが崩れるように脇に倒れた。おっ、逃げられる、強行突破だ。ここぞとばかり全身に力を込めた。背中に覆いかぶさる奴には、水から上がった犬がするようにブルブルと二、三度大きく背中を揺らせてみた。

それが思った以上に効果があった。背中の敵はうわっという声と共に、脇にドサッと落ちた。ヤッタ。身軽になった僕が走りだそうとした瞬間、必死の形相をした一人の女の子が行く手に立ちはだかり、二の腕をがっしりと掴んだ。

殺気に満ちた女。強く握られた手、爪が肉に食い込んでいる。逃げ出そうと走り出した。すると爪が食い込んだまま皮膚を走った。

 (痛い! おいっ、痛いんだよ!)

目をむいた女子学生に圧倒され、そんな罵声をグッと飲み込んだ。もしそんな言葉を本当に浴びせかけたら、カマキリのオスのように頭からバリバリと喰われそうだった。

それほどに女の目は血走っていた。そんな勢いに気圧(けお)されひるんでいるすきに、背後から来た別の誰かにボールが奪われる。今の今まで抱えていた神様は、次の瞬間遠くに行ってしまった。落下地点ではまた奪い合いが始まって誰かが揉みくちゃにされている。
ヘナヘナと力が抜けた僕は、その場に呆然とたたずむしかなかった。

女から受けた傷がズキズキしていた。

血の滲んだその傷を舐めると、カラカラに乾いた口の中に血の味が広がった。


 ナニガ、カノジョタチヲ、ソウマデサセルノカ…。


ゲーム前の、進行さんのあの言葉に取りつかれたように、女たちは変貌(へんぼう)した。 

今、目の前を暴風のごとく駆け回っているのは、女を捨てた女たちだった。

男たちが迫っても決してボールを手放しはしない。たとえ倒れたとしてもボールを抱えたまま足をバタつかせ、誰彼構わず蹴りを喰らわせる。それでも足りなければ「イヤー」と金切り声で反撃。捨て身の抵抗にはもう手がつけられない。
〈神様〉を死守するためにはどんな反則技もおかまいなしだ。

やがて、そんな勢いに男たちも自然と本気にさせられる。

時々コースを外れたボールが川に流された。それでも濡れることなどかまいもせず、男も女も水しぶきを上げて川の中に飛び込んでいく。女たちの勢いはもう誰にも止めることはできない。

男たちのボルテージも最高潮に達する。風をきりながら走る僕に、それはまるで天からの啓示であるかのようにひとつの思いがヒラヒラと舞い降りた。

 

…ボールをつかんだら、あ、ぶ、な、い…。


ボールという神様を手にした途端、人を人とも思わないような相手チームの奴らが体当たりしてくる。そんなアタックを受けるのはもうごめんだ。女の子に爪を立てられるのも勘弁して欲しい。ボールが行く所、転がる所に巻き起こる激しいぶつかり合い。

僕はその激戦地からつかず離れず、一定の距離を保つようにした。それからはこぼれ球を補球することに専念したのだ。これでチームの一員としての格好はつく。

運良くか悪くかこぼれ球を手にしてしまったときには、相手に取り囲まれる前に別の誰かにパスしてしまえばいい。

神様を激しく奪い合う群れは、倒されようがかきむしられようが、全く構わずまた喰らいついていく。

喉がヒリヒリする。足ももつれてきた。心臓はバクバクで耳の奥からドクッドクッと音がする。もう限界だ。


ピピピピーーー。

 

長く尾をひくホイッスルが遠くできこえた。

勝ったり負けたりを繰り返し、途中休憩を挟みながらも二時間以上に渡る激しい戦闘は、進行さんの合図とともに終りを告げた。ヨレヨレになった仲間たちが、進行さんを囲むように集まっていく。

最初肩で息をしていたわれわれの呼吸が整うにつれ、どこかに置き忘れていた人間性の方も除々に取り戻していく。汗をかいて乾き、またどっと汗をかいてと繰り返すうち、額といいシャツの胸や腋の部分といい、塩が粉をふいたようになっていた。

この集団には何でも徹底的にやるということが伝統になっているらしい。この集団内で使用頻度の高い内部用語、「完全投入」とはこのことか。この狂気のようなゲームで、この言葉が与える影響力を思い知らされた。

弾力にとんだ若さもさすがにペシャンコになっていた。

集まった仲間たちの輪の中から「あっ、血が出てる」とか、「ひゃー、破れちゃってるよー」などという声がもれる。情けなさそうに曲がったメガネフレームを直している奴もいる。とにかく、勝敗などもうどうでもよかった。とにかく気持ちよく力を出し切った。

缶詰講義でうっ積した若いエネルギーは、出口を見つけた途端一気に噴出した。そして一かけらも残さず昇華させた。

荒れ狂う人間が怒濤(どとう)のようにうねったリクリエーションは終了した。負傷者は数え切れず、打撲や外傷の程度もはっきりとつかめてはいない。

しかし、いかに二十歳前後の青年たちだとはいえ、石だらけの河原での肉弾戦。ヒビや骨折などというレベルの負傷者が一人も出なかったのは、本当に幸いだったと言うしかない。

 *

翌日、青アザと筋肉痛の朝を迎える。

昨日おもいっきり躰を動かしたからか、仲間の顔はぴかぴかに輝いているように見えた。缶詰講義で閉じ込められた躰は、くるった犬のように外を駆け回ることで一気に活性化された。

さて、ふたたび、今日も講義。

今までのおさらいをしていくとこうだ。初めに講師はこう言った。「神の存在を科学的に証明します」。

神は全知全能で、この神によって天地の全てが創造されたという。つまりこの地球もそこに住むわれわれ人間も、全宇宙に至るまでのすべては、神によって造られた神の作品というのだ。

神という作者が全宇宙という作品を造られた。これは統一協会の教義である「創造原理」にある内容だ。

それは、作者である神のことを知る手がかりは、その神の作品をよくよく観察することだという。見えない神の性質(神性)を知るためには、神が造られた万物世界を観察することによって知ることができるというのだ。

目に見えないものの存在を、目に見えるものを通して証明しようとする試み。それはわかりやすいと言えばわかりやすい説明だった。

太古の昔から人は、神は目に見えないから存在しないと言い、また、目には見えなくても存在するのだと言い争ってきた。見えない神の存在を、人に伝えていくことの難しさは歴史が証明している。

「堕落論」という講義があった。神の作品である人間が神の前に罪を犯したという。

それが原罪というもので、人間はどんなに善人といわれるような人でもこの罪の性質をもって生まれてくるというのだ。

正しい道を歩みたいと思っている人間が、悪の道に走ってしまう理由も実はここにあって、その背景には悪魔とかサタンとか呼ばれている邪悪なものの影響を受けているという。

 

ふーん…。

そう、ただふーんとしか言いようがなかった。講義は六日目に入った。いよいよ講義も大詰めだ。日程も残すところ今日と明日の二日。そんな朝を迎えていた。朝起きると、部屋の空気になんとなく違和感があった。

いつもと違うと感じたのは、この空間に漂うそこはかとない緊迫感だったのかもしれない。あるいはスタッフたちの何やら落ち着きのない挙動だったのかもしれない。

講師の語り口調が、なんとなく改まったものに変化していたからかもしれない。そうなのだ、講師は我々に重大な何かを告げようとしているようだった。

今まで講義には姿を見せたことのなかったスタッフたちが、いつのまにか修練生の周りを取り囲むようにして座っている。それはまるで秘密の内容が、不用意に流出してしまわないように身を挺してガードでもしているようだった。

いったいこの空気は何だ?

講師は何かのタイミングを計っているように思えた。今まで明らかにしなかったのは隠すことが目的ではなく、永遠に封印したいためでももちろんない。

実は最高の盛り上がりを演出し、その登場を際立たせようとしていたのだ。

 

えんしゅつ…えんしゅつ…えんしゅつッと…。

 

そうだッ!

そう、何かこれは…。

「バン、ババババンバン、バンババババン…じーんせい、楽ありャ苦もあるさァ~」。

そう、あれだ。

昭和から平成にかけての国民的番組、時代劇『水戸黄門』である。(初回1969年8月4日 最終回2011年12月19日)

黄門さまが最後の最後で身分を明かすという、アレだ。

格さんが「印ろう」を掲げながら「静まれ、静まれ、この紋所が目に入らぬか!」と唱える有名な台詞。この格さんの「静まれ、静まれ」と告げる機会を、講師は計っていたにちがいない。

講師は格さんの役割を今まさに全うしようとしていたのだ。

いつも決まってゴールデン・タイム。その八時台に放映の時間枠を設定される『水戸黄門』。その中で格さんの決め台詞が発せられるのは、八時四十五分前後と決まっているという。

最初から印ろうを出せば話しが早い。しかし、それでは様々な人間模様を映し出すことができず、ドラマとしては成立しないだろう。人間の怒りや悲しみという感情を軸に、悪政を行う大名・代官に対する義憤が凝縮されていく工程が必要だ。そうでなければ印ろうが示され、黄門さま登場における強力なカタルシスには繋がらない。

『水戸黄門』番組制作の裏話を、何かで読んだ覚えがある。

番組の中で、印ろうをかざすその八時四十五分が少しでもズレようものなら、視聴者からの苦情が殺到するという。物事にはここぞというタイミングがあるもので、黄門さまが身分を明かすのは早すぎても遅すぎても、熱心な視聴者には我慢ができないらしい。

 

―――こうなると、不動の〈八時四十五分〉ということになる。

 

まさに、このセブンデイズ・ワークショップにおいても、最大の山場「静まれ、静まれ」の〈八時四十五分〉が迫っていた。

この修練会の〈格さん〉である講師も、いよいよといった面持ちで厳かに語り始める。

愛の神は罪深い人間を見捨てることはなく、この世に救い主を送って下さったのです。それがメシアなのです。メシアとは聖書の終末思想のうちに待望された救済者のことであります。

講師が目配せすると、一人の女性スタッフがしずしずと前に歩み出る。うやうやしく講師に差し出されたものは、大きくて立派な額だった。それが講壇の上に置かれ修練生に示された。

額に納められた写真は、スーツ姿の恰幅のいい男性だった。たとえば昭和の会社の応接室。その壁に、創業者です、と飾られているような貫禄の男性だった。

講師はきっぱりとした口調で宣言する。

「この方こそが、神の啓示によって統一原理を解明された方、そして私たち人類の救い主であられる、文鮮明先生です」

 

あっ、このおじさん!

写真を見た瞬間、初めてホームを訪れたときの記憶が弾けた。

ガッチリした体躯の男性がネクタイを締め、背広姿でりりしく写っていた。ホームの壁に掛けられていた写真の人物は、今目の前に示された男性と同一人物だった。

僕はホームでその写真を見つけたとき、「力道山」だと思った。だからそのとき確か「この人、力道山に似てますね」なんて皆の前で口にした覚えがあった。そのとき西沢さんに、この人誰なんですかと尋ねた。

「えっ、ああ、あの写真?…あれは、うーん…なんていうか。みんながお世話になっている人なんだ…」なぜかドギマギした西田さんの物言いを、そのときは少し妙に感じただけだったがこれでわかった。あのときはまだ黄門様を明かすタイミングではなかったってわけだ。

あのときの西田さんの困った顔を思い出すと、なんだか可笑しさが込み上げてきた。

救い主が本当に文鮮明というこの人物だったとしたら、確かにホームのみんなが世話になっているという説明に間違いはない。

しかしそうであれば、世話になっているのは何も西沢さんたちばかりではなく、人類全体が世話になっていることになる。

しかし僕には、この文鮮明という人は、やはり力道山に見えた。

 戦後最大のスーパーヒーローだったプロレスラーの力道山。プロレス好きだった父の影響でおぼろげな記憶がある。

リングに上がった黒タイツ姿のヒーローは、アメリカから来た対戦相手に空手チョップの嵐を浴びせる。

相手の悪役レスラーは恐れおののき、リングにひざまずき許しをこうのだ。リングで仁王立ちになる力道山の雄姿に、大人も子供も酔いしれた。

そんな力道山も、昭和三十八年十二月、暴漢に襲われ三十九才の生涯を閉じることになる。

その時代のスーパースターに、この写真の人物は似ていた。いや、もし二人を実際に並べ比べればそれほど似ていないのかもしれない。しかし、僕の心象の中で二人のイメージは重なり合っていた。

文鮮明が人類の救世主というスーパーヒーローなのか? ヒーローにバッタバッタとサタンがなぎ倒される。そんなイメージに彼らは酔いしれているのだろうか。

人類の救い主であると告げられた文鮮明という男。そのような話に何の実感もわかなかった。それは何だか遠い世界の、自分とはまったく無関係の話にしか思えなかった。

「この方こそが人類の救い主であられる、文鮮明先生です」。

 

ふうーん、そうなんだ。

この力道山がねぇ。

メシアだって、ふうーん。

 

 * 


夕食が済むと感想文を書くように言われた。これを書き上げたら全てが終了するはずだった。こんなもの早く片付けて、一分でも早く眠りたい。

七日間を回想しながら、配られた紙を埋める言葉を探した。

「いろいろな大学の学生と知り合うことができて良かったと思います」

「今まで考えもしなかったスケールの大きな話を聞けて、自分なりに人生を考えるきっかけになった有意義な七日間でした」

それはそれで嘘ではなかった。しかし、自分をあからさまに開き切ってしまえるほど、この場所で心を動かされたわけではない。こんな紙切れ一枚に、心の内をさらけ出したくはなかった。

主催者側に受けのよさそうな言葉をかき集め、手際良くちりばめた。やっとこれで寝られる。そう思っていると、個別面談があると告げられた。

おいおい、こんな夜更けに面談かよ。

数十分後。僕は三人のスタッフに囲まれていた。

彼らが言うには、今回の七日間は「統一原理」(統一協会の救済教義)の概略であり、あくまでも教義の入口にすぎないという。

七日間では語り切れない更に深い内容があると説明した。それが三日後、この同じ場所で行なわれる「二十一日修練会」(二十一日間の合宿研修)で学べるというのだ。

最初で最後という気持ちで参加していたのに、さらに次の修練会を勧められることなど、ここに来る前には何もきかされてはいなかった。

なにかいつも直前で情報が小出しにされる、そんなやり方に苛立った。このうえさらに三週間もの修練会なんて冗談じゃない。説得されまいと身をかたくした。

「せっかく七日間の講義を受けたんだから、心が熱しているうちにさらに深く学べばきっ得るものは多いと思うよ。鉄は熱いうちに打てと言うじゃない」

「次の修練会に参加すれば人生の本当の意味がわかるよ。自分の人生を真剣に考えているのなら、絶対に参加すべきだよ」

口調こそやわらかいものだったが、選択の余地などないんだよ、そう凄まれている気がした。なぜ彼らはこれほど熱心に僕のことを説得するのだろうか。

彼らをこれほど執拗な説得に駆り立てているものは、自分たちの行為は神の前にあって正しいという、それはきっと宗教的な信念や自負のようなものだろう。神を知らない人々に神を、真理を知らない人々に真理を伝えている、そんな強烈な自意識によって彼らは突き動かされている。メンバーにとってみればそれは聖なる行為なのだ。

 彼らは神を信じ、神の愛を伝えようとする伝道者だ。伝道者は神の愛を具現化しようとする。そして神からの真理を伝えることが、愛の具現化である。

彼らにとって神の真理とは「統一原理」であり、神の愛の体現とはこの教えを人々に広く伝えることだ。そしてなにより教祖・文鮮明が救い主であると告げ知らせることこそが、重要な使命であると考えている。

さらにこの真理を伝える最高の場所とは、修練会だと考えている。修練会で深く学べばこの原理の深遠な内容に必ず感動する。そんなふうに考えるのは自分たちもそうだったからだろう。

自分に起こった出来事が他者にも起こる。修練会で涙を流し生まれ変わった自分と同じように、きっと新人たちも感動の涙を流すはずだと信じている。さらに言えば、スッタフの誰かが新人の誰かの参加を導いたとしても、スッタフの誰一人として個人的に利益を得る者はいない。

それは彼らの行為が無償の行為だということを意味していた。つまりこの説得は、彼らの無償の愛の実践なのだ。無償の愛、それこそが伝道者を熱く、そして深く酔わせるものだ。

説得はまだ続いている。

僕を囲むスタッフはいつのまにか一人増え、四対一になっていた。

修練会の多くは次のステップ、つまり「二十一修」の参加をすでに決めていた。しかし、僕を含めた十数名は参加を渋っていた。なんとか参加を逃れようとする新人を追いつめようとするスタッフ。

説得とは心理と心理の追いかけっこなのかもしれない。追いつめようとする心と、逃れようとする心が錯綜(さくそう)する。しかし、執拗な説得が説得される側に善意として映るとき、それは説得されている者の逃げ足を鈍くさせる。

執拗に追いつめられ、しぶしぶ参加を承諾する者が出てくると、その輪のスタッフが部屋中に響き渡る大声で修練生の名前をコールする。それはなんだか誇らしげな勝利宣言のように聞こえた。

「はーい、森川さん、二十一修参加決定でーす」

その直後、よしっ、という気合いの入った掛け声とともに拍手が起こる。周りにいたスタッフたちからだ。

「ほら、森川さんも決意したから、山下さんも頑張ってみたら…」

囲んでいるスタッフの一人がすかさず僕に言った。一人の参加表明が次の説得のテコ入れに使われる。なんとか僕の心をゆり動かそうと必死なのだ。

説得されている十数名が一人減り、二人減りしていく。参加を拒んでいる人数が徐々に減ってくると、説得されている側はジリジリと追いつめられていく。そして、孤立させられていくような気分になる。これは見事な心理戦だ。

やがて、被説得者自身に心理的変化が生じる。いつまでも参加を拒んでいる自分が、とても自分勝手でワガママな人間に思えてくるのだ。そしてどうしてもいたたまれなくなってくる。

「参加しません」と言うことはできる。拒む自由は確かにあった。しかし、人間の心理に負荷をかける巧みな舞台装置によって、とても断りにくい雰囲気が生み出されていた。

最後まで自分の意思を通すには、ナイロンザイルのようなタフな神経が必要だった。

真夜中の説得はもう一時間以上になっていた。心身の疲労はとうにピークを過ぎ、思考力もすり切れていた。今の状況から解放されるなら、もう何でもいいと思った。
愛に溢れた独善的な説得は、ついにまた一人の青年を落とすことになる。

「は~い、山下さん、参加を決定で~す」

まるで一丁上がりという調子でコールされた。そして、僕は、解放された。

同じように参加を拒んでいた仲間のことを思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。まるで彼らのことを裏切りでもしたような思いだ。僕の陥落(かんらく)は確実に次の説得に勢いを与えるだろう。

スタッフの一人が、また別の誰かの名前を大声でコールした。

その声に呼応しスタッフたちは激しく拍手をする。なんだか目や耳を覆いたくなるような光景だった。そんな状況の中でも、最後まで自分の意思をつらぬき、参加を拒んだのは確か数人だけだった。
心は敗北感でいっぱいだった。なぜはっきりと断れなかったのだろう。

これはまた厄介なものを背負うことになったものだ。嫌なことを嫌だと言えなかった自分が、本当に嫌になる。疲れ切っているはずなのに、横になって目を閉じても、自己嫌悪がしばらく眠らせてくれなかった。

 なんで、なんで断れなかったんだろう。

俺って、あああ…。

タオルケットを頭からかぶると、エビのように躰を折り曲げた。

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