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夕凪堂のとある一日

 

 苦しい。すごく息苦しい。
 ただでさえ通勤時は人混みで息が詰まるというのに、鼻の通りは悪く、マスクまでしている。
 これだから春は嫌いなんだ。
 職場に着いてすぐ、自分のデスクに直行する。私はそこのティッシュに用がある。
 春夏秋冬で自分と一番相容れないのはきっと春だ。
 何の恨みがあってそんなに花粉をばらまくのか。
 鼻も目も水という水を出し尽くしてしまいそうな勢いだ。
 今一番欲しいものを聞かれたら、職場用の空気清浄機だと答える。もちろん花粉除去機能付き。


 ガチャっと扉が開いて、同僚の長居(ながい)さんが入社してきた。
「おはよう、型町(かたまち)さん」
「おはようございます」
 ちらっと目をやった時計は、始業までまだ時間があることを伝えている。
 自分のほうが先ではあったが、長居さんは時間に余裕をもって準備をしておくタイプの真面目な方(かた)だ。私も見習うところは多い。
 それにひきかえ他の二人は、少なくとも私たちより早く職場に来ることはないだろう。
 一方、ここのトップである編集長の浜沫氏は私よりも朝が早い。
今日は社長室にてチーフ会議のはずだ。社長の方針で会議は始業前に行われている。上に立つ者が部下に後れをとって何とするかという考えらしい。流石社長である。


 静かな職場で二人が各々準備を進めていると、ガチャンツ!と勢いよく扉が開き、社長の考えなどおおよそ理解していなさそうな男、紀村融(きむらとおる)がやってきた。
「おはよーみんな」
「おはよう、紀村君」
「・・おはようございます」
「ん?どうした型町ちゃん、風邪でもひいた?そんなおっきいマスクして」
「花粉症です」
「そっかー。きょうあったかいもんねー。でも型町ちゃんの可愛い顔が見れないのは残念だ」
 はあああという深い溜め息とともに紀村を強く睨み返す。
 紀村はハラスメントに引っ掛かりそうなスピードで懐に潜り込んでくる。仕事は出来る人なのだが、こういう面を見ているので全く尊敬できない。
 荷物を置くなり、紀村はのんびりとコーヒーを淹れ始めた。いつもいつも自由な男だ。
 ただ時間に関して言えば、もっと信用ならない男がもう一人いる。
 忌々しくも私の同期、樫木真琴(かしきまこと)である。


 樫木はいつも始業ギリギリに来ては何事もないかのように静かに席に座って仕事を始める。きっと9時に間に合ったとしか思っていないのだろう。早めに来ようとは考えもしないのだろう。
 樫木を見ていると、こいつのことは理解できない、いや、理解したくないと脳と体が叫んでいるように思えてくる。それくらいに、私は樫木と相性が悪い。


 会議を終えた編集長の浜沫氏の後ろから、おそらく最小限と思われる小さな音しか立てずに樫木が職場に入ってきたのは始業5分前だった。
 樫木はマスクをしていた。
「みんなおはよう!」浜沫氏が元気よく挨拶する。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます!」
 樫木は何も言わずに(とりあえず私には何も聞こえなかった)、自分のデスクへとまっすぐ向かった。
「おはよう。樫木君も、ひょっとして花粉症かい?」長居さんが、自分の隣の席に腰をおろす樫木に声をかける。
樫木は「はい」も「いいえ」も言わずに「・・・あれはもう毒ですよ」とだけ言った。
いや、なんだその返事は。言葉足らずにも程がある。
いやその前にとりあえず挨拶したらいいんじゃないか。樫木の挨拶を聞いた覚えはないけど。
ただ。「毒」という表現には少しだけ納得してしまった。不覚だ。
「二人マスクおそろじゃん」遠慮のない男が口を出してきた。
これは聞き流すわけにはいかない言葉だ。
「一緒にしないでください」
 樫木と一緒にはされたくない。何においても。
 紀村は大げさに肩をすくめてみせた。
 樫木は、何も気にしていないようだ。


 始業時間になり、浜沫氏が我々に声をかける。
「9時になったから、まあいつも通り各々進めていってください。ただ会議の伝達事項だけ先に話しておきます。先日発行した小冊子の御伽職業便覧ですが、もう何集か作ってからまとめて一つの本にする方向性でまとまりそうです。もう第2集は手を付け始めていますので、みんなどんどん進めていってください。来週それぞれの進捗を確認します」
 御伽職業便覧。先日の我々の仕事だ。
 文章量こそ多くはなかったが、取材から密度の濃い仕事だった。その続きを作っていけることは純粋に嬉しいものがある。
「編集長。第1集の評価はどんなもんなんですか」と聞いたのは紀村である。確かにそれは私も知りたい。
「外の評価はこれから集まってくるけど、社内では『なんかいいね』って言ってくれる人がそこそこいるかも。説明はしにくいけど、なんかイイ、みたいな」
「よくそんなんで続き決まりましたね」とは樫木。
「社長が面白がっちゃって」
「ああ、社長か。じゃあ仕方ねえや、仕事しなきゃ」
「うん、そうでなくても仕事はしてね」
「はーい」
 私も一つ聞きたいことがある。
「編集長。どこの記事が評判いいですか?社内で構わないので」
 私が担当したのは「最終確認課鉄道係」と「(株) the thousand violins」の二つ。どちらも素晴らしいお仕事だったし、取材内容にも自信はある。
「んー、どれも色々反響貰ってるんだけどね。強いていうなら最後の猫のやつかな。あれが好きっていう人は少し多かった」
「あれは他と少し毛色が違いましたからね。僕は表紙にも映した猫の写真が気に入ってます」
「長居くんは確か猫好きだったね。ひょっとすると一番喜んだのは君か社長のどっちかだ。まあとにかく第2集もいろんなお仕事を載せられるように頑張っていこう。僕からは以上、みんなは各自仕事にかかってください」
 編集長の号令から、職場がじんわりと勤務体制に移行していく。
 私は少し、取り残される。


 猫のやつ。「川猫のエサやり」の担当は樫木だ。
 お仕事の内容は特別珍しいものではなかった。取材も原稿も、おそらくこちらの方が、より熱が入っていた。
 なのに、あいつの記事を見た時、ひかれるものがあってしまった。あいつと餌をあげるおじさんの会話が聞いてみたくなってしまった。

 この渋い気持ちを返すのは過去にはない、次にあるはずだ。私は私の仕事をするしかない。
 そう自分に言い聞かせても、憎たらしい同期のことが気になってしまっていた。その樫木はというと、いつもと変わらない猫背と気だるげを伴ってパソコンに向かっていた。
 せめてもう少ししゃんとしてほしい。

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