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手にしたものは「言葉」だった

私は声での表現を1度棄てたから
書き綴っている。


幼い頃から、所謂「本の虫」だった。
絵本や紙芝居からスタートし、「かいけつゾロリ」シリーズなどの児童書、青い鳥文庫を通り
今ではエッセイ本や自己啓発本を読み漁っている。

図書館に出向けば貸出上限MAXまで借りる。
その本は1日で読む。
学校の図書室には毎週通い、年間150冊以上読み続けた。

そんな私を母はこう言う。
「そんなに本読む人、うちの家族にはいないよ~?」
「本当に私の子?」

最初は冗談かと思ったが、言葉が止まることはなかった。
それどころかどんどんヒートアップした。
私の心にどんどん刷り込まれていく。
刷り込まれる度に胸の痛みが増した。

「何で私の言うこときかないの」
ちがうの!本当は……
「お前は川で捨てられていたのを拾ってきたんだよ」
嫌だ…私はお母さんの子でしょ?
「泣くな!!……こっちの方が泣きたいのに」
……!!!
全部、私のせい……?

(かなり後で知ったのが、こういうのを情緒的ネグレクトと言うらしい)

言葉のひとつひとつに傷つき、
顔から表情が消えていった。

無表情、抑揚のない声
「わたし」という母の言いなり人形の完成だった。

それでも、本を読むことはやめなかった。
ささやかな抵抗だった。
唯一と言ってもいい、至福の時間だった。



転機は突然訪れる。
中2の時だった。
担任はベテラン風な女性の先生。
伝えたいことはきちんと伝える、さっぱりとした性格でとにかく生徒に人気だった。

とある道徳の授業。
文章を読んだ感想を書き、提出するものだった。
何かを気にする訳でもなく淡々と書いた。
普通に授業を受けた。
それだけだった。

その後の授業で、特によかった感想を先生が読み上げることになった。
そういうタイプかぁ~~……やだなぁ……
憂鬱になった。

目立ちたくない
怖い

氏名を告げられないとはいえ、なんだかなぁ……
伏し目がちに先生の話を聞いていた。

真っ先に耳に飛び込んできたのは、自分の書いた文章だった。
胸が高鳴る。
「よく感情が表現されてますね」
そう言われた。
目立つことは怖かったが、それ以上に嬉しかった。
誰にも届かないと思っていた私の声が届いたんだと思った。
私の存在がほんの少しだけくっきりしたような気がした。

用紙には綺麗な蛍光ピンクの花丸と「よくできました」の文字が踊っていた。
私は何度もその用紙を目に焼き付けて、胸のあたたかさを感じた。

通知表にも文章での感情表現がとても上手です、と書かれていた。

文字こそが私の居場所だと思った。



今は、昔よりもずっと表情に感情がのるようになったし、撮った写真を見て笑っている自分に安堵することがある。
自分が生き返ったような感覚である。

感情が戻っても、私は書き連ねることをやめない。
ひたすらに画面と自分が綴る世界に浸ること
自分が創った世界が広がること
人に読んでもらうこと
自分で読み返してもう一度その世界に浸ること
その全てが新鮮で私をイキイキとさせる。

だから
今日も私は文字を書き綴る。
自分を守るために。

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