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お前なんてどこにだっている臆病な怪物の一人のくせに。

 おはよう、――いつもどおりの朝で、いつもどおりに声をかける。けれど私の「おはよう」に返ってきたのは、「おはよう」の言葉ではなく視線だった。

 視線。

 その瞬間、ああ、私が標的になったんだなって。他人事のように理解した。

 ◇

 昼休みになると、高校生という生き物の大半は活動的になる。仲間と認めた人間同士で集まって、じゃれ合いながら学食に行ったり部室に行ったり、そうでなければ教室内の誰かの席に自分の椅子をガタガタ引きずり持ち寄って、そうして群れながら昼食をとる。

 私は。当てはまらない、朝にコンビニで買った菓子パンを黙々と自分の席でかじりながら、一人、スマホの画面を眺めている。

 三ヶ月前までは群れながら昼食をとる人間の一人だったけれど。理由のよくわからない無視、その標的になってからはこれがすっかり日常となった。

 ……いや、三ヶ月って。この期間ずっと無視し続けるとかよく飽きないね、お前たちは。

 改めて考えてみると馬鹿馬鹿しすぎて思わず笑いたくなってしまうのを、私は咀嚼した菓子パンを飲み込むことでどうにか堪えた。

 彼女たちはまだ気づいちゃいないのだろうけど、私はこのとおり。一人なら一人で別に構わないような人間で。そもそも小学五年生になるまでは、いわゆる特定のグループというものに属することを知らない子供だった。誰かに無視をされていたわけでもなく。なんとなく一人でいて、なんとなく周りも話しかけてこない。それが当たり前で。

 だから今の状況は、私にとって「ああ、懐かしいな」ぐらいのものでさえある。

 そう考えると本当に、彼女たちが今もなお続けているこの無視には一体なんの意味があるのだろう。

「…………」

 再生していた動画が終わった。パンをまた一口かじりつつ、別の面白そうな動画を探す。小学生のときは教科書を読んだりして一人の時間を過ごしていたけど、高校生の今はスマホがあるから、時間なんて本当にいくらでも一人だって過ごせてしまえる。

 ああ、これなんか面白いかも。

 見つけた動画を再生しようと画面を早速タップする――寸前で、唐突に大きな、ヒャアヒャアと耳障りな甲高い笑い声が教室中に響いた。

 お前たちか。

 笑い声を響かせたのが彼女たちだということに、顔を上げずとも私がすぐさま気づいたのは。三ヶ月前まで彼女たちと毎日一緒に過ごしていたから、笑い声を聞いていたから、だから……というよりは。むしろ彼女たちの標的になり、グループから弾かれたことで彼女たちをより客観的に観察できるようになったためだと思う。

 特徴があった。彼女たちの笑い声には。

 一緒に過ごしているときには近すぎて気づけなかったのだけど。彼女たちは、あの六人は、全員が全員そろいもそろってお腹の底から声を絞り出すみたいにして笑う傾向があった。そのくせ心の底から面白がってるようにはどうしても聞こえないものだから、とにかく耳に障る。

 せめて小さく笑えばいいのにね。

 口には出さずに心の中で呟いてから、私は今度こそ動画の再生ボタンをタップした。

 彼女たちの笑い声は止まない。まだ面白がっているふうに装ったような笑い声をヒャアヒャアと、教室のベランダ側、一番前の席に六人わらわらと集まりながら上げている。動画に集中できない。一体なにをそんなにお前たちは面白がっているように見せたいのかと思えば、なんのことはない。教室の廊下側、一番後ろの席に座っている私のところまで聞こえるような大きな声で、六人の中の一人――焼き鳥っぽい名前のツクネがこんなことを言うのだった。

「箸ないしっ。やばくない!? あたし弁当食べらんないんだけど!」

 いや、職員室に行けば箸もらえるんだからさっさと行けばいいのに。そんなことで本当に、よく恥ずかしげもなくヒャアヒャア笑えるねお前たちは。……まあ三ヶ月前までは私もそこにいたわけだけど、こんなにくだらないことで笑うグループだっただろうか。

 パンをかじる。ヒャアヒャア笑い声が聞こえる。そこにガタガタと椅子を動かす音が混じる。

「夕陽(ゆうひ)、ありがとーマジ優しい好き!」

 多分、誰にでも言ってるんだろうなって感じの薄っぺらなセリフを薄っぺらいトーンでツクネが言うのが聞こえた。というかこれと同じセリフを実際私はツクネに言われたことがある。

 それは別にどうでもいいとして、今のセリフとツクネの性格から推測するに、ツクネは夕陽をお供に職員室へ箸をもらいに……は、まだ行かないのだろう。それは最終手段だ。まずは身近なところからあたる。具体的には教室にいる他のグループの人間に予備の箸を持っていないか聞いてまわり、誰も持っていなければ諦めて職員室へ向かう。こんなところだろう。

 大多数の女子の、この。自分一人で行かずに周りの誰かを巻き込んで行動する習性ってなんなのだろう。学校でトイレに行くときなんか、特によく発動する。友達のトイレの音を聞きたいのか? 自分のトイレの音を聞いてほしいのか? 特定のグループに属することを覚えても、あの習性だけは最後まで慣れなかった。……水を流せば聞こえない? そういう問題じゃない。

 ひとつめのパンを食べ終えて、ふたつめをかじり始める。ツクネが夕陽を従えて、教室の真ん中の席を陣取っているグループの女子たちに声をかけているのが聞こえてくる。私の視界には動画が映っているからツクネがどんな表情をしているのかは定かじゃないけれど、想像はつく。無駄ににこにこと薄気味悪い笑顔を張りつけているのだろう。そして声をかけられたグループの女子たちも、同じような笑顔を張りつけてツクネに応じている。

 やがてツクネが夕陽を従えて、教室の後ろにやってきた。どっ、どっ、と私の頭の中に音が響き始める。ツクネの足音か? いや、頭の中に響いているものだから実際に足音ってわけじゃないけれど、でもツクネなんてこんなものだ。怪物のような足音。

 ツクネが夕陽に甘ったるい、ねっとりとした声で確かめているのが聞こえてきた。

「ごめん夕陽ぃ、職員室にもついてきてくれたりする?」

 予備の箸を持っている人間がこの教室にいなかったらしい。

 うん、と夕陽が了承する声のあと、ありがとーマジ優しい好き、とついさっき言ったばかりの例の薄っぺらなセリフを繰り返してからツクネが歩き始めた。どっ、どっ、と今度こそ怪物のような、いいや怪物そのものの足音を立てながら。教室の後ろにある扉から、私のすぐ後ろにある扉から、ツクネは夕陽と共に廊下へ出るのだろう。

「……あ」

 私の真後ろで。なにかに気づいたような声がしたのと、怪物の足音が止んだのは、ほとんど同時のことだった。声からして多分、ツクネがなにかに気づいて立ち止まって。それにあわせて夕陽も立ち止まった。

 二人は私の真後ろにいる。そこで立ち止まったまま、廊下へと繋がる扉を開けない。

 程なくして二人分の足音が、再び始まった。どっ、どっ、私の頭の中で響いていた音はより大きさを増す。

 一体なにに、ツクネは気づいたのだろう。どうしてまだ廊下へ出ないのだろう。足音を響かせて、教室のどこへ向かおうとしている? 教室内にいる人間には予備の箸の有無を聞き終わったはず。ならもう職員室に行くしかないじゃないか。

 ……まさか。ここで私に予備云々を聞いてきたりとか、そういうのないよね? ……ああ、ありえない。絶対にありえない。私はグループから弾かれている最中なんだから、だから、……ああ、動画が終わった、探さなくちゃ、別の面白そうなのをまた私探さなくちゃ、

 ――カタン。

 指をスライドさせようとして、ミスをした。スマホが机から落っこちて、床へ。音を立てる。落ちて音を立てた私のスマホ、瞬間、世界で一番大きな音を聞いたみたいな表情で、人間の皮をかぶった怪物共が一斉に私を見た。声が止む。教室から音が失くなる、さっきまで好き勝手にうるさく騒いでいたくせに、騒いでいたくせに騒いでいたくせに。

 私は手を伸ばす。のろのろと、自分の机の横に落ちたスマホを拾おうと。そしたら視界の端っこに、二人の足が見えた。ツクネと夕陽の足。ああそうだ、そうだった、スマホを落とした瞬間から存在を忘れていた。そういえばお前たちはまだ教室にいたんだっけね。

 どっ、と足音を響かせて、これはツクネだ、ツクネの足だ、ツクネが私のスマホのすぐ側で立ち止まった。スマホを拾うために伸ばした私の手を前に、立ち止まった。

 ツクネの影がかぶさってくる。

 あと一歩。

 あと一歩でスマホも私の手も蹴飛ばしてしまえる、ツクネ。そんな距離。

 ……だけど。

 グループから弾かれた人間が、無視の標的となった人間が怪物共から他にも攻撃を加えられる場合、攻撃と一口に言っても様々な種類があるわけで。それこそ実際にスマホを蹴られるだとか手を蹴られるだとか、物理的なものもあるけれど。

 私の場合は物理的なものじゃなかった。

 だから私のスマホは蹴飛ばされない。

 だから私の手が蹴られることもない。

 すっと、ツクネが跨いでいった。私のスマホを。手を。少し遅れて夕陽も同じように跨いでいった。私はなにもなかったみたいにスマホを拾う。すると怪物共の視線が私から剥がれていく。教室に音が、声が戻って、私はやっぱりなにもなかったみたいにパンを大きくかじると、パサパサとしたそれをジュースで一気に胃へ流し込んだ。

 教室の前方から数人の女子の笑い声が弾けたのは、それからややあってのことだった。具体的には、例のグループの陣取る場所にツクネと夕陽が戻った直後。

「ちょ聞いてー、職員室行こうと思ったんだけどスマホ机に置きっぱなの気づいてさーっ」
「あーやばいそれ、スマホないとか死ねる!」
「ツクネー、はいこれ」
「ありがとーマジ優しい好き!」
「てかさっき音めっちゃでかかったね。なに落としてたん?」
「これこれ、スマホ床に落としてたわ!」
「あー」
「あそこ廊下近いから手とか悴んでたのかな」
「あーかもね」

 笑い声がまた弾けた。

 無視以外で私へ加えられる攻撃は、物理的なものじゃない。言葉だった。大抵が目の前で投げかけてくるのではなしに、少し遠い、離れたところから投げかけてくる。つまりその程度のものなのだけど、それでも投げかけてくる以上は私に聞こえるような音量ではあるわけで、幼稚。本当に幼稚だねと思う。小学生から中学生になろうと、中学生から高校生になろうと、そしてきっと大人になろうと人間の皮をかぶった怪物というのはいつまでも怪物のまま、幼稚のままなのだろう。

 私は席を立つでもなく、変わらずパンをかじりながらスマホの画面を眺めてやった。どうせ今ここで私が席を立てば、怪物共は自分たちが勝ったと勘違いをするのに決まっていて、勘違いをしたなら当然、さらに笑うのに決まっている。だから私はあえてここにいて、幼稚な真似しかできない怪物共を心の中で嘲笑ってやるのだ。

 一人じゃなにもできない臆病なお前たち怪物共は、そこで群れて吠えていろ。

 ……ふと。嘲笑っている最中にこんな疑問が顔を覗かせた。

 もしも。もしも今、私がこの場で席を立って怪物共のところへ一直線に向かったなら。そして怪物共に真正面から言葉をぶつけてやったなら、どうなるのだろう。それでも私のことを笑っていられるのだろうか。それとも驚いた顔のひとつでも見せるのだろうか。

 だとしたらそれはちょっと面白いなと思いつつも、やっぱり面倒だなという気持ちのほうが大きくて、私は席に座り続けた。

 ……ああ。そういえば次は世界史か。

 ◇

 世界史の時間が始まって二十分も経てば、クラスの人間の大半は夢の中だ。基本的に教科書を読み上げるだけの授業だし、先生ももうおじいちゃんだしで大概ナメきっている。……まあ私も夢の中ではないにしろスマホを弄ってるんだけど。

 ただ、私はナメているわけじゃない。昼休み直後の世界史の時間。授業が始まって二十分後。クラスの大半が眠りに落ちたタイミングで、必ずそれがスマホに届くのを知っているから弄っているだけ。

 ……ほらきた、LINEのメッセージ。

【スマホ大丈夫だった?】

 今回の話題はこれか。まあさっき落としたばっかだもんね、私。

 左斜め前の席に座る彼女を見る。彼女のポニーテールが少し揺れる。手の中のスマホをじっと見ている。LINEのトーク画面。細くて白い人差し指でスマホの縁を擦っている。返事を待つときの彼女の癖。

 私は既読だけつけると、頬杖をついて彼女を眺めた。スマホの縁を擦る速度が上がる。

 やがてまたスマホに文字を打ち込み始めた。メッセージが届く。

【ごめんね】
【さっき拾えなくてごめん】
【みんなと一緒になって笑ってごめん】

 やっぱり私は既読をつけるだけ。するとスマホの縁を擦るのをやめて、彼女が頻りに前髪を撫でつけ始めた。不安の表れ。私はもうLINEも閉じて。

 彼女を。夕陽を眺める。夕陽は決してこっちを見ない。クラスの大半が眠りに落ちた頃に私へLINEを送る、それはできても臆病な怪物の中でも一段と臆病者の彼女は、返事をしない私のことが気になってもこっちを振り向くことまではできないのだ。たとえ大半が寝ていようと、もしもを想像する。……もしも自分が潤(わたし)に視線を送っているところを、起きている誰かに見られたら? そしたら自分はどうなる?

 こんな具合に。

 小学生のときからの付き合いなのだ。私には手に取るようにわかる。

 くあ、と。眠りについていた怪物共の中の一人が、そのとき、大きなあくびをした。

 ◇

 ここ最近の中で一番空が青くて、いい天気だった。そんな放課後、私はいつものように屋上へ。

 ひゅう、と風が吹く。いい天気とはいっても十二月も半ばだ、頬を緩やかに撫でる風は冷たい。空気も。それでも私は屋上に留まる。三ヶ月前からの習慣。あのときと比べて風や空気がいくら冷たくなっても、逆に熱くなったとしても、私は校舎の中へは入らない。

 扉の側の壁に立ったまま寄りかかり、時折スマホで時間を確認しながら待つ。およそ三十分。そうすると彼女は、夕陽は必ずここにやってくる。

 タン、タン、と階段を踏む足音。自信のなさが表れているような、控えめな足音がやがて聞こえてきた。間違いない、夕陽だ。間違いようがない。

 やっぱり今日も、ちゃんとやってきた。

 十二月半ばの太陽の光を浴びてキラキラと輝く、ポニーテールの黒い髪。私と同じ黒でも夕陽の髪は柔らかに見えるのが不思議だと以前から思っていた。単純に、黒は黒でも濃さが違うのか。それとも顔立ちのせいなのか。仏頂面に加えてこれでもかってぐらい吊り上がった目をしている私と、目尻の下がった大きな目をしている夕陽。一目見て、誰もが「柔らかい印象の女の子だな」と思うような顔立ち。そういうものが髪の黒をも柔らかく見せている?

 でも、こんな優しい顔をした女の子だって、どこにだっている臆病な怪物の一人なのだ。残念なことに。

「――潤(じゅん)ちゃん」

 夕陽が私の名前を呼んだ。怯えた目で。震えた声で。

 それでも律儀に、馬鹿みたいに私のもとへ毎度毎度やってきて、そして続く言葉は、

「ごめんね」

 LINEでも言われた。

 この三ヶ月間、飽きるぐらい言われた。謝罪の言葉。

「思ってもないことを毎回言ってくる必要とかないから」

 私が言葉を吐くと、夕陽は目を見開いた。首を必死に横に振って、

「わたし、っ、本当にわたし、潤ちゃんに申し訳ないって――」
「だったらあのグループから抜けてこっち来てくれないかな?」
「それは……」

 夕陽が黙る。

 知っている。夕陽が私に申し訳ないと思っていること、本当は知っている。だって夕陽はそういう人間だ。教室ではヤツらと一緒になって私のことを笑うけど、その顔は、表情はいつだって偽りで。でも私を助けはしない、絶対に。自分が次の標的になるのが怖いから。大勢の人間に自分が見捨てられるまでは、最後の最後まで見捨てられまいと誰よりも必死にヤツらの仲間のふりをする。

 臆病な怪物。

 お前なんて。

 お前なんてどこにだっている臆病な怪物の一人のくせに。

「……イライラする」
「ごめ――」
「だからもう、そういうのいいから。さっさと手ぇ出して。グループ抜けてこっち来る気もないくせに謝るだけ謝るとか本当、あいつらよりむかつくんだから。これぐらいのことはさせろって、私いつも言ってるよね?」
「っ」

 息を詰めたあと。ゆっくりと夕陽が手を出した。右手。白い甲にはかさぶたになった赤い傷が二筋、斜めにすうっと入っている。

 私は夕陽の二筋の傷上に、人差し指と中指を落とす。指の腹で傷をつとなぞる。端から端までなぞったら、今度はそこから指を落とした始まりの場所へとなぞりながら戻っていく。一往復。二往復。夕陽の手が、そこで一段と強張る。私は始める。

 傷上に爪を立てた。カリカリ、とかさぶたを引っ掻く。ほんの少し剥がれる。滲む血、あとはそこから丁寧に、二筋の傷をえぐっていく。夕陽が呻いてもやめはしない、そうして傷を端から端まで新しくしてやって。

 あとは剥がしたかさぶたを指から落とし、もう一度、二本の指を傷上にやると滲んだ、赤い赤い血を指の腹にすくって夕陽の口元に差し出す。夕陽はそれを舐める。自分の身体から滲み出た血が、赤が私の指に残らないように丹念に。丹念に。

 これは、私の怒りを鎮めるための儀式。

 私がヤツらの遊びの標的になったあの日からこの儀式が生まれるのに、一週間もかからなかった。

「……馬鹿馬鹿し……」

 これでも。

 だって夕陽はこれでも、私のことが好きなのだから。

 よりにもよって無視が始まったあの日、わけもわからず放課後に夕陽を屋上へ呼び出して無視の理由を問いただしたら、「わたしにもよくわからない」と言って夕陽は泣いて。泣きながら続けた言葉が、

「ごめん潤ちゃん、わたし、潤ちゃんのことが好き。でもわたしにはなにもできない、ごめんね、潤ちゃんを助けられない」

 別に女子が女子を好きになったって、そんなのはなんの問題にもならない。中には問題大アリだって騒いでいる人もいるらしいけど、少なくとも私には「あ、そうなんだ」。

 だけど。だけどよりにもよってそのタイミングで言うヤツがあるか。好きだなんて。……でも助けられないだなんて。

「潤ちゃん……?」

 名前を呼ばれて、ハッと顔を上げる。

 夕陽が怯えた目じゃなくて、心配するような目で私を見ている。

 私が小さく舌打ちすると、夕陽は背を微かに丸めた。

「……私のこと好きなくせに」
「っ、ごめ――」
「味方にはならないとか今すぐ死んだほうがいいんじゃないの?」
「本当に、ご――」
「私はあのとき夕陽を助けたのに」
「……っ」
「……もういい。さっさと帰れよ。お前の顔なんて見たくない」
「潤ちゃ――」
「また明日。やるから来て。絶対」

 私がそう言ったら夕陽は、臆病な怪物は、嬉しそうに小さく笑った。

 偽りじゃない。本物の、笑顔。

 ◇

 自分以外の人間が誰もいなくなった屋上で、壁に背を預けて座り込む。私の頭上には馬鹿みたいに青く晴れた空が相変わらずある。そういえばあの日もこんな空だったっけ。無視が始まった三ヶ月前のあの日のことじゃない。もっともっと昔のこと。私に初めて友達ができた日のこと。小学五年生のときのこと。

 五年生。その中盤には一人でいることが私にはまだ当たり前で。私以外の人間は一人でいないのが当たり前で。そんなある日、教室に私以外で珍しく一人でいる女の子が現れた。七人の大規模な女子グループにいたはずの女の子。……それがどうして私みたいに一人でいるのだろう? 当初はただ、疑問だった。

 女の子は数日が経つと、元のグループに復帰した。本当に、一人でいたのが嘘みたいにグループに戻って、グループの女の子たちもなにもなかったみたいに笑顔で女の子と喋っていた。なんだったのだろう、喧嘩をしていたけど仲直りしたのかな。のんきに、どこまでも他人事のように考えていたら、程なくして今度は別の女の子が一人でいるようになった。

 また喧嘩かな。いや、だけど。……どうもそういうわけでもないらしいことに、鈍かったその頃の自分でさえやがて感づいた。教室中に漂う、なんともいえない薄暗い、息苦しい空気。数週間後に女の子がグループに復帰して、空気が一瞬、以前の明るさを取り戻したと思ったら、また別の女の子が一人になって、空気が薄暗くなって。

 そのうち他の小規模グループの女の子たちがひっそりと囁き合っているのを耳にした。――あのグループ怖いね、別に理由とかないらしいよ、イジメに。

 そうか、これはイジメなのか。特に理由もないけどやってるのか。

 自分の身近でこんなことが起こるんだ、って。驚きつつ私は、女子は大変だなあなんて、それでも他人事のように考えた。

 そして五年生がもうすぐ終わる三月に差しかかった頃。無視というイジメの標的が新たに変わった。

 七人グループの中ではおとなしめで、そこまで目立つようなタイプじゃない。だけど顔が可愛くて、男子がたまにこっそりと噂をするぐらいには人気があった。そんな子。……それが夕陽。

 そうか、次の標的はあの子なのか。時期的に多分、このまま六年生になってクラス替えがあって、そのあとはどうなるんだろうと思っていたら、夕陽がある日、前触れもなく私に話しかけてきたのだった。

「よかったら、……あの、友達になってくれないかな?」

 今思えばそれは、短期間でも自分が一人にならないための頼みで。私はまさに都合のいい存在。

 だけど自分が誰かにそんなことを言われたのは、このときが初めてだった。それまでの自分は場にいてもいなくても変わらない、そんな存在で。それが初めて、初めて誰かに認識されて。友達になってくれないかと頼まれて。

 今でもよく覚えている。私はこの瞬間、とても、……とても、

「…………」

 私と夕陽は友達になった。今日みたいに空の青い、よく晴れた日のことだった。

 そして。その日から私の世界は変わった。

 五年生が終わるまで、学校では毎日ずっと夕陽と一緒だった。春休みには朝から夕方までずっと夕陽と遊んで、四月。六年生も夕陽とまた同じクラスになると、夕陽は変わらず私に話しかけてきた。友達になってくれないかと頼んだときには、きっと私なんて都合のいい存在でしかなかったはずで。五年生のときに七人グループを支配していたイジメの首謀者はもう別のクラスになっていたのに。夕陽はそれでも。

 私と夕陽が所属した六年生のクラスには、からりと明るい性格の子ばかりで、夕陽を起点に私にはさらに友達が増えていって。

 色んな子と話すことで私の価値観も少しずつ変わっていき、結果的に今の私ができあがって。

 ……いや。私の世界が変わったとか、今の私ができあがったとか、そんなことはどうだっていい。

 今、肝心なのは。だからつまり、五年生のあのとき一人になった夕陽を助けたのは私で。なのにあいつは今、私を助けないということで。

 そりゃあ知っている。無視だとか、こういう類の攻撃はずっとは続かないことを。経験から知っている。次の学年に上がる頃には、上がってまだ続いたとしても高校を卒業してしまえばそれで終わるのだ。たとえば大学に進学したとして、そこで新たに攻撃を加えられる可能性はあるけれど。それでも現在、私を攻撃しているヤツがこの先ずっと、死ぬまで私につきまとってくることはないと知っている。

 だけど。それでも今、今ここで夕陽が私を助けてくれたなら。私は夕陽に、あんなことをしなくて済むのだ。怒りを鎮めるために夕陽の手を爪で引っ掻くなんて、あんな、あんな怪物じみたこと。

「……いや」

 怪物じみた、というか。

 怪物なのか。

 夕陽を誰もいない場所に呼び出して傷つける時点で、私だってどこにだっている臆病な怪物の一人なのかもしれない。

 ……いいや。だけど私のは。私のは。

 夕陽だ。やっぱり夕陽のせいなのだ。一人だった、独りだった、ちゃんと人間だった私に夕陽があのとき声をかけてこなければ私は今だって一人で独りで人間のまま、そう、誰かと一緒に過ごす楽しさも知らない純粋な人間のままで、怪物になんてならずに誰も、誰も誰も傷つけることなく済んだはずなのに、夕陽が、夕陽夕陽、全部夕陽だ夕陽のせいで。

 夕陽。

 だから私を臆病な怪物の一人にしたお前は、私のことが好きだって言うんだったら、本気でそう思ってるんなら、責任とってくれ。ずっと、一生とってくれ。

 空には雲ひとつないくせに、怪物が降らせた雨のせいでコンクリートが冷たく濡れていく。

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