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【小説】るっく、あっと、み゛ぃー。

 ペネロペは、日本ではない、余所の国からやってきた。海という大きな水たまりを、飛行機という大きな金属の塊で飛び越えて、この日本の、埼玉の地にやってきた。

 ミルクみたいな色の、髪と、肌。夏の空みたいな色の、大きな目。テレビで見る富士山の、てっぺんよりもツンと尖った高い鼻。肉球みたいな色の、薄い唇。その口を開けば、コロコロリンリンと鳴る鈴みたいな、思わず身体のむずむずするような声が零れて。腕と脚がカマキリみたいに細くて、ふわふわとはしていないのは一目瞭然だったけれど、ペネロペを構成するそれらは、どれもどれも、あたしの何かをくすぐった。この人がいい、この人の傍にいたいって、気がつけばあたしは必死になっていて、そんな思いが間違いなく通じて、それでペネロペはあたしを選んだ。

 たくさんの奇跡が起こったね、とお友達のひらいさんは言った。だってペネロペは余所の国で生きていたのに、日本という国の、埼玉という地を選んでやってきて、それであなたに出逢って、あなたを選んだんだから、と。だからそんな奇跡の数々に感謝をしながら、あなたはペネロペの傍で過ごさなきゃいけないよ。……バカね、なあに、助言? そういうのは自分が誰かに選ばれた、そのあとで勝手に自分でやってなさいよ。あたしはあれ以来、ひらいさんには会っていない。

 ◇

 木でできた椅子に座って、木でできた机に置いたパソコンをペネロペは必死に叩いている。あたしはソファにごろりと寝そべって、必死なペネロペを眺めている。あたしの特等席。あたしからよく見えるということは、ペネロペからもあたしがよく見えるということなのだけれど、ペネロペはあたしのことなんて忘れたみたいにちっともこっちを見やしない。こんなとき、ひょっとするとひらいさんのあの助言に耳を貸さなかったせいかしら、だなんて少しは思うこともあるけれど、すぐにそんな考えは頭の中から追い立てる。やあね、本当に、もう。

 ふと、ペネロペが視線を上げた。パソコン叩きをやめて、ううんと伸びをする。少し目が痛むのか、瞼を擦ったあとでまっすぐにあたしを見る。

 きた。きたきた、きた。

 あたしのことを世界一好きだよって顔をして、じっと目を見つめてくる。あたしも見つめる。そうするとペネロペがゆうっくりとまばたきをする。あたしもゆうっくり、まばたきを返す。この瞬間が、お互いの世界にお互いしかいない、このときがあたしは世界で一番好きだ。

 だけれどペネロペはこっちに来ない。億劫なのだ、椅子にへばりついたおしりを持ち上げるのが。あたしは知っている。だから仕方なくあたしがソファを後にして、ペネロペの隣の椅子に座る。ペネロペは、ふふ、と笑ってようやくあたしに手を伸ばす。柔らかく、あたしの頬に触れた。ああ、好き。好きなの。何も考えられなくなる。

 ふわふわと気持ちがよくて、身体の、とりわけおしりの辺りが自分のものではないみたい。何度も何度も声が出そうになるけれど、そのたびに堪えた。あたしは自分の声が好きではないから。こういうときじゃなくたって、声を発することはほとんどしない。

『ねえ、声が聞きたい』

 そんなふうに言われても、ダメなものはダメ。

 鼻のてっぺんにそっと手を乗せると、ペネロペはいじけるように唇を尖らせた。その顔もね、たまらなく好き。

 だけど、

『……ああ、お仕事に戻らなくちゃ』

 それはペネロペがあたしに言う言葉の中で、二番目に嫌いな言葉。

 気持ちのいい、幸せな時間のあと余韻もなく、ねえ、それはないでしょう?

『ごめんね』

 あたしの頬を撫でて謝るものの、それも束の間、ペネロペはお仕事に戻ってしまった。再び退屈な、カタカタという音がお部屋を満たす。しばらくペネロペを見ていたけれど、ペネロペはこっちを向かないし、もういいわと、身体を横たえた。お仕事なんて、この世界から消えてしまえばいいのに。ねえ、あたしと一緒に何もしないでいましょうよ。ずうっとじゃれ合うことだけしましょうよ。

 言おうと思って、ほんの少し口を開く。けれどもすぐに閉じた。あたしは、あたしの声が好きではないから。

 ◇

 目を開ける。ということは、あたしは眠っていたのだ。

 また夢の世界に潜ろうか、目覚めたばかりであることと、眠る少し前までペネロペに触れられていたこととが合わさって、気怠さを覚えながら隣を見ると、ペネロペはそこにはいなかった。

 途端に気怠さなんて消え失せて、あたしは跳ね起きるとペネロペの気配のないお部屋を駆け去った。廊下に出る。一番小さなお部屋の扉が少し開いていて、そこから照明の光と、コロコロリンリンと鳴る鈴みたいな声が零れている。

 駆けて、お部屋に入った。

 ダメよ、ねえ、ダメ、なんて、あたしの願いは簡単に破られて、ペネロペはベッドに仰向けになって、枕に頭を沈めて、そうして。あたしの寝ている隙に、別の女に愛を囁いているのだった。スマホの向こう側にいる、女。

「わたし、あなたが、すきよ。なでしこ」

 ああ。ああ。ああ。

 頭が熱くなって、あたしは音もなくペネロペに飛びかかっていた。お腹に乗る。うっ、とペネロペが苦しそうな声を上げる。

『起きたの? ねえ、待って』

 いやよ、いやよいやよ、いやよ!

「なでしこ、……なでしこ、ごめん、あとで、かけなおす、から!」

 かけ直すだなんて、よくもあたしの前で、――ミルクみたいな色のペネロペの頬を、あたしは、あたしは、

『あっ、やめ、てえっ!』

 荒くなった呼吸。ペネロペを見下ろす。あたしにこんなことをさせたのは、ペネロペでしょう。ねえ、他の女を見ないで。あたしを、あたしだけを見てよ。

 るっく、あっと、

「み゛ぃー」

 ペネロペの鈴みたいな声とはまるで違う、誰もが首を振って耳を塞いでしまうような、そのあとネズミでも見るような目つきで声の持ち主を眺めてくるのに違いない、そんな、ひどいとしか言いようのない潰れた声を、それでもあたしは出した。こんな声は自分だって聞きたくはないけれど、出さずにはいられなかった。

 そうしたらペネロペが一瞬目を見開いて、かと思えばあたしの身体をすっかり自分の腕の中に閉じ込めて、頭をふわふわ撫でながら『うん、……うん』だなんて。あたしの言いたいことなんて本当にはわかっていないくせに、わかったような顔をして。

 だから、

『痛っ!』

 ペネロペの頬を、あたしは、あたし、……また。

 本当はね、あたし、ちゃあんと知っているのよ。

 あたしの思いが伝わって、本当の意味でペネロペと結ばれる日なんてものは、永遠に来ないこと。

 だったらたくさんの奇跡なんて起こらずに、あたしはペネロペと出逢うことなく生きていた方がよかったのかしら。そう自分に問いかけると、答えはいつだって「のー」で、あたしは確かにペネロペと結ばれはしないけれど、それでもあたしだってペネロペの特別ではあって、時にはペネロペが愛を囁くスマホの向こう側にいる女でさえ癒やすことのできない傷を、あたしだけが癒やしてあげられる。あたしだけを求める瞬間が、ペネロペには必ずあるのだから。

 その瞬間こそが、あたしの生まれてきた意味。十数年ほどの命の、意味。

 気持ちが少し落ち着いた。それを見計らったみたいにインターホンが鳴った。『誰だろう』とペネロペが呟く。……あたしのおやつなのではない? 定期的に届くでしょう。きっとそれだわ。絶対にそう。

 ペネロペの腕から抜け出して、視線で促した。ほら早く、玄関へ。

 ペネロペは誰が来たのかとまだ考えるような顔をしながら、玄関へ向かった。あたしは遅れて廊下に出て、先にソファのあるお部屋へ向かおうと歩き始める。と、ペネロペの驚いたみたいな声が背中にぶつかってきて、反射的に1メートルぐらい跳び上がってしまった。

 あたしのおやつが来たのではないんだって、すぐにわかって、何より身体中の毛がざわわと逆立って、嫌な予感。玄関へと駆け出す。

 あたしが玄関に着いたのと同時に、お外とおうちを隔てるみたいに扉が閉まった。

 そしておうちの中で、あたしの目の前で、ペネロペは知らない女と抱き合って。

 驚きと、嬉しさを表情に乗せて、それから女と唇を合わせた。

「なでしこ! なでしこ! どうして、ここに――」
「おうちにおいでよーってぺぽが前に私に言ったでしょ? それで、サプラーイズ。……いやね、取り込み中かもなってさっき電話してて思いはしたんだけど、……うん、へへ。来てよかったわー、あははっ」
「うれしい、ほんとうに、うれしい!」
「んっへへへへへー、……ん?」

 スマホの向こう側にいたはずの女が、あたしに気づいた。

「あっ……、あら。あらららら……」
「こまち!」

 随分と慌てたようにあたしの名前を呼ぶペネロペとは正反対の、余裕を滲ませた、加えてひどくいやらしい笑みを浮かべると女は呟いた。

「こまち。……そっか、君がぁ」

 ペネロペの腕をほどくと、女がゆうっくりとあたしに近づいてくる。あたしは背中を丸める。全身の毛を逆立てて、大口を開けて、尖った歯を見せて、……それ以上近づくならあたしはおまえを、……、…………、………………?

 よく、わからなくなった。なんにも、なあんにも、わからない。

 ただただ、ふわふわと気持ちがよくて、身体の、とりわけおしりの辺りが自分のものではないみたいで。声が、声が出そうになる、何度も何度も、気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい!

 ああ、なんて、こと。

 世界で一番嫌いな女に、あたしは、こんなにも簡単に、いやよ、いや、ペネロペの手よりも気持ちがいいだなんて、そんなの、そんなのは、

「ふみ゛ぃー……」

 呆気なく、ひどい声が出た。

 ごろんと床に転がって、女にお腹を見せていた。

 そうしたら女が笑った。

「おおっ……おおおっ? んっは、ちょっ……へええ!? んっははははははは! えー、えーっほんとだぁ! 君、すっごい、おじさんみたいな声! えーかわいい、好き、うはぁ、よぉーしゃしゃしゃ……、あぎっ!?」

 力いっぱい、頬を打ってやった。ペネロペが慌てて女の傍に駆け寄る。女は「へーきへーきぃ」とだらしのない顔で笑っている。

 女を見る目がないわ、ペネロペ。こんな女を選ぶぐらいなら、やっぱり、あたしを見てくれなくちゃ納得ができない。

 それともなあに? ペネロペがこんな女を選んでしまったのは、あたしがひらいさんの助言を聞かなかったから? そのせいだって言うの?

 久しぶりに、ひらいさんに会ってあげなくてはいけない気がした。

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