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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第七話(全十話)

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 応接間の扉を開けると、江永さんはつむっていた目をうっすらと開いた。

「ちどりちゃん、迷惑をかけてごめんなさいね」
「全然、迷惑なんかじゃないです。こちらこそ、顔色がよくないことに気づいていたのに、無理をさせてしまって、ごめんなさい」
 江永さんは首を横に振って、「あなたのせいじゃないわ」と言った。
 上体起こすと、私の持つ盆を覗き込む。

「あら、その優しい香りは、もしかして葛湯かしら」
「近頃冷えてきましたし、風邪のひきはじめにいいんじゃないかと思って。もしよかったら、いかがですか?」
「嬉しいわ。そういうのが、ほっとする」

 カップを手のひらで包んでから、江永さんは葛湯を湯気と一緒にスプーンで掬い取る。口の中に入れると、目元が優しくほころんだ。

 よかった。いつもの笑顔が少し戻ってきた。

「あの、実は先ほどお家にご連絡させていただいて。後で麻里さんが車で迎えに来てくださるそうなので、もう暫く休んでいてくださいね」
「そう。ありがとう。……麻里は、きっともう、お話してしまったわね」

「……ええ。江永さんがお話してくださるのを待っていようと思っていたのですが、先に聞いてしまって、すみません」
「いいえ、いいのよ。私からは、きっと話し出せなかったから。千鶴ちゃんを亡くしたばかりのあなたに気を遣わせたくなかった……。違うわね。本当は私もタキちゃんと同じで、若い人に弱い姿を見せたくなかったのかもしれない。年長者の意地ね」


 葛湯を飲んで少し頬に赤さの戻った江永さんは、スプーンを置いてから語り始める。

「最初に見せたあの写真はね、今から五十年近く前の、山中湖から見た富士山をうつしたものなの。当時、まだ発売されたばかりの一眼レフカメラを買った彼が、スポーツバイクの後ろに私をのせて、一緒に山梨まで連れて行ってくれたのよ。雪解けの今しか見られない鳥を見せてやる、って言ってね。でもね、実際に行ってみたら本物の鳥ではなくて、残雪が鳥の形に見える『農鳥』というものだったの。雪の小さな鳥にはしゃぐ彼は、まるで少年のようだったわ」

「彼」とは、江永さんのご主人のことだった。江永さんは左手の薬指の指輪をなぞる。

「命に限りがあると分かっていても、いつも通り生活をしていると、明日も同じ一日がやって来ると信じてしまうものね。あまり無理はできなくても、これからも色々なところに二人で旅行できるだなんて、当たり前に思ってしまっていたの。まさか、私よりも元気そうにしていた彼が先に倒れるなんて、考えもしなかった。別れの可能性を医師からニュースのように告げられるのは、ドラマの中だけだと思っていたのよ」

 電話で麻里さんから聞いたのは、江永さんのご主人が一年ほど前から病気の治療をしており、ここ最近は病状の他に肺炎を起こしかけることもあって、体調がかんばしくないということだった。

 一時は憔悴しょうすいしていた江永さんだったけれど、夏に「こまどり教室」をまだ続けているという噂を聞くと、しまいこんでいた色鉛筆とあの写真を引っ張り出して、私に手紙を書いてくれたのだという。

「江永さんは、これまでずっと、風景画を描かれてきましたよね。あれは、ご主人と一緒に行かれた旅先なのですね」

「描いている時は、ただ旅先で見つけたきれいな景色を描いて、練習になればと思っていただけなのよ。でも、もしかしたら、過ぎてしまった時間を少しでも手元に残しておきたかったのかもしれない。私は、執着心の強い人間なのかもしれないわ」

「富士山の絵は、ご主人のために?」

「そのつもりだったけれど、本当はどうなのかしら……。あの人との思い出の中で、結婚前に一緒に見たあの富士の絵だけを描いていないことに気がついて、どうしても描きたくなったのよ。あの人のために……。そのつもりだったけれど、本当は、私自身のために描いていたのかもしれない。近頃は、そう思うの」

「江永さん自身のために、ですか?」

「だって、描いているうちに、だんだんと怒りが湧いてきてしまったのよ。残された側は簡単に忘れることはできないのに、もしも私のことを先に忘れてしまったら許せない、私との思い出はひとつ残らず忘れさせてなるものか、って。この絵を描いたのは、私の願望を叶えるため。私が後悔をしないために描いていただけなのかもしれないわ」
「こんなことを考えていると知ったら、彼に嫌われるかしら」
 と、江永さんはぼそりと呟いた。

「江永さん。私は、この富士山の絵が、とても好きです。温かくて、一生懸命で、まるで恋をしているみたいだなって思ったんです。怒りだって、自分が後悔しないためだって、きっかけなんて何だっていいじゃないですか。言葉にならない思いは、ちゃんと絵に表れているんですから。こんなラブレターみたいな絵をもらって、嬉しくない人なんて絶対にいません」

 私がそう言うと、江永さんの頬を涙がつたう。

「そう……。私が描いていたのは、ラブレターだったの……」

 優しく、優しく、音もなく。それは秋雨のように、静かに、静かに降り続いた。

 

 銀杏並木の葉が落ちて、町がクリスマスの準備を始めようとしている頃、麻里さんから「江永さんの代筆」という形でお手紙をいただいた。

「ちどり先生
 絵の完成までお付き合いしてくれて、ありがとう。
 彼が旅立つ日まで、あの富士の絵を、ゆっくりと二人で眺めることができました。
 
 当初の目的は果たせたけれど、やっぱり私は執着心の強い人間のよう。
 これまで描いた旅先の風景画と、あの富士山の絵は、四国八十八箇所巡りで御朱印を集めた納経帳と一緒にひつぎに入れて、彼に持って行ってもらうことにしたのよ。
 五十年分の思い出があれば、彼も私を忘れる暇なんてないでしょう?
 麻里には、『自分が忘れてしまったら、どうするの?』と呆れられたけれど、私はきっと、生きている内は忘れないと思うわ。

 それに、また一から、色鉛筆で彼と訪れた先の風景を描いてみようと考えているの。
 色鉛筆と紙さえあれば、いつでも、どこでも色鉛筆画は始められる。
 それが、千鶴先生の口癖だったものね。
 今度は、ちどり先生に見てもらいながら、彼との思い出を旅するわ。

 これからも、どうぞよろしくお願いします。
 ありがとう。

 江永静江  代 麻里」

 

 椿の花の挿絵が描かれた美しい便箋から、ほのかにお線香の香りがする。   
 江永さんの手紙の最後には、【追伸】と書かれていた。
「あの絵のタイトルは、『青春の富士』に決めました」
 ここだけ、江永さんの丸みを帯びた柔らかい文字だった。

 私は「こまどり通信」を開き、江永さんの作品欄に『青春の富士』を書き加える。
 熱海、京都、厳島、北海道の屈斜路湖から沖縄の宮古島、別府温泉を挟んでパリ、ベネチアへ……。そして、五十年の旅は出発点の山梨側から見た富士へと還る。

 江永さんは自身を「執着が強い人間」だと言うけれど、私は「愛の深い人」だと思う。 
 どんな思い出も、丸ごと愛しく包み込む。そんな覚悟を、「愛」と呼ばずに何と呼べるだろう。

 私の中のちーちゃんは、いつも向日葵みたいな明るさで笑っていた。
 ふとした瞬間に、写真の姿のまま、昔の姿のままの彼女を探している。
 洋館の中に残る気配ばかりを追いかけて、「早く帰ってきて」と心の中で叫んでいる。

 ちーちゃんがいなくなる前後のことは、白いもやがかかったように、よく思い出せない。

 ちーちゃんは、私に全てを忘れないでほしいと願ったのかな。
 都合のよい昔話で繋いだ私の気持ちに、何と名前をつけたらよいのだろう。今はまだ、分からない。


(つづく)


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