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タナトフォビア、それとヴィーガン

僕と死のこと

死について考える。
僕はタナトフォビア(死恐怖症)だ。

100年前のことを考える。そこに僕はいなかった。どこかでパッと、2歳だったか3歳だったかの頃に「自我」が生まれた。
200年前のことを考える。
300年前の事を考える。
1億年前のことを考える。
どこにも僕はいなかった。
だけど、どこかでパッと「僕」が現れる。
それが「非存在の僕」の終わりだ。

だが、死んだら。
「非存在の僕」は永続化する。
……それが怖くないわけがない。と未だに考えてはいるものの……

この辺りを見て、少しその恐怖は収まった。
究極的に要約すると「自分の死」は認知できない、存在しない、という考え方だ。
個人的にひろゆき氏の「第三者としての冷笑、それ故の議論の強さ」みたいなのはあまり好きになれないが、この考え方は嫌いじゃない。

……ただ。
そうなってくると、僕は別の問題にぶち当たった。

「だったら、俺はどんなエグい死に方しても良いってことにならないか?」

僕は究極的にこう考えている。
「人生なんていうものは全て幻想だ。その中からマシな幻想を選び取っていく行為こそが生きていくってことだ」、と。
なので逆説的ではあるけれども、「生きていても意味がない」っていうニヒリズムに陥ることはない。どうせ全て幻想なのだから。「意味がない」という「判断」もまた幻想だ。
一方で、その中でマシな幻想があるっていうのは事実なのだ。人はそれに縋れば良い、というか、縋るしかない。

ただ……
「自分の死」が存在しないなら、どれだけエグい死に方をしても価値としては安らかに死んでいくことと何も変わらない、という結論に帰着しちゃうわけで……

でもまぁ、それは少なくとも主観的には違うよなぁ。
死に方くらいは選びたいよな。誰でも。それもまた「幻想」だとしても、やっぱり「快・不快」は事実そこに存在しているわけだし。
それに厳密に言えば死ぬ間際の問題は「生」に属する。

とか考えてると……
生きたまま魚を捌く、みたいなのが受け入れられなくなってしまっている自分がいた。

ヴィーガンの気持ちがよく分かる

僕は肉も魚もよく食べる。
だが、ヴィーガンの気持ちはとても良く分かる。
要するに、「殺すのは残酷だ」、とそれだけの話なのだから。

僕はむしろ、「死を隠蔽した利便性」に乗っかりながら、「人は殺さないと生きていけない」と分かったような顔で何かを語る輩のほうが大嫌いだ。
ヴィーガンに「植物も殺していることには変わらないんだからお前は何も食うな」と言ってみたりだとか、死が隠蔽されたこの世界で、分かったような顔で何かを語る輩が嫌いだ。
残酷さについて何も分かっちゃいないくせに。
残酷な世界を見ようともしないくせに。
そこに想像も働かせないくせに。
何を「殺す」側の目線に立ってるんだ。

そりゃ「お前は肉も魚も食うな!」って言われると反発する気持ちも分かる。
だが、それとヴィーガンの「殺すのは残酷だ」っていう思想が「別に不自然じゃない」ということは分離して考えるべきだと思う。

屠畜場に務める人にはほんとうの意味で「殺す」側の目線に立つ権利がある。
そして僕らは屠畜場に務める人のおかげで「生き物の死」の過程を隠蔽してもらって、快適に「その結果」だけを享受している。

それは農業の、科学の発展の末に成し遂げられたものだ。
僕らはそれを十分に享受すべきだ。
つまり、人は人であるがゆえに、「殺す」から目を背けるという選択を取れる。
それは決して悪いことじゃない。

植物も生き物も殺している、という側面では同じだとほざくのであれば、そこらへんのツタをちぎるような感覚で、猫の腕をちぎれるだろう。
それに顔をしかめるのであれば、少なくとも「植物を殺している」という意味合いでヴィーガンを否定すべきではない。

もちろん過激なヴィーガン、つまり残虐な写真を振り回したりしてヴィーガニズムを押し付けてくるような人たちは批判されて当然だとも思うけれど。

……話がそれたが、とりあえず僕は上記のような思想を持っている。

そんな思想を前提に持ってしまった結果、最近、生き物の死に敏感になってしまっている。
魚や虫にはそういった「残虐に殺されない」権利があまり適用されていない(考えたことすらない人もいるんじゃないか)を見て、どうも複雑な思いをすることがある。

僕には虫が殺せない。
昔からそうだった。だが家のゴキブリや蚊を放置するわけにはいかないから、殺虫スプレーを使う。
ピレスロイドで殺すことと、圧殺すること。どちらが残酷なのか正直良くわからない。けれど自分が圧殺されることを考えると……

魚はどうだろう。
川魚なんかは生きたまま串刺しにされて焼かれていたりする。
かわいそうになぁ、せめてきっちりシメてからにすればいいのに。
僕はしょっちゅうそう思っている。
だがまぁ僕は過激派ではないので、そこで「フィッシュライツ!」などと叫んだりはしない。
でも、時折自分の身体に串が通されて焼かれることを想像してしまう。

……これ、タナトフォビアとかじゃなくてエンパスの類なのでは……?
と思わないでもない。

話を戻すと、生き物の扱いに関してはどこかで線引きは必要だよね。
僕は「魚串刺しにできるやつは猫も串刺しにすべきだ!」なんて言わない。さっきのツタの例えはあくまでも「植物も殺しているのだから同じだ!」と主張する人への反論に過ぎない。
本当に全ての生き物に思いを馳せるなら、「じゃあ腸内細菌を殺すことになるからニンニク食べるのやめよう」という話になりかねない。

僕は「魚は残酷だと思わないけど牛は残酷だと思う」という気持ちも、それはそれで良くて、大事にされるべきだと思う。

「残酷だ」と思えるのは、人だけなのだ。
「残酷だ」という感情を否定してしまっては、だめだ。

要するに、僕は「残酷だ」という感情に寄り添わない人が嫌いなのかもしれないな。
「生きることは殺すことだ。殺すことは残酷だ、だけどまぁ生きてるんだから間接的に殺すこともあるよね。文明のおかげでそれは隠蔽されてるよね。それは良いことだよね」くらいの思想が僕にとっては一番すっきりする。

タナトフォビア・アンド・ヴィーガニズム

色々語ったけれど、結局のところ
「僕は残虐に死にたくない。だから残虐に殺されているものを見たくない」、それだけなのかもしれない。
そりゃ自然界は残虐だ。シャチが襲ったアザラシの痛みを想像することはないだろう。生きたままガブリ、真っ二つだ。
でも人間はわざわざそれを真似る必要はない。「万物の霊長」とかほざくのであれば、「それが自然の摂理」だなんて言う必要はないだろう。

あー、そういえば僕「自然の摂理」って言葉も嫌いだなぁ。人間を枠組みの外側に置いて使う場合に限るけど。
「弱肉強食は自然の摂理」だから「人間は何を殺しても良い」みたいな文脈で使うやつ。アホかと。まず自分の不自然さを見直せ、と言いたい。

……
観念的な議論になったせいで、全体的に論理的じゃないと言うか、歯切れが悪いなぁ、と我ながら思う。
曖昧だけれども、僕のスタンスと言うか、生きることに対する感覚みたいなものが伝わったら嬉しい。

……たまに思う。
鈍感な人は、生きやすいんだろうな、と。殺される魚に自分を重ねてたら、そりゃ生きにくいわな、と。

まあそれでも。
僕は自分が間違っている、とは思わない。鈍感になりたいわけでもない。
それで、良いのだと思っている。

そんな風に、生きてます。

【余談】
書き終わってから「猫はムリだけどネズミなら普通に腕くらい千切れる」とかいう人は結構いそうだな、と思ってしまった。僕はそういう人たちと話す言葉は持ち合わせていない。あしからず。

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