僕らはいつから自分がまともだと思ってた?

こんな動画を観る。

懲役系VTuberの懲役太郎が語る植松聖という男についての動画だ。
動画の内容自体は実際に観て頂くとして、こんなコメントが目についた。

黒さんに会いたい
植松の理論、解らなくもない部分もある。ただ、決定的に違うのは「自分がそうなるかもしれない未来」を一切考えてない事。
老いた末に「あるかも知れない現実」を全く見ていない。
若さ故の過ちというには、あまりに犠牲が多すぎた。

これを観て、養老孟司氏が『死の壁』で語っていたことを思い出した。

「ボケてまで長生きしたくない」ということを言う方がいます。老醜を晒したくない、というタイプの人です。私はそういう考え方をしないので、本当のところ、その気持ちがよくわからない。しかし推察するに、おそらくそういう人は、自分が変わるということがはなからわかっていないのではないかという気がします。
 ただ今現在の自分というものをはっきりと固定していて、それが生まれた時から今まで殆ど変わっていないのだと、頭から思い込んでいる人なのではないでしょうか。ボケて変わるのが怖い、みっともない。そういう人は、「じゃあ、あんたは今はボケてないのかね」と言われたらどう答えるのでしょうか。

養老孟司『死の壁』平成17年

僕は「早く死にたい」と言う人に何人か会ったことがある。
僕とは対極の考え方だけど、まぁ否定する気も起きなかった。
けれど養老孟司氏がこう明確に言ってくれていて、なんとなく胸がすっきりしたことを覚えている。

誰がまともで、誰がまともでないか。
そんなこと、誰にも分からないのだ。

そういえば、昔こんなことを書いた。


僕が今語りたい「あっち」と「こっち」の差は、「罪を(とにかく何らかの理由で)犯してしまった人」と、「罪を(偶然)犯していない」人のことだけの話じゃない。
例えば、「たまたま、死んでしまった人」と、たまたま「生きている自分」。
そういったことについて、つい考え込んでしまう。

その文脈における「あっち」と「こっち」を隔てる「原因」「理由」を、「こっち」にいながら断言するヤツが、僕は嫌いだ。

引用元 昔のワイが書いたブログ

ここで考えていた話は、今思うことにも適用できる。
このときは「薬物をキメちゃってた人たち、犯罪を犯してしまった人たち」を「あっち」、「『たまたま』薬物に手を出さなかった自分、『たまたま』前科がない自分」を「こっち」と定義づけた。

でも仮に、「マトモな世界」を「こっち」だとして、「マトモでない世界」、例えば「自分がボケてしまった世界」を「あっち」だとすると?

僕はどっちにいる?

そんなの、誰にも分からないのだ。
少なくとも、自分には判断できない。
……そんなこと、もう考えるべきじゃないのだろう。

「俺は『こっち』にいる!『あっち』なんて、ありえない!!!」
そんな心はロクなものでもない。そう思っているくらいが多分丁度いい。
でも、これもまたある種の「分断」を招くものなのだろうか。

少なくとも、自分を「マトモじゃない」と思いながら生き続けるのは辛いよな。でも結局、程度問題なのだろう。
誰しもがマトモで、誰しもがマトモじゃないのだ。その中で突っ切っちゃう人がいるだけで。
そして自分はまだ突っ切ってないのか?

自分の死と同じく、考えないほうが良い。
考えても無駄なのだから。

ではまた。

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