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下書きの中に生きる思い

故人の思い出は美化される。うまく言えないけれど、それは何だかとても寂しいことのようにも思える。
美化しなくたって大切な思い出なのに、意図せずフィルターがかかってしまって、純粋な思い出が失われてしまうような。

そんな感傷も、大切な人を亡くした悲しみに比べれば些末なことかもしれないけれど。
それでも、何だかとても辛い。


先日、以前勤めていた会社の後輩から、久しぶりに連絡が来た。
40代も間近になると、突然の連絡はたいてい嫌な予感と共にやってくる。

お世話になった先輩が半月ほど前、急なご病気で亡くなられたらしい。
先輩も後輩も私も、今はそれぞれ別々の場所で働いている。
LINEで近況を報告しあったり、世界がこんなことになる以前は何度か食事に行ったりもしていたけれど、
お互いの家族を紹介しあったこともなかったし、自分達以外の共通の友人もいなかった。

それなのに、先輩のご家族が、「可愛がっている後輩がいると、家でよく話していたから、その人たちに伝えてほしい」と細い細い糸を辿って辿り着いてくれた。

入院されていたことも知らなかった。
自覚症状が出て、医療機関にかかる頃には、既に有効な治療法が無いことも多いような、早期発見が難しいご病気だったらしい。
ご家族の方のお気持ちは、はかることなんてできない。
それでも、私たちに連絡をくださったお気持ちを考えると、胸がいっぱいになる。


彼女についての思いは、まだ文字にできるほど整理できていない。

記憶の中に彼女を探すのだけれど、それが本当の彼女だったかわからない。
結局本当のことなんて、他人にはわからないよね、ということではなく。
私が思い出したい彼女だけを思い出しているような気がして、自分の心を慰めるためだけに都合よく彼女の思い出を美化してしまっている気がして。

それが酷く悲しいことのように思えた。

お互い完璧な人間じゃないから、合わないなと思ったこともあったはずだし、
嫌な思い出もあるはずだ。
良いことも悪いことも全てひっくるめて彼女との思い出なのに、それまでも失ってしまったような感覚。
うまく言えないけれど、ひどく寂しかったし、過剰に美化している気がして、それは彼女に対して失礼なようにも思えた。


そんな時、ふと思い出した。

「彼女から教えてもらったこと、noteに書かなかったっけ…」

半年ほど前の下書きが、ひっそりと保存されていた。
1500文字くらい書いているのに、最後まで書き上げられず、半年以上熟成されていた。
下書きらしく、拙すぎる文章だけれど、
そこには私が感じたままの彼女がいた。

「あぁ、私本当に彼女のこと尊敬していたんだなぁ…。大好きだったんだなぁ。」

嘘偽りない本心がそこにはあった。

この下書きはいつか書き上げるかもしれないし、永遠に下書きのままかもしれない。
でも、それでいいと思った。

オチも何も無い話なのですが、noteを書いててよかったなと思って、
今の思いを残しておくことが、いつか誰かの・何かの救いになるかもしれないと、
そんな思いで書き残しておきます。

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