国鉄(JR)青函航路・最後の乗客


 世の中には、意図して歴史の目撃者になろうとする人もいれば、偶然にそうなる人もいる。私の父は後者を体験した。
 これはこの文章の筆者である娘が、父から聞き取った話である。

『国鉄(JR)青函航路・最後の乗客』

 父は愛媛の造船所に、船の設計士として勤めていた。その傍ら、労働組合の世話役をもしていた。(その造船所は、今や巨大化した「今治造船」―通称「イマゾウ」ではないことを念のため記しておく)
 ある時、労働組合関係の会合が札幌で行われることになり、組合代表として父が派遣されることになった。
 もちろん、西日本から北海道への交通手段としては、当時既に航空便が一番便利であったはずだ。だが、中小企業だったため、費用を抑えたかったのだろう、父は鉄道を乗り継いで札幌に向かうことになった(格安航空会社はまだない)。父もそれなりに鉄道を好む人であることもあり、それほど苦にはならなかったと思われる。

1988(昭和63).3.12-13.

 国鉄解体翌年の話である。父は30代後半。
 当時、まだ愛媛と広島を結ぶしまなみ海道は開通していない。最短最速ルート、予讃線特急で香川は高松まで向かい、ヘビーユーザーだったという宇高航路で瀬戸内海を渡り岡山へ。そこから新幹線で東京まで出た。
(ちなみに、宇高航路の船ではうどんが食べられたが、父はそのうどんを何杯食べたか分からないぐらい乗ったという)
(なお、鉄道としての瀬戸大橋線(本四備讃線)が全面開通したのは同年の4月10日である。よって本四の移動は、その日はまだ船しか手段がなかった)

 東京から先は、上野から夜行列車で北上したという。列車名は覚えていなかったが、筆者調べによる限り、上野駅19時08分発、青森駅・翌朝6時17分着の「急行・八甲田」と思われた、が、
(23.01.05追記、青函交通を研究している知人より、当日の「急行・八甲田」はこのダイヤではないとの情報提供がありました。「はくつる1号」か「ゆうづる1号」の可能性がある、とのことです。どちらにしろ、券面等が失われているので、特定は不可能なのですが、夜行列車に乗っていたこと自体には違いありません)

 当時まだ独身だった父は出張が多く、夜行列車にもよく乗っていたというが、その便は普段の夜行と比べて、やたら乗客が多いことを不審に思っていたという。(当時は夜行列車は特段珍しいものではなかった)
 そして、明け方、岩手と青森との県境付近で、車内アナウンスがあった。

『この列車は、青森発のJR・青函連絡船、定期運行最終便に接続します』

 父は最初から船で津軽海峡を渡るつもりで、札幌までの切符を手配していたようだが、そのアナウンスで初めて、自分が乗る予定の船が「定期運行最終便である」ことを知ったという。同時に、乗客の異常な多さにようやく納得がいった。

 そう、狙って乗船したのではない。本当に「偶然」最終便だったのである。その上、父はこれが青函連絡船・初乗船だった。
(切符を発券した駅員はどう思っていたのだろうか……大方「狙っている」と思っていたに違いない。だがその客は本当に全く狙っていなかったのである)

 一度列車を降り、青森駅内で青函連絡船乗り場へ向かう。積雪はあったが、天気は曇り。かの有名な『津軽海峡・冬景色』の冒頭にある通りであった。
 最後の連絡船は午前7時30分発、八甲田丸。当然ながら連絡通路(桟橋)は大変に混雑し、ツアーと思われる団体客や、その目印の旗を持った人も見かけた。報道カメラも入っていたという。もちろん父はグリーン席ではなく、一般の客席に座った。さすがにこの日ばかりは人々は無口ではなく、終始騒がしかったという。
 出港時刻、『蛍の光』が流れ、デッキからは万歳三唱が聞こえた。「さようならJR青函連絡船」の横断幕も掲げられていたという。

 満員の船内で、一人で乗船した父は何を思っていたのだろうか。海運に携わる仕事をしていた人間として、その存在はずっと知っていたであろうが、きっと船内で寝てしまうようなことだけはなかっただろう。

 やがて船は函館に到着したが、下船したその場で惜しむ間もなく、父は仕事のために札幌への列車に乗った。
 そして帰りは、船の最終便と同時に開業した、青函トンネルを通る海峡線に乗車したという。

 この話は、鉄道擬人化の一次創作をしている筆者が、資料として廃線入りの鉄道地図を参照している際に、たまたま通りがかった父が話してくれたものである。貴重な話を聞かせてもらったことに、ここに感謝の意を表する。

 青函連絡船は、今でも民間での運行があるが、宇高航路は民間でも直通する便が消滅した。そして定期夜行列車も『サンライズ出雲・高松』のみとなり、乗車券はプレミア化。父と同じ愛媛出身の筆者だが、実はどれも乗ったことがない。

 今後、日本の交通事情はどうなっていくであろうか。リニア新幹線や空飛ぶ車など、未知の世界が開拓されていく一方で、失われていくものもある。
 そんな時代だからこそ、語り継がなければならないものがあると思い、ここに証言を書き起こした次第である。

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