![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140128794/rectangle_large_type_2_46a25d32a8adca722bd7c7171b37444a.png?width=800)
『太宰治は、二度死んだ』第二章・広島篇(第18話)
広島第一高等女学校時代に、〝李白〟というあだ名の国語の先生がいらっしゃいました。
なんとなく中国の大人のような風格があり、小太りで、まるでお酒でも召し上がったのではないかと思うくらい、頬などいつもつやつやと血色がよく、またついぞ声を荒げたりすることのない穏やかな先生でした。
わたしたちは皆、この先生が好きだったのですが、好きだと余計揶揄いたくなるのが女学生の悪い癖です。
〝李白〟先生が授業中に『平家物語』の一節などを感に堪えたような面持ちで、朗々と読み上げたりなさっている時、わたしは、
「李白さん、またご自分に酔ってるわ」
などとノートに小さい字で書きこんで、隣の席のさん子さんに見せたりしました。
すると、剽軽者のさん子さんが当意即妙に、
「一杯一杯、お腹一杯っとくらぁ!」
李白の『山中ニテ幽人ト対酌ス』の「一杯一杯、復一杯」をもじって書き込んだりしてくるものですから、もうおかしくてたまらず、止めようとすればするほど笑いが止まらなくなって、後で級友たちに、
「あの李白を怒らせられるのは、あなたたちくらいだわ」
と呆れられたのを覚えています。
さん子さんは姓は寺島といって、お父さまのお仕事の都合で、東京の下町からこちらへ越してきた方でした。「〇〇とくらぁ」などと伝法な言葉遣いをするのが面白く、級の人気者でした。
修治さんに初めて会った時、修治さんがお話の端々に差し挟む江戸っ子言葉に、わたしが微かな違和感を覚えたのは、さん子さんの生粋の下町言葉に耳馴染んでいたせいかもしれません。
李白先生に、〝相剋〟という言葉を教えていただいたことがあります。
この言葉は、一般的には対立する二つの物が互いに相手に勝とうとして争うことを意味しますが、本来の五行説では、ある属性を持つものが、もう一つの属性を持つものに〝剋つ〟ことを表します。例えば、木は土に剋ち、土は水に剋ち、水は火に、火は金に、そして金は木にそれぞれ剋ちます。属性そのものが変わらない限り、勝負は始めからついており、その結果が変わることはないのです。
授業の最後に、先生が独り言のようにこう付け加えたのを、わたしは今でもよく覚えています。
「実はこの世の人間関係にも往々にして、それが当て嵌まるもんじゃ」
わたしと順蔵の関係はとどのつまり、この〝相剋〟だったのではないでしょうか。
もしわたしが水とすれば、順蔵は土なのです。
わたしの人生は順蔵に剋されずにはすまないのです。
それはきっと、星の宿命のようなものなのです。
もしも――
と、わたしは考えます。
もしも、兄と秋乃さんが祝言を挙げ、新居を構えるのがもう少しはやかったなら……。
もしも、わたしの両親があれほど世間体を気にする人でなかったら……。
もしも、順蔵の友人があの時期に東京から帰ってきたりしなければ……。
――いえ、もう止めましょう。
そんなこと、いくら考えたって詮ないことです。どんなに抗っても、結局人の子は、〝運命〟には勝てないのですから。
「東京へ?」
わたしはあっけにとられて聞き返しました。可部のハイキングから数日後のことでした。
わたしがチロルに出られなかった一週間ほど、順蔵ひとりではどうせ何もできまいと高を括っていたのですが、その間に順蔵はなんと、夢物語のような莫迦げた計画を立てていたのでした。
順蔵の友人の一人が、最近東京から広島に戻ってきていました。
その人は小山内薫に心酔し、新劇の俳優を志して上京したのですが、東京の演劇界は昭和三年に小山内薫が急逝すると間もなく、小山内が心血を注いだ築地小劇場も、新築地劇団と劇団築地小劇場に分裂してしまい、その混乱の中で新興の左翼劇団が雨後の筍のように林立していました。
その友人は小さな左翼劇団の一つに所属していたようですが、胸部疾患が見つかったため一時郷里に帰ることにしたのだそうです。
その人が順蔵に、もし新劇の俳優になるつもりなら自分がいた劇団の先輩を紹介してやろう、仕事だって劇団関係のものを回してもらうようにすれば暮らしていくぐらいなんとかなると、さんざん調子のいいことを吹き込んだらしいのです。
小山内薫は広島の演劇青年、文学青年たちから、〝郷里の英雄〟という扱いを受けていましたから、こうした若者は数えきれないほどいたのです。
しかし、青雲の志を抱いて上京し、故郷に錦を飾ることのできた人はいったい何人いたのでしょうか。
その人もおそらくは志を得ず、失意のうちに帰郷した一人に違いありません。胸部疾患――結核というのは、意地悪な言い方をすれば、こうした時によく使われる都合のよい理由の一つでした。
実際、その人は順蔵と連日飲み明かしていたのですから、そんなに身体の具合が悪かったとは、到底信じられません。
わたしが心底あきれてしまったのは、順蔵がこんな酒の席の与太話みたいなものを真に受けて、まるで千載一遇の好機に巡り合ったように興奮し、夢みたいな東京での新生活を語り、それをまた、わたしが喜ぶと勝手に思い込んでいることでした。
生き馬の目を抜くと言われる日本の首都で、なんとか食べていくだけでも並大抵の努力ではないでしょうに、ましてや俳優になろうなどと、新天地のカフェーで少し女給から色目を使われたぐらいで、いったい何を勘違いしているのでしょうか。
そもそも順蔵の話し方は広島弁丸出しで、これではどんな小さな劇団だって舞台に立たせてもらえるわけがありません。
「どうしても東京へ行きたいと言うなら、それは高林さんの勝手よ」
わたしは我慢できなくなって、順蔵の空疎な〝計画〟の話を遮りました。「でも、もうあなたの人生にわたしを巻き込まないで。お願いだから」
最初のうち、順蔵は余裕の笑みを浮かべながら、わたしを説得しようとしましたが、わたしが応じないと知ると、いきなり激高しました。
「知っとるぞ! われはあの武雄に、いろいろ知恵を授かったんじゃろう。よし、見てろ! われがどがぁしても別れる言うなら、わしもヤケじゃ。武雄の生活を滅茶苦茶にしちゃる。秋乃やらいう女のところへも押しかけて、結婚なんかできんようにしちゃる」
「この卑怯者!」
わたしは思わず立ち上がって、声を振り絞りました。「あんたって人は、どこまで性根が腐ってるの」
すると、順蔵はわたしの膝にむしゃぶりつき、その場に押し倒そうとしました。
でも、この時ばかりは、わたしも黙ってはいませんでした。
病み上がりの身体をはげましはげまし、一世一代の抵抗を示してやったのです。
卑怯者。
拳で順蔵を打ちながら、わたしは叫びました。
卑怯者。お前なんか、あの人たちに指一本触れる資格はないんだ。
武雄兄ちゃんも秋乃さんも美しく気高い人たちで、これから幸福で温かな家庭を築くんだ。
世の中は、美しく正しい人が、幸せに暮らしていけなければ嘘だ。もしそうでないなら、神などいない。マルクス主義も、革命も、みんな嘘だ。卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者卑怯者!
あの時の順蔵の目を、わたしはきっと死ぬまで忘れないでしょう。
それは、牛のように鈍い目でした。
わたしに打たれても、罵られても、睫毛一本動かさず、ただじりじりと迫ってくるのです。
わたしには、それが〝運命の顔〟に見えました。
運命というのはきっと、一切を吹き飛ばす暴風雨みたいなものではないのです。
牛のように鈍くて強情で、人の子の必死の叫びには耳も貸さず、ゆっくりと、でも確実に進んでくるものなのです。
夜明け近く、わたしはついに力尽き、死んだようになって順蔵に犯されました。
わたしを剋する星の、その冷ややかな光が、わたしの屍をしらじらと照らしているかのようでした……。
※「第二章・広島篇」完。次回から「第三章・東京篇Ⅱ」に入ります。