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シュレーディンガーのチョコ
1
「わたし、聞きたくない。動物虐待の話なんて」
「シュレーディンガーの猫って、そういう話じゃないと思うけど」
「だって、猫を箱の中に閉じこめて毒ガスを出すんでしょう?」
「これは思考実験だから、本当に毒ガスを使うわけじゃないよ」
「そんなこと考えるだけでアウト!」
「わかったよ、もうこの話はしない。じゃあ、気分直しにマジックでも見る? マジックのコツは、肝心な瞬間に相手の注意をいかに他へ向けるかで……」
「見ません!」
ああ、なんでこんなに難しいのかしら。
わたしはただ、チョコを渡したいだけなのに。
中学二年生の女子ともなれば、それなりに経験値が上がっていて、手作りチョコくらい鼻歌まじりにできる。
細かく刻んだ板チョコをボウルに入れておき、そこに温めた生クリームを注ぐ。ためらわず、一気に流しこむのがコツ。要は気合いだ、お菓子作りも料理も。それから、たぶん恋愛も。
湯気がおさまったら、ボウルの中身を泡立て器でよくまぜる。それをバットに入れ、冷凍庫で冷やす。
一時間くらいで取り出し、あとは適当な大きさに切って、ココアパウダーをまぶすだけ。
そう、それだけ。作るだけなら。
朝、陽斗にチョコを渡せなかった。
一緒に登校しようと約束しているわけではないけど、たいてい毎朝、橋のところで陽斗と会う。
ところが、今日に限っていなかった。先に行ってしまったのかと思って、あせった。
ここらは田舎だから、学校までは歩いてかなりの距離。軽く息をはずませながら教室のドアを開けたら、陽斗の席は空っぽで拍子抜けした。
結局、陽斗はただの寝坊だった。最近凝っているマジックの練習で夜ふかししたに決まってる。 ばかなやつ。
陽斗のマジックは、お世辞にもうまいとは言えない。タネも仕掛けも見え見え。あんなへなちょこマジシャンに拍手してあげる心根やさしい少女が、わたしのほかにいるもんか。
昼休み。
陽斗は男子の友達とずっと馬鹿話をしていた。信じられない、バレンタインデーに男同士でつるむなんて。
人気のない階段の踊り場とかをうろついてくれなきゃ、渡せないでしょ。もうっ!
下校時、ようやくふたりきりになれたと思ったら、今度は〝シュレーディンガーさんちの猫〟ときたもんだ。
とうとう橋のところに着いてしまった。
渡りかけた橋の真ん中で、わたしは立ち止まった。橋を渡り切って右に曲がれば陽斗の家、左に曲がればわたしの家。
わたしは欄干に手袋をはめた手を置いて、橋の下を覗きこむ。川面はもう暗かった。
「冬の日って、暮れるのがはやいよね」
わたし、こんな当たり前のことしか言えない。思わず白い溜息がもれた。
「それもあるけど。けっこう歩いたよ、オレたち」
陽斗の息も白い。「詩が、すごい遠回りの道を選ぶから」
「は? 何言ってんの。そっちがずっとしゃべってたからじゃん。わたしは付き合ってあげてたんだよ」
「シュレーディンガーによれば、観測されるまでは、生きている猫と死んでいる猫が箱の中で共存するんだって」
「またその話?」
なんでそんなにシュレーディンガーさんが好きなのよ。わたしは、心底うんざりした。
「だから観測されるまでは、詩の鞄の中にも、チョコがある可能性とない可能性が共存してるんだ」
陽斗の言葉を理解するまでに少し時間がかかった。意味がわかった後、わたしは、ぽかんと口を開けた。
「それを観測したかったってわけ?」
どういう回りくどさなの? こいつは。
「はい、どうぞ」
わたしは鞄からチョコの箱を取り出すと、陽斗に向かって軽く放った。
一応男子なんだから、楽々キャッチするだろうと思って――
陽斗の手の上で、チョコがはねた。あっと思った瞬間、陽斗の上半身が欄干の外側へ大きくはみ出していた。
「危ない!」
わたしは陽斗のブレザーの裾をつかむのがせいいっぱいだった……。
2
「ごめんね」
橋のたもとで、わたしはあやまった。
「なんで詩があやまるの?」
「だって……」
うつむくと、涙がこぼれそうだった。
格言。チョコは作るより渡す方がはるかに難しい。
そして、チョコは決して投げてはいけない。特に橋の上では。
陽斗の右手が、わたしの前にすっと差し出された。
その時、ぱっと街灯がついた。
赤いリボンのかかったチョコの箱が、陽斗の掌の上で輝いていた。
まるで奇跡みたいに。
「どうして……」
陽斗は気取ったしぐさで、おじぎをしてみせた。
――マジックのコツは、肝心な瞬間に相手の注意をいかに他へ向けるかで……
やられた。このへなちょこマジシャンに。
「ありがとう」
陽斗の声が、わたしの耳をくすぐる。「めちゃくちゃうれしい」
「よく味わって食べてよね。男子って一口でぱくっと食べちゃうんだもん」
陽斗は、ちょっとまぶしそうな顔をした。
「詩は、やっぱり笑った顔がかわいい」
「わたし、笑ってなんかいないよ」
「笑ってるって」
「さっきからにやにやしてるの、そっちじゃん。キモ!」
わたしはくるっと陽斗に背を向けると、さっさと家の方へ歩き出した。
わたしは絶対笑っていない。
陽斗の嘘つき。
(了)