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リンゴ飴

前話:シュレーディンガーのチョコ / 次話:なにそれ

 1


 わたしと美緒みおは、じっと虚空こくうを見上げていた。

 チューブ状のウォータースライダーだが、最後の部分がプールの水面よりかなり高くなっていて、着水がひどく難しい。

 その名も〝サドンデス〟。

 わたしは知らなかったのだが、美緒によれば、このウォータースライダーには妙な都市伝説があるのだ。

 ――着水するまでに告白の言葉を最後まで言い終えることができたら、その恋は成就する。

 美緒が今固唾かたずを呑んで見守っているのは、颯太そうた君がもしかして自分に告白してくれるかと期待しているのだろうか。もう付き合っているのだから、今さら成就も何もない気がするのだが……。 

「あ」

 美緒の口が小さく開いた。

 勢いよく飛び出した颯太君だったが、ジャンプは失敗だった。飛距離を伸ばそうとして、無駄な力が入りすぎたのだろう。尻餅を突くような、あまり優雅とは言えないかっこうで着水してしまった。

 苦笑するような空気がギャラリーから漂う。このサドンデスに挑戦する勇者たちは、さりげなく周囲の注目を集めてしまうのだ。

「何も、言ってくれなかったな……」

 独り言みたいな美緒の声。

 いや、「美緒が好きだ」なんて絶叫されなくて、かえってよかったんじゃない? こんな恥ずかしい状況で告白されたら、わたしなら絶対逃げるよ。

 もちろん、声に出しては言わなかったけれど。

「次は皆川みながわ君だね」

 美緒の視線がわたしの方へちらっと動く。普通に飛べば、シュウちゃんの勝ちだろう。でも……。

「あいつは――」

 言いかけた時、シュウちゃんの姿が宙に舞った。

 足が変に曲がり、体勢が大きく崩れ、思い切り腹から水面に激突した。

 失笑が、ギャラリーから上がる。

「や、やっぱり難しいんだね、これ。ふたりとも運動神経いいのに……」

 美緒のちょっと引きつった笑顔を見ながら、わたしは途中で切れた言葉の先を継ぐ。

「勝負に弱いのよ。小さい頃から」 

 ――美緒から電話があったのは、昨晩のことだった。 

 2


 携帯の着信を見て、おやっと思った。

 坂口さかぐち美緒。

 美緒とは小学校の頃はわりと仲が良かったが、中学が別々になって以来、連絡を取る機会もすっかり減っていた。

秋穂あきほ、久しぶり! 夏休みどうしてる? 元気?」

 空白の時間を一気に埋めようとするように、美緒のテンションは高かった。

「久しぶり。わたしは元気だよ。美緒は?」

「わたしも!」

 いちいち語尾に〝!〟は要らないと、ちょっと携帯を耳から離して思う。

「どうしたの、突然」

「ねえ、今家族旅行中とかじゃないよね」

「家でダラダラしてる」

「やった!」

 美緒のガッツポーズが見えた気がした。間髪かんぱつを入れず、弾んだ声が続く。

「明日一緒にプール行こうよ、ダブルデートってことで」

「は、はあ?」

 美緒は、同じクラスの颯太君と夏休みの直前から付き合い始めたのだという。

 で、なんでわたしが誘われなきゃいけないわけ?

「ふたりだけで行けばいいのに。他人なんて邪魔なだけだと思うけど」

「うーん、それがね……」

 美緒は急に口ごもった。

「付き合い始めたってことは、もうデートとかしてるわけでしょ」

「うん。学校帰りに図書館で一緒に勉強したり、とか」

 図書館デートですか?! 都市伝説並みの初々しさに、かえってわたしの方がテレてしまう。

「でも、まだ本当にデートらしいデートはしたことがなくて……。夏休みに入って毎日顔も合わせられなくなったし、なんだか心配なの。サッカー部には女子マネもいるし……」

 颯太君ってサッカー部なんだ。そういう説明はなかったが、文脈上理解できるからわざわざ話の腰を折るようなマネはしない。それで、そのマネージャーがけっこうかわいいわけね。これも文脈理解。

「うちの中学のサッカー部ってなかなか強豪だから、夏休みもほとんど毎日練習があるんだけど、明日はたまたまオフなの。だからお願い、一緒に来て。こういう時は違う学校の人の方がいいもん!」

 今度は両手を合わせて拝んでいる美緒が見えた。わたしはいつの間にか透視術を身に付けたらしい。

「美緒。さっき、ダブルデートって言ったよね。わたし、付き合っている人なんていないよ。それに、ダブルデートってお互い知り合いの四人でやるものなんじゃ?」

「だから、皆川君も誘ったの」

 なぜか得意そうな美緒の声。

「皆川? え? それってもしかしてシュウちゃ……いや、柊介しゅうすけのこと⁈」

「秋穂と皆川君って、いとこ同士だったんだね。皆川君も同じクラスでさ、偶然本人から聞いてびっくりしたよ。秋穂と苗字も違うし」

「母方のいとこだから」

 シュウちゃんの中学が美緒と同じなのは学区でわかるけど、クラスメートだったなんて、わたしも初耳だよ。

「秋穂が来てくれればダブルデートっぽくなるから、颯太君と変に気まずくなる心配もないでしょ。ね、名案だと思わない?」

 美緒にとっての名案ね。

「いとこなのは間違いないけど、わたしたち、幼稚園以来会ってないよ」

 両親が離婚した後、わたしは父と一緒に暮らすことになった。それほどの距離ではなかったが、引越しもした。中学の学区が美緒やシュウちゃんと違うのはそのせいだ。もっとも、母方の親戚との付き合いは、わたしが小学校に上がってから絶えていた。わたしが恋愛に興味がないのは、両親のケンカをいやというほど見せられたせいかもしれない。

 小学校も別々だったシュウちゃんとは、もう八年も会っていないのだ。

 でも、シュウちゃんと最後に会った日のことはよく覚えている。ちょうど今くらいの時期だった。そう、夏祭りの夜……。 

 わたしが黙っているのを拒絶の意味に受け取ったのか、美緒があせったように言った。

「明日はちょうど夏祭りの日だから、帰りに縁日をひやかそうよ! わたし、おごるよ。屋台食べ放題で手を打たない?」

 3


 翌日。
 わたしが着いた時、三人はもう来ていた。美緒が真っ先にわたしに気づいて手を振ったので、わたしも手を振り返しながら近づいていく。

桐生きりゅう颯太君」

 ちょっと恥ずかしそうに、美緒が紹介した。

 颯太君はなかなかのイケメンだった。でもチャラチャラした感じはなく、真っ黒に陽に焼けていた。

「こんにちは」

 颯太君は頭を下げた。もっと軽くくるのを予想していたわたしは、あわてておじぎを返す。美緒がくすくす笑い、それを引き取る形でわたしも笑う。

「こちらは、紹介するまでもないよね」

 美緒は返したてのひらを、かたわらに立つもうひとりの男子に向ける。

「よ、アキ。すっごい久しぶり」

「久し、ぶり……」

 かろうじてそれだけ言った。相手があの頃のように〝アキ〟と呼んでくれたのに、わたしは〝シュウちゃん〟と呼びかけられなかった。

 そこには、わたしが知っている〝シュウちゃん〟とは別の人がいたから。

  ※※※※※

 ――よわいねえ、シュウちゃんは。

 あの頃のシュウちゃんは、背もわたしより低くて、ゲームでもなんでもわたしに負けてばかりいた。

 ――アキが、つよすぎるの!

 シュウちゃんは少し垂れ目だった。笑うとよけいに目尻が下がる。

 ――まあ、わたしのほうが、おねえちゃんだからね。

 ――え? とし、おなじだよ。

 ――ちがうもん。だって、わたしのたんじょうびのほうが、さんかげつはやいもん。

  ※※※※※

 昨日の夜、シュウちゃんがバスケ部所属で、スタメンとして活躍していると美緒から聞かされた時、わたしは鼻で笑って信じなかった。

 今目の前にいるシュウちゃんは、背が見上げるほど高く、一目でスポーツをやっているとわかる体形だった。きりっとした眉に軽くウェーブした髪がかかっている様子は、いとこのひいき目を差し引いても、〝カッコいい〟という以外言葉が見つからない。

 シュウちゃんの不思議そうな視線に、自分が相手に見とれていたと気づき、はっと目をそらす。わあ、わたし今顔赤くなってない? なんかもう一人芝居、いやコントだよ、これ……。

 4


「あのふたり、なんかもう別行動になってるよね」

 すっかりカップルの空気を漂わせ、金魚すくいなんかしている美緒と颯太君を、わたしは横目で眺めた。

 屋台食べ放題の約束だったが、今度ハーゲンダッツでもおごってもらおう。

「あいつら流れで付き合い始めたから、まだお互いにちゃんと告白してなかったんだって。オレと勝負して勝ったら、正式に告白するって颯太が言ったんだよ。都市伝説をアレンジしたってドヤ顔してたけど、正直意味不明」

 シュウちゃんはちょっと笑った。笑うと、幼稚園の頃の面影おもかげがゆれる。

 最初は四人一緒に遊んでいたのに、いきなり颯太君がシュウちゃんに勝負を挑んだのだった。サドンデスで、きれいに遠くへ飛べた方が勝ち。

 きっと颯太君は、背中を押してくれるきっかけがほしかったのだろう。都市伝説通りにやらなかったのは、クレバーな選択だったと思う。

「だからわざと颯太君に負けたの? シュウちゃん」 

 笑顔につられて、自然に〝シュウちゃん〟と呼びかけていた。

 その時――

「だいじょうぶ、おにいちゃんがいるから!」

 はっとした。

 声のした方を振り返ると、五歳くらいの男の子と妹らしい三歳くらいの女の子がいた。

 一目で親とはぐれたのだとわかった。男の子は片手で妹の手を握ると、もう一方の手で仮面ライダーのお面をぐっと握りしめた。

 ※※※※※ 

 ――だいしょうぶ、オレがなんとかするから。

 リンゴ飴を買うのに小銭がうまく出せなくて手間取っているうちに、わたしとシュウちゃんは、人でいっぱいの縁日で大人たちとはぐれてしまったのだ。

 ふだん姉貴風を吹かしていたくせに、わたしは怖くてぴいぴい泣いた。あの時、五歳のシュウちゃんは何度も言ってくれたのだ。だいじょうぶ、オレがなんとかするから。自分だって、泣きそうだったくせに……。

  ※※※※※

 妹の手を引いてわたしたちの傍らをすり抜けようとした時、男の子が道のヘコみに足を取られて転んだ――いや、転びそうになった。

 ふわっと、小さな男の子の身体が支えられた。ドリブル突破しようとした敵から、ディフェンスが見事にボールを奪うように。

「お父さんお母さんとはぐれちゃったんだね。無理に動かないで、ここにいた方がいいよ」

 シュウちゃんがしゃがんで穏やかに言うと、男の子はちょっとためらい、それから、こくっと頷いた。

 人と人の隙間に、大あわてで走り回っている夫婦らしい男女の姿がちらっと見えた。

「シュウちゃん、あそこ!」

 シュウちゃんはさっと立ち上がり、わたしが指さした方へ大きく手を振った。

 5


「よかったね、あの子たち、お父さんお母さんが見つかって」

 わたしたちは肩を並べて歩いていた。 

「オレ、顧問の先生によく言われるんだ。闘争心が弱い、がむしゃらに勝ちたいっていう気迫が足りないって」

 ふっとそんな噛み合わない言葉が落ちてきて、わたしは思わず立ち止まる。

 そうか、シュウちゃんはさっきのわたしの質問に答えてくれてるんだ。

「でも、勝負っていつも勝たなきゃいけないのかな」

 わたしはそっとシュウちゃんを見上げた。

 思い出した。いや、ずっと忘れてなんかいなかった。わたしは…… 

 ――好きだろ? 

「え」

 どきっと我に返った。

「リンゴ飴。アキ、小さい頃好きだったろ? おごるよ」

 ぼんやりしているわたしを置いて、シュウちゃんはリンゴ飴の屋台の方へ歩み寄る。

「ううん、わたしがおごる」

 わたしは、シュウちゃんの大きな身体を突き飛ばすようにして、屋台のおじさんに言った。「リンゴ飴、ふたつください!」

「あいよ」

 二本のリンゴ飴を受け取ると、一本を無言でシュウちゃんに差し出す。

「オレは、いらなかったのに」

「いいの。せっかく買ったんだから食べて」

「じゃ、サンキュ」

 シュウちゃんが手を伸ばす。ふたりの指が、ちょっとふれ合う。

 リンゴ飴はびっくりするほど大きくて、毒々しいまでに赤かった。

 小さい頃は、こんなものを口元をべたべたにして食べていたのか。あの頃のわたしはバカだった。何も知らなかった。シュウちゃんは勝負に弱いんじゃない、シュウちゃんはやさしいんだ。やさしくて強い人なんだ。だから、わたしは……

 飴のコーティングの薄そうなところを選んで、わたしは小さく噛んだ。

 ガラス細工が割れるような音がしたと思うと、一瞬遅れて果汁がじわっと口の中に広がった。

 シュウちゃんが目尻を下げて覗きこんでくる。

「すっぱい」

 わたしは、顔をしかめて言った。

                               (了)

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