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「禿山」三態と「船乗り大冒険」


マデースト・ペトゥローヴィチ・ムーサルグスキー


 実のところ、極めて微妙なるポジションになるアニヴァーサリー・コンポーザーが存在する。生誕185年──極めて微妙である。しかしながら彼の存在は、取り分けシャスタコーヴィチへの多大なる影響を顧みるなら、決して無碍にはし得ないし、同じくロシア「五人組」同僚にして、こちらは生誕180年を迎えるもう一方の努力もあり、今日音楽シーンには欠かせぬ存在である。そう、誰あろうマデースト・ペトゥローヴィチ・ムーサルグスキーであり、もう一方はニカラーイ・アンドゥリェーヴィチ・リームスキー=コールサカフである。
 ロシア「五人組」というのは、唯一のプロ音楽家たるバラーキリェフ(コールサカフも間もなくプロとして、かつ五人組とは異なる理念の許にルーシにおけるアカデミズム発展へと貢献する)を指導者とする緩慢なグループであり、彼らが同一理念の下に結集したる時間というのも実のところかなり限られている。往時はバラーキリェフ、サンクト・ペテルブルグ音楽院教授職へと与り軍籍との両天秤たるリームスキー=コールサカフ両名を除く他全てがアマチュアであり、中でもムーサルグスキーはバラーキリェフの強固なる影響下にあって次第にルースキーたるべき音楽を目指すに到るが、その生家が大土地経営者であったがゆえに、農奴解放令の煽りから次第に零落、数多の保有財産も失い、やがて学生時代を送ったサンクト・ペテルブルグにて官吏として働くようになるが、零落のみならず母の死もあり、アルコール依存症へと罹患、完全に身を持ち崩す。またこの頃にはバラーキリェフとの関係も悪化する。官吏としての待遇も劣悪なものであったが、ダルガムィージスキー(ダルゴムイジスキー)の知遇を得て作曲家としては絶頂へと達する。斯く時期に描かれし彼の代表作こそ「禿山の一夜」(初稿。聖ヨハネ前夜祭の禿山)である。
 当作へのバラーキリェフによる痛烈なる批判、就中オーケストレーションを巡る容喙と改変要求が謂わばトリガーとなり、両者の関係は一転悪化を辿るも、決裂をみるには到らなかった。その帰結たるとて、マデーストは五人組競作になる歌劇「ムラーダ」のために、合唱をも加えた「禿山の一夜」の改訂稿を書き上げる。尤もこの「ムラーダ」については頓挫をしてしまうのであるが。この折に作曲されたヴァージョンは現在までもその総譜等は未発見ではあるも、一部手を加えたのみにてほぼそのまま「サローツィンチの市」に転用をされる。これこそ今日1880年版として知られる、バリトン独唱と合唱を加えたヴァージョンであり、彼自身になる最後のそれである。その結尾は67年版とは異なり、鐘の音の告げる静寂に包まれし払暁を描くシーンが印象的であり、今日最も演奏機会数多なるリームスキー=コールサカフによるヴァージョンは、この80年代版を下敷きとしている。ちなみにこの年、彼にとっては比較的「寛大」であった転務先の内務省により馘首を宣告され帰結たるとて職を失い、以後の荒んだ生活は、コールサカフや友人らの支えにより辛うじて維持はされるも、それから一年もせぬ翌81年にマデーストは、余りにも苦衷に包まれたる生涯を閉じる。
 さてもう一方、つまりはニカラーイ・リームスキー=コールサカフであるが、彼は貴族階級出身であり、その家系からは歴々たる軍人を輩出する。ニカラーイ自身も海軍士官として人生の荒波へと漕ぎ出すも、マデーストとは異なり「順風満帆」な出航であったは確たる事実である。
 彼ニカラーイは、ルースキーによる「ルースキー」たる交響曲の嚆矢であり(ルーシ最初の交響曲を巡ってはアントーン・ルビンシテーインのそれとされるが、彼はドイツ系モルドヴィアンである)、その外にも、同じく海軍時代に「サトゥコー」「アンタール」などのオペラを手がけるなど、五人組最若年ながらサラブレッド的存在であった。その作曲技法習得たるや、バラーキリェフらの示唆は受けるもほぼ独学であり、にも拘らず彼はサンクト・ペテルブルグ音楽院から教授職のポストを提示されてはやがて海軍より退役する。斯くして彼はアカデミズムが一角を占めるに到るも、バラーキリェフらとの関係をも維持、裕福な商人ベリャーイェフらとも連携しつ、五人組を初めとするルースキーになる作品をフランスにて盛んに紹介するなどの活動をも展開。まさにその航路は「順風満帆」である。
 されど彼ニカラーイは貴族出身ながら、ルーシの後進性を憂い時に政府批判をも辞さずの硬骨漢であり、ゆえに当局が圧力にて音楽院教授職罷免という事態へ追い込まれるも、それを発端にグラズノーフ、リャーダフらが抗議の辞職へと打って出るに到り、当局も撤回せざるを得ず、結果としてニカラーイは教授としての地位を辛くも守るのであるが、圧力が已むことはなく、今日では代表的オペラの一つに数えられる「金鶏」の上演は妨害をされ続け、彼の死後にやっと日の目をみる。斯く思わば、ロシアというのは帝政であれコミュニズムであれ、今日「建前上」自由主義的体制にあれ、都合悪しき存在への圧力が「習い性」なのやもしれぬ。
 とまれ、そんな彼ニカラーイの代名詞的管弦楽作品が交響組曲「シェヘラザーデ」作品35である。交響組曲とは銘打たれども、その構成と構築性、有機的一体性は、最早「交響曲」と呼ぶに相応しい。冒頭は「シャリアールの動機」そしてそれへとブリッジ的経過句を挟みつつ、続けて提示をされしオリエンタルかつ抒情的なるハープとソロ・ヴァイオリンが奏でし「シェヘラザーデの動機」は、当作品の有機的一体性を担保するのみならず、その物語性──標題性を明確に規定するものであろう。これら主要素は第一楽章序奏部を為すが、それへと続く雄渾なる第一主題「海の主題」も、フィナーレの主要因子たるべき機能を与えられる(他にも第二楽章や第三楽章A部主要主題が同様の働きを備える)。第一楽章は展開部を欠く変形的なソナタ形式になるが、再現部にて展開部に相当する機能を担わせるなど、シンプルながら複雑にして独創的でさえある。聊かスケルツォ的性格を帯びる第二楽章は序奏付きの三部形式、緩徐楽章的第三楽章はロンド形式に依拠する。そしてフィナーレは、ライト・モティーフたる「シャリアールの動機」と「シェヘラザーデ」の動機のみならず、前述する第一楽章「海の主題」を始め、先行三楽章の要素が複雑に絡み合う劇的な変則的ソナタになる緊迫感溢れる音楽であり、彼ニカラーイの面目躍如たるやと喝采を浴びせるべき一大傑作である。
 掉尾に付言するなら、巷間「サンクト・ペテルブルグ楽派」(五人組ら)と「マスクヴァー(モスクワ)楽派」(チャイコフスキーら)の対立を巡りクラシカル・ミュージックがファンの間では未だ取り沙汰されるが、斯くなる対立は夫々の聴衆あるいは評論家らに見受けられるに過ぎず、確かにチャイコフスキーは五人組に代表されるイディオムとは一時期距離を置くも、殊にバラーキリェフ、そして彼ニカラーイとは折節意見を交換するなど、さしたる対立関係にはなく、比較的良好なる交友を温めていた事実については改めて指摘しておくべきであろう。


ニカラーイ・アンドゥリェーヴィチ・リームスキー=コールサカフ

note特典

 コールサカフになる「禿山の一夜」が80年代版に依拠するは先述の通りであるが、67年版をも含め詳細に検討するなら、これらは大きく三(主部のみ)〜四部乃至五部になる構成要素より成り立つ(付言するなれば、ムーサルグスキーが「ソナタ形式」にて作曲をしたる作品はバラーキリェフの指導要領にて描かれしピアノ作品一曲のみである)。とまれ終結部に著しい改変が加えられるなど、そのプログラム性には相応以上の異同が認められる。
 特典稿では、80年版を巡り、その構成と筆者翻訳を巡り触れたい。
 先ずは冒頭部分について。他版(67年およびコールサカフ86年版)との比較をも含め言及しよう。
 キイは全てニ短調より始まるが、冒頭発想指示言辞は全て異なる。67年版では単に「ヴィヴァーチェ」(活気に満ちて)と指定されるのみである。80年版ムーサルグスキーになる指定は「アレグロ・アラ・ブレーヴェ」(速めに。二拍節)とあり、拍子指示も四拍子を表す「C」へ縦線を穿つ「二拍子」を採る。コールサカフ86年版は、拍子を直截的に「二分の二拍子」とし、発想言辞は「アレグロ・フェローチェ」(速めに。荒々しく)となる。斯く冒頭はそのオーケストレーション(67年版は作曲者本人、80年版はシェバリーン、86年版は当然ながらリームスキー=コールサカフ)など、67年版をベースとは為すも、楽器法上にてはその差異も明確に浮かび上がる。現在にて知り得る限りにおいては、作曲者ムーサルグスキーになるオーケストレーションは67年版のみであるが、今日的感覚からするに「荒々しく」はあれど、それだけに「効果的」かつ「大胆」にして聴く者を圧倒する(バラーキリェフが問題視したるはそのうちの「荒々しさ」であろう。されどムーサルグスキーはおそらく、確信的に斯く器楽書式を宛てたとみるべきである)。1930年にシェバリーンが校訂を付す80年版は、そのピアノ二手譜などをも参照するなら、一定程度はムーサルグスキーの「意思」を思量したるものと解して強ち謬りとはしない。コールサカフになるそれは、彼がルースキーにおける「管弦楽法の大家」ゆえか洗練されつも、ムーサルグスキーの「意」を汲む処置が施されている。
 さて80年版であるが、大別するならほぼ五部になる。
 先ず「序奏」は、概ね異版と大差はないが、シェバリーン校訂譜に付されし練習番号37辺りから異版と相貌を異にする「音楽」が描かれ、同練習番号41より11小節目二拍表「チェルナボーグ」独唱(バリトン独唱)よりオペラ的なるイディオムを採る。その間にコンテクストは微細ながら他版とは表情を一変するが、寧ろこれこそ「大成せる」ムーサルグスキーが「世界観」と思し召せ。
 とまれ80年版の構成は以下の通り。

・序奏
・チェルナボーグへの奉仕
・サバト(魔法使いの集い)
・バレエ(管弦楽のみ)
・コーダ

 その上にて慎重にアナリーゼを施すなれば、太宗は67年版との「差異」は表面的イディオムのそれに止まる。斯く意味にて思量するなら、第二者たるリームスキー=コールサカフ版あるいは「第三者的」立場になるシェバリーン版たるや、時に大胆なるメスは入れど、やはり結局のところムーサルグスキーが「世界」を敷衍する、それも一「方便」やもしれぬ。
 80年版について、バリトン独唱及び合唱を付したるがそのテクスト(原文)解釈は「なかなか難しい」
 実際のところ、ルースキー(ロシア語)のみにてやその「実が読み取れぬ」
 拙訳を巡っては、東スラヴ語系、南スラヴ語系(ブルガリア語。セルビア語など)あるいは一部ポルツカなど西スラヴ語系をも参照の上にて、ルースキー(ロシア語)にては「オノマトペ=擬音表現」たるそれへも「語意」を宛て、時には敢えて「置換=言い換え」すら辞さず(一例を挙げるならばそう、「Цоп(警官)を獄卒、獄吏とするなど)大胆にも「文語表現」とて訳したる。
 斯く過程にて、例えばキリリアン・アルファベットになる接尾辞「го」(一部男性名詞や中性名詞、あるは形容詞にみられる「в」音への変化形)よりの連想と仮託が結果として「Сагана」を敢えてカナ表記にて「サヴァナ」とするは、所謂「サバト=魔法遣いが集会」かつオノマトペとして多用される「Ва=ヴァ」との「連関性」を意識したる結果である(実際には「サガナ」と転写すべきであり、パッパーノ盤にても明確に(時にぼやかしつ)「ガ」なる音にて宛てる)。
 往時のロシアにおいては、近縁言語のみならず、それまでの経過にて「傘下」とせしむ「諸言語」が少なからず混淆していたと眺めてよろしかろう。斯く「時代」にてや、ホーエンツォレルン朝を核とする「小ドイツ」か、ローマ王権の残滓たる「ハプスブルク朝」を含む「大主義」かは措き、謂わば「第三」たる異なるやもしれぬ「民族自決」的意思を「ラマノーフ」ロシアにあるいは看取すべきやもしれぬ。
 いずれにせよ「音韻世界」としてのムーサルグスキー「禿山」世界たるや、彼が零落をせども「音楽徒」たる証左と捉えるべきであろう。そこには「民話的」「寓意的」仮託を施しつ、表音文字ゆえの「さまざまなる響き」を「音楽徒」ゆえに良き意味で弄ぶ彼マデーデストの「赤裸々な様子」が明確にも浮き彫りとれているは間違いない。


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