銭湯帰り

 冬の家風呂は寒いので銭湯にいった。戦闘ではなく。それも体が温もりそうだけれど。
 脱いだ服をロッカーに入れ、鍵つきの白い輪ゴムを手首に嵌める。浴室の戸をからから開けると、白い湯気がゆるりと流れ出てきて、ほのかな水気とやわらかな温かみが身体を包んだ。桶に汲んだ湯船のお湯を足首に垂らすように掛け、もう一度汲み、肩から下の身体を濡らす。濡れた手でお湯をかき混ぜて、ちょうどよさを確かめてから、足をそろりと沈める。ところまでを想像しながら銭湯帰りに立ち寄ったコンビニから出た。
 火照った頬に冷たい風が当たり、反射のように白い息が漏れた。見上げると月が丸い。その下に三日月が見えた。小さな黒の下弦。それは白くぼんやりした人影がにんまりと笑っている口だった。通りを挟んだ正面にあるマンションの屋上に立っていた。髪が長く、シルエットの形から女性である感じがした。
「今は冬だよ」
 わたしは彼女に向かって誰にともなく呟く。怪談話は夏のものだ。
「――夏だよ」
 細い軽やかな声が耳元で囁いた。思わず振り返るけれど、コンビニの明かりがわたしの目を細めさせただけで、人の姿はなかった。レジにいるコンビニ店員が怪訝そうな目をちらりと向けた。
 わたしはコンビニ前にとめていた自転車にキーを挿して、またがって、家に向かって漕ぎ始める。すると昼間の日差しで温まった風が頬を撫でていく。そう言えば夏だった。
「――夏だね」
 後ろの荷台に腰かけた彼女がわたしの背中を触った。夏だね。ぬるい夜風だけれど、火照った頬を幾分でも冷ましていく。背中に触れたままの彼女の手が冷たくて心地よかった。

#幻視 #短編

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