アンミカ「白って無限色あんねん」

ちょっとパソコンに詳しい人は、画像の色はRGB(赤と緑と青)で表現されていることを知っているだろう。実際、コンピュータで色を扱うデータは基本その3色で表現されているし、ディスプレイもその3色の組み合わせで表現していることが一般的だ。

RGBの世界では、すべてを一度に光らせると白になる。では、この世にあるすべての白い光は、赤と緑と青の光の組み合わせでできているのだろうか?

そうではない。

物理現象としての光は、電磁波という波である(ここでは、粒子性については考えないとする)。DTMをやる人ならわかるかもしれないが、波である光は、音と同じように周波数を分析し、スペクトルを調べることができる。「本当の色」とでもいうべきものは、このスペクトルなのである。

わたしたちに見える色というのは、その「本当の色」を切り取ったものに過ぎない。人間の目には、赤と緑と青を感じるセンサー(錐体細胞)がある。それぞれの部分の反応の強さによって、感じる色が決まるのである。

そのため、同じ色であっても、違う光のスペクトルを持っていることがある。これをメタメリズムという(でゲソ)。白い光に見えても、それは必ずしもRGBの3色で出来ているとは限らない。実際、安価なLED照明では、青色LEDと黄色の蛍光体を組み合わせて白を表現している。太陽光の場合、スペクトルはさまざまな周波数に広く分布している。

そういう意味では、アンミカさんの言っていたような200色よりも、遥かにたくさんの白が存在するということだ。しかも、彼女は「単に『白』と呼ばれる色の中でも、微妙に見え方の違うものが200色ある」という意味で言ったのだと思うが、物理的には、「全く同じ見え方の白が、無限色ある」のである。

ニュートンは「光に色はない」と表現した。色とはあくまで、多様な「形」をした光を、目で3色に切り取って、さらに脳で作り上げた感覚量にすぎないからだ。同じ物体でも、違う光を当てると色は変わる。同じ物体、同じ光でも、違う人が見れば違う色になる。錐体の機能には個人差があるからだ。あるいは、これは哲学の領域だが、錐体や神経の機能まで全く同じだとしても、あなたが見ている「赤」は他の人が見ている「赤」は本当に同一なのだろうか?

もしかすると、先ほどスペクトルのことを「本当の色」としたのは、大きな間違いかもしれない。私たちは、物理的世界に存在するスペクトルを、グラフとして見ることはできるが、色として見ることは決してできない。

これは我々の社会にも重大な示唆を与えてくれる。真実は確かに存在するが、決して見ることができず、人によって見え方は異なる。逆に、同じように見えたことも、背後には無数の可能性があるのである。

余談

我々が色を3要素の組み合わせとしてしか見ることができないのは、我々の錐体が基本的に3種類しかないからだ。一方、同じ波動現象である音の方は、いろいろな高さの音を細かく聞き分けることができる。それは耳の奥の方に、いろいろな高さを感じる毛みたいな細胞が何千、何万と歯ブラシみたいに並んでいるからである。つまり、耳は優秀なスペクトラムアナライザなのである。

逆に言えば、目というのはスペクトラムアナライザとしてはものすごく精度(分解能)の悪い代物ということになる。なぜこんなに精度が低いのか? もし精度を耳レベルまで高めたら何が起こるか? ということを考えてみる。

こういうとき、大抵疑われるのは進化的な理由である。つまり、人間にとって錐体は3つで十分であるということだ。錐体が少ないと情報量が少なくなり生存に不利であるので、増やすことにメリットはある。それならば、100色型、1000色型にすればいいのか? 否。多すぎても問題である。情報量が多すぎることのデメリットは、現代人が一番よくわかっているだろう。疲れるのである。錐体を減らすのではなく、脳側でシャットアウトするという手もあるだろうが、錐体を減らす方が簡単なのだろう。また、色覚が少ない方が輪郭を見やすいといったメリットもあるので、人間にとってちょうどいいバランスが3色型(+2色型、4色型)だったということだろう。

では、今度は逆に、耳の方のセンサーを3つにしたらどうなるか考えてみる。すると、音の高さは「低い音」「中間の音」「高い音」3つの混ぜ合わせとして表現されることになる。もしサイン波のような単純な音ならそれでいいのかもしれない。しかし、楽器の音色のような複雑な音を、そのセンサーでとらえるのは難しいだろう。つまり、すべての音が、なんかもっさり聞こえるということだ。

なぜ音はこんなにセンサーが多いのかというと、光の場合は信号の空間的な配置によって情報を得ることができるが、音はそのような空間的な情報が少ないからだろう。大雑把に右か左か、前か後かくらいはわかるが、1cmずれた2つの音源があって、どっちから流れたかを判断するのは難しい。その分時間的な変化をより詳細に捉える方向に進化したのだと考える。

時間芸術、空間芸術という言葉があるが、まさにこのような事情があって生まれた概念なのだろう。視覚の特性、聴覚の特性それぞれに特徴があって、それぞれを生かしながら人々は作品を作ってきたのである。


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