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笠置シヅ子は釧路に来ていた

1.これまでの調査

 「笠置シヅ子は釧路に来たのか?」から4回連続で、笠置シヅ子来釧の謎を追ってきた。しかし、来釧の決定的な証拠を掴めてはいない。前回の記事「続々々 笠置シヅ子は釧路に来たのか?」では、1953年7月に服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子、灰田勝彦らと北海道に来たこと、函館、遠軽、札幌で公演したことを明らかにした。私の調査のきっかけとなった2024年5月29日付の北海道新聞釧路版で紹介された写真の面々が揃っていることから、このときこそ釧路に来たに違いないと考えたが、道立図書館には当時の道新釧路版が所蔵されていなかった。そこで、釧路市図書館に調査依頼を出した。

2.笠置シヅ子は釧路に来ていた

 その返答がやってきた。7月14日に釧路東宝で開催された「服部良一作曲2000曲達成記念公演」に笠置一行が出演していること、また、15日に十條製紙釧路工場でも公演したことが道新釧路版から判明したという。さっそく、関係記事の複写・郵送の手続きをお願いした。
 送られてきた紙面は全6枚。7月6日付、10日付、12日付、13日付、14日付の広告、さらに15日付に掲載された服部良一と渡辺はま子の対談記事である。
 6日付の広告には、「服部良一作曲2000曲達成記念公演 ヒットパレード 楽団クラックスター 音楽指揮 服部良一 売切近し 枚数限定のためいますぐお買求め下さい 14日限 東宝 一般三五〇 前売二五〇」とある。出演者は笠置シヅ子、渡辺はま子、服部富子、淡谷のり子、三浦洸一、小川静江、西田滋子、秋島美沙である。10日、12日、13日付の広告も同様の内容である。

1953年7月6日付北海道新聞釧路版
1953年7月12日付北海道新聞釧路版

 公演当日の14日付の広告は、さらに詳しい。「いよいよ 明14日1日限 世紀の実演 服部良一2000曲達成記念公演」と打ち、時間割も載っている。1回目が10時~13時半、2回目が14時半~18時、3回目が19時~21時半で、2回目と3回目は満員が予想されるので、なるべく1回目をご利用下さい、と呼びかけている。なぜか、3回目だけ1時間短いが、同時上映する映画で時間調整したのだろうか。また、特別興行であるため、招待券や縁故者の無料入場はお断りするという。さらに、一行は14日朝7時55分の急行マリモで到着いたします、とも書いている。朝の釧路駅にファンが殺到したにちがいない。

1953年7月14日付北海道新聞釧路版

 15日付の記事は「いつ来ても魚臭い 来釧の渡辺はま子 服部良一氏の対談」と題して、2人のざっくばらんな会話を載せる。一行が北大通の珍家旅館に泊まったこと、服部良一ははじめて北海道に来たこと、渡辺はま子の来釧は2回目だったことなどが分かる(『北海道年鑑 昭和28年版』によると、1951年7月にNHKの出張放送「今週の明星」で渡辺が来釧している)。
 服部は「釧路に来るまで汽車の窓から見える果しない草原は本当に北海道らしい風景だね。そして、いろいろな空想が浮んでくる。詩的ものがあるよ」「ここは最果てのなんていう気はしない。景気がよさそうな町だと思った」と釧路を褒め、渡辺は「私は途中でツルが飛び立つのを見た。とってもすばらしかったわ」「いつ来ても魚臭い街ね。でも、このお魚で活気があるんですって」と本音をもらす。記事の最後に、一行が15日に十條製紙工場で公演、服部は阿寒を見て帰京するとある。
 十條製紙工場での公演は、2024年6月26日付の道新釧路版の記事「笠置シヅ子さん来釧の謎たどると ブギの女王『公演見た』続々」の十條製紙「娯楽場」の証言や資料と符合する。

1953年7月15日付北海道新聞釧路版

3.一行の足取りは?

 「続々々 笠置シヅ子は釧路に来たのか?」に書いた1953年の笠置シヅ子一行の動きに、今回、道新釧路版から判明した動きや当時の時刻表の情報も加えると、以下のようになる。
 7月1日…HBC函館局開局記念芸能祭。笠置シヅ子・服部良一が参加。
 7月7日…渡辺はま子が羽田11時00分発、千歳着14時00分の飛行機に乗る。
 7月9日…遠軽公演。服部良一・笠置シヅ子・淡谷のり子・渡辺はま子が参加。
 7月10日…灰田勝彦が羽田11時00分発、千歳着14時00分の飛行機に乗る。
 7月10日~13日…札幌大映で服部良一2000曲作曲記念公演。服部良一・笠置シヅ子・淡谷のり子・渡辺はま子が参加。
 7月12日…札幌で野球試合に参加。
 7月13日…札幌での公演終了。3回目公演18時40分から。札幌発21時30分の「急行まりも」に乗車。
 7月14日…釧路着7時55分。1回目公演10時~13時半、2回目公演14時半~18時、3回目公演19時~21時半。服部良一・笠置シヅ子・淡谷のり子・渡辺はま子らが参加。北大通の珍家旅館宿泊。
 7月15日…十條製紙工場で公演。
 7月19日…服部良一が千歳15時30分発、羽田着18時30分の飛行機に乗る。
 7月21日…モンテンルパの捕虜帰国予定日(実際は22日)。渡辺はま子はこれに間に合うように東京に帰った。
 
 札幌での公演終了後に夜行列車に飛び乗り、釧路に着いて、間なしの公演であった。「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」という映画(90分)を同時上映しているので、一行が舞台に姿を見せたのは11時半以降であろうが、それにしてもハードである。
 釧路公演終了後の動きがはっきりしないが、服部良一が阿寒に寄ると書いているところを見ると、一連の公演は釧路で終えたのだろうか。道新旭川版や十勝版などを今後確認したい。

4.近江ジンとの写真はいつ撮影?

 近江ジンを囲んだ写真の撮影年月日はいつか? これだけの歌手らが服部良一と釧路に再び集まる機会があったとは考えにくい。『北海道放送十年』(1963年)によると、1959年11月に日立コンサートというイベントで服部良一が釧路に来ている。また、川端康成編『湖』(1961年)に収録された三宅艶子「阿寒湖」には電電公社主催の講演旅行で高木健夫、服部良一、林謙一らと阿寒湖に泊まったとある(年不明)。しかし、これらのイベントや旅行に笠置シヅ子や渡辺はま子、淡谷のり子が同行したとは書いていない。また、笠置シヅ子が1956年に歌手を引退している事実もある。近江ジンとの写真は1953年7月に撮影された可能性が高い。
 では、7月の何日に撮影されたのだろうか。手がかりは、写真に影があり、太陽に照らされていたと思われることだ。釧路測候所の気象観測原簿では、14日の日照時間は8.1時間、15日の日照時間は0.0時間、16日の日照時間は8.0時間である。すなわち、15日に撮影した可能性はきわめて低い。14日の最高気温は18.7℃、16日の最高気温は19.2℃であり、淡谷のり子の服装では肌寒かったのではとも思うが、直射日光に照らされて、つい上着を脱いだのかもしれない。17日は雨や霧雨が降っており、こんな写真を撮れる天気ではなかった。あの写真の撮影日は1953年7月14日か16日と推測する。15日の十條製紙公演終了後の一行の動きが分かれば、さらに絞り込める可能性がある。
 また、一行がどうして近江ジンに会うことになったのか。雑誌『詩学』の1953年5月号に「ヴギの服部良一が詩の作曲に興味をもっているとかで、先日、その一つとして石川啄木の『馬車の中』を放送していた」とある。北海道にやってくる直前のことだ。啄木に関心を寄せていた服部良一が近江ジンに会いたいと頼んだのかもしれない。

5.急行まりも

 一行が札幌から釧路に行くのに乗った「急行まりも」を日本交通公社の1953年4月の時刻表で調べてみると、今では考えられない長距離列車だったことが分かった。
 「急行まりも」は15時20分に函館を発つ。特別2等車、2等車、3等車、2等寝台車、食堂車を連結している。軍川、森、八雲を経て長万部に17時42分に到着する。ここから海線ではなく山線に入る。倶知安、余市、小樽を経て、札幌着が21時16分である。札幌を21時30分に発ち、江別、岩見沢、美唄、砂川を経て、滝川に23時15分に着く(石勝線はまだない)。そして、赤平、芦別、富良野、金山、落合、新得、帯広、池田を経て、釧路着が7時55分であった。釧路からは普通列車に変わり各駅に停車する。最終駅の根室着は12時11分、始発の函館から約21時間も要する長距離列車であった。札幌から釧路だけでも10時間半もかかっている。
 いくら寝台があったといえ、売れっ子芸能人一行なら昼間の特急に乗ればよかったのでは、と感じるが、当時、札幌から釧路行きの列車は日に3便しかなかった。朝の6時38分発の普通列車に乗ると、釧路に19時20分に着く。22時25分発の普通列車に乗ると、釧路に11時47分に着く。それらよりは寝台車や食堂車が付いている「急行まりも」だったのだ。
 飛行機にしても、定期便が飛んでいるのは千歳、三沢、羽田、小牧、伊丹、岩国、板付だけで、羽田・千歳は1日1往復だった(週に1便だけ三沢経由)。
 東京からも札幌からも釧路は遠かった。それを乗り越えてやってくる有名芸能人は大歓迎を受けたにちがいない。

日本交通公社北海道支社『1953年4月時刻表』


6.サインの謎

 笠置シヅ子と釧路の謎は残されている。笠置シヅ子と織井茂子のサインは1949年に書いたとされるが、釧路に来た証拠が見つかっていない。また、『十條製紙工場三十年史』によれば、1952年にも十條製紙娯楽場で笠置シヅ子が公演したという。これらの謎の究明は今後の課題とする。


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