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第4章 続々々 笠置シヅ子は釧路に来たのか? 

1.釧路市図書館からの返答

 「続々 笠置シヅ子は釧路に来たのか?」では、笠置シヅ子が1948年7月に小樽電気館、奔別炭鉱、札幌東宝、函館公劇で公演していたことを明らかにした。そして、足取りが不明となっている18日から26日のどこかで釧路に来ていたのではないかと推測し、釧路市図書館に所蔵新聞の調査を依頼した。
 その返答がやってきた。7月の北海道新聞釧路版のうち、1日~12日、18~19日、24日、31日を所蔵しておらず、また、所蔵している範囲では、笠置シヅ子に関連するのはレコード「ヘイヘイブギ」の広告のみだという。残念な結果となった。
 

2.あの写真は1953年撮影では?

 前回も書いたように、国会図書館デジタルコレクションで「笠置シズ子」と検索すると、2184件もヒットする。北海道に関係した記事を絞り込むべく、「著者・編者」に「北海」と入れてみる。すると、『北海道放送十年』(1963年)がヒットした。年表の1953年7月欄に「函館局開局記念芸能祭(1日・函館)服部良一、笠置シズ子ほかのステージ」とある。1953年にも笠置シヅ子は北海道に来ていたのだ。服部良一も同行している。函館から札幌、さらに釧路に足を伸ばしていないだろうか。新聞を調べることにした。

 まずは札幌版である。7月1日から順番に追っていく。7日まで来て、手が止まった。これまで見てきたよりも、はるかに大きな広告が載っている。「作曲王 服部良一 2000曲完成記念 特別大公演」「歌謡界の花形 服部一門総出演に 絢爛華麗 歌の祭典開く」とある。出演者は服部良一、笠置シヅ子、服部富子、淡谷のり子、渡辺はま子ら。2024年5月29日付の北海道新聞釧路版で紹介された写真の面々ではないか。これだけの有名歌手たちがそろって何度も来道したとは考えづらい。写真には「昭和25年」とメモされているらしいが、1950年は笠置シヅ子や渡辺はま子が渡米しており、あんな薄着の季節に釧路に来た可能性はない。1953年が正しいのではないか。

1953年7月7日付北海道新聞札幌版

 8日付、9日付、10日付と連日、大きな広告が出ている。7月10日から13日まで、札幌の大映劇場で、1日3回公演だった。9日付の広告には「灰田勝彦特別参加決定 服部先生の特別公演の為札幌のみ出演」とある。つまり、札幌以外でも公演したということだろう。
 当時の新聞には「航空往来」という欄があり、飛行機で札幌から東京へ行った人、東京から札幌に来た人が毎日の新聞で報じられている。現在では考えられない。それだけ飛行機は珍しく、また、それに乗ることが社会的地位の高さを示していたのだろう。8日付の「航空往来」の「7日 東京-札幌」に渡辺はま子、11日付の「10日 東京-札幌」に灰田勝彦の名がみえる。

1953年7月8日付北海道新聞札幌版 前日に渡辺はま子が飛行機で千歳に来たことが分かる


 11日付には「服部良一氏ら賑やかに来札」という写真入りの記事もある。「『作曲二千曲記念』公演のため十日来札した作曲家服部良一氏をはじめ笠置シズ子、淡谷のり子、渡辺はま子さんらが来道、あいさつに同日、本社を訪れた。北海道ははじめてという服部良一氏は『もっとゆっくりした日程で方々みたいが残念です。札幌ではなによりもビールを飲みたいです』と語っていた」という。この記事から服部良一が1953年よりも前に北海道に来たことがなかったと分かった。やはり、あの写真が1950年撮影というのは誤りだろう。

1953年7月11日付北海道新聞札幌版 服部良一一行が道新本社に挨拶の記事のとなりに「航空往来」。灰田勝彦の名あり。

 11日付には「『太陽の子』ら大喜び 服部良一ら家庭学校慰問」という記事も載っている。「【遠軽発】HBCの函館放送局開局記念に招かれたのち道内公演中の服部良一、笠置シズ子、淡谷のり子、渡辺はま子さんら一行三十余名は九日午後遠軽劇場の舞台の寸暇を割いて社名淵家庭学校を訪れ同校礼拝堂で四十分間生徒を慰める歌の花束を贈り、大かっさいを浴びた」という。渡辺はま子が7日に千歳に到着し、10日から札幌公演を始めたというのに、その間に遠軽公演を行ったとは、かなりのハードスケジュールである。

1953年7月11日付北海道新聞札幌版

 13日付には「大活躍の灰田勝彦 五-〇で古谷チームに凱歌」とある。12日に大通西7丁目グラウンドで行われた古谷製菓と大映の野球試合に、灰田勝彦が大映チームの一員として参加し、守備ではピッチャーを務め、打つ方も巧打を放った。しかし、古谷チームが勝利し、応援の笠置シヅ子や渡辺はま子がガッカリしていたという。

1953年7月13日付北海道新聞札幌版

 札幌公演のあと、一行がどこで公演したのかは分からない。20日付の「航空往来」の「19日 札幌-東京」に服部良一の名を確認できる。

1953年7月20日付北海道新聞札幌版 19日に服部良一が東京に戻ったことが分かる


 この公演から3か月さかのぼった4月7日付の道新に予告記事が出ているのも見つけた。服部良一2000曲記念公演は東京の日劇で行っており、それを北海道で再現する計画だった。残念ながら、道内の公演予定地までは書いていない。服部良一『ぼくの音楽人生』(1982年)によると、大阪でも同じ公演を行い、千秋楽で女性歌手たちがOSKに代わってラインダンスを披露したという。北海道公演については書き残していない。
 

3.釧路に来たのか?

 1953年の笠置シヅ子らの足取りは以下の通りである。
 7月1日…HBC函館局開局記念芸能祭。笠置シヅ子・服部良一が参加。
 7月7日…渡辺はま子が羽田発千歳行きの飛行機に乗る。
 7月9日…遠軽公演。服部良一・笠置シヅ子・淡谷のり子・渡辺はま子が参加。
 7月10日…灰田勝彦が羽田発千歳行きの飛行機に乗る。
 7月10日~13日…札幌大映で服部良一2000曲作曲記念公演。服部良一・笠置シヅ子・淡谷のり子・渡辺はま子が参加。
 7月12日…札幌で野球試合に参加。
 7月19日…服部良一が千歳発羽田行きの飛行機に乗る。

 7月14日から18日に一行がどこにいたのか掴めない。しかし、近江ジンを囲んだあの写真が残っているのだから、釧路に来ていたはずだ。いま、道立図書館は改修工事中のため、道新釧路版のマイクロフィルムを閲覧できない。そこで、道立図書館のレファレンスサービスにこの期間の道新釧路版を確認してもらえないかと依頼を出した。ところが、1953年7月から12月は欠落しているという。1948年7月に続いて、どうして肝心な時期のマイクロフィルムがないのか。今回も、釧路市図書館のレファレンスサービスを頼ることにした。次こそ、良い結果を期待する。

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