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笠置シヅ子は釧路に来たのか?

1.気になる記事

 2024年5月29日付の北海道新聞釧路版に「笠置シヅ子さん来釧の謎」という記事が出た。1949年に釧路市の老舗蕎麦店「竹老園東家総本家」で書いたとされるサイン、1950年に近江ジン(石川啄木と懇意だった釧路の元芸者)を囲んで撮影した写真が残っているが、どちらの年も釧路での公演記録がないという。1948年に「東京ブギウギ」を発売した笠置シヅ子は当時、人気絶頂期にあった。東かがわ市歴史民俗資料館の調査では、1949年については釧路どころか、北海道での公演記録もないらしい。1950年の写真には、「知人岬にて 渡辺はま子さん、淡谷のり子さん、服部良一さん、ジン、笠置しづ子さん、服部夫人」と説明が付けられているが、この年についても、釧路公演の記録は見つかっていないという。
 こういう記事を見ると、挑戦された気になる。1949年と1950年に笠置シヅ子は本当に釧路に来たのか。
 

2.1949年の笠置シヅ子

 すぐに思いついた手がかりは札幌市図書・情報館の「パソコンで読む北海道新聞」である。『地方史のつむぎ方』第34章に書いたように、この図書館では、明治以降の北海道新聞のデジタル画像のOCR検索が可能である。札幌本社版しか収録されていないのは残念だが、戦後間もない頃なら青函連絡船を使っただろうから、札幌でも公演したのではないか。検索期間を1949年に設定し、「笠置シヅ子」「笠置」「シヅ子」などと検索したところ、数件がヒットした。

北海道新聞1949年8月15日付

 8月15日付の「今日の映画と演劇」欄に、「実演 笠置シズ子と楽団クラックスター 小樽電気館」との案内が出ている。17日にも「実演 笠置シズ子 小樽電気館」とある。北海道公演の記録もないというが、新聞に載っているではないか。「シズ子」表記がおかしい気はするのだが。ひょっとして、「美空ひはり」「エノケソ」「野呂五郎」のたぐいか? しかし、30日付の紙面には「本日限り! 颯爽 笠置シヅ子と踊る益田隆 松竹座」という記事がある。益田隆は笠置シヅ子と組んでいた舞踊家らしい。となると、やはり本物の笠置シヅ子だろう(『大映ファン』1949年11月号によると、「シズ子」「シヅ子」表記が混在していた)。松竹座は札幌のススキノにあった映画館である。その3日前、27日の紙面には「笠置シズ子とクラシックスタア 本日より 松竹座」という記事もある。1日3回、30日まで4日間と案内されている。30日の紙面には、1面の題字の下に「第3回50万円プレゼントショー 9月1日正午 札幌市松竹座 笠置シズ子他出演多数」と大きく掲載されている。東邦生命の主催で、1100名を入場させたようだ。

北海道新聞1949年8月30日付

 図書・情報館で見つかった記事はこれだけである。しかし、1949年に笠置シヅ子が北海道で公演したことは分かった。8月15日と17日の小樽、27日~30日と9月1日の札幌公演の前後に釧路に足を伸ばした可能性がある。釧路でも公演したなら、新聞に載っているのではないか。

 こんどは、釧路の新聞を確認することにした。北海道新聞釧路支社版のマイクロフィルムは道立図書館に所蔵されている。この時期のマイクロフィルムは、北海道新聞自身が制作したものではなく、プランゲ文庫(1945年から1949年までのGHQによる検閲出版物コレクション)である。『地方史のつむぎ方』第29章に登場していただいた谷暎子さん(児童文学史研究者)が、アメリカでプランゲ文庫の児童文学書を整理していたときに、国会図書館から新聞の調査に派遣された人がいたと話している。その人たちの尽力のおかげで、現在、道立図書館で我々が簡単に閲覧できる。ありがたいことだ。検索はできないが、8月と9月に絞れたのだから、確認は容易である。ところが、紙面を追っても、笠置シヅ子の名がまったく出てこない。7月は? 10月は? 範囲を拡大する。東北海道新聞という別の新聞にも当たってみる。しかし、名はない。公演の案内は色々とあるのだ。タップの女王、浪曲師、郷土のスター、女子プロ野球、大相撲巡業など。知名度が劣ると思われる人たちも紹介されている。笠置シヅ子がもし釧路で公演していたなら、かならず取り上げられているはずだ。5月1日から10月14日までの紙面を調べたが、記事は見当たらなかった。

 除雪体制も十分でなかった時代、北海道に来るとしたら、春から秋だろう。また、連絡船の時代に、年に2回も北海道公演に来るのは考えづらい。4月以前と10月15日以降の記事は見ていない(プランゲ文庫の10月15日以降のマイクロフィルムは存在しない)が、1949年に笠置シヅ子が釧路で公演した可能性は低いのではないか。釧路に来たとしても、プライベートだったと推測する。
 笠置シヅ子は8月中旬から9月初旬まで北海道に滞在していたようだが、小樽・札幌以外の足取りは掴めない。プランゲ文庫には、その他の地方版も収録されている。もっと釧路に近い街、たとえば、帯広で公演していないものか。調べる価値はありそうだ。
 なお、一緒にサインしたという織井茂子についても、札幌市図書・情報館の「パソコンで読む北海道新聞」で検索してみたが、北海道に来た記録は見当たらなかった。
 

3.1950年の笠置シヅ子

 札幌市図書・情報館の「パソコンで読む北海道新聞」の検索では、1950年に笠置シヅ子が北海道に来た記録は見つからなかった。

 しかし、1950年の写真には、ほかにも写っている人がいる。淡谷のり子はどうだろう。こちらは北海道に来ていたことが分かった。9月8日付の広告欄に「アゼリア会員希望音楽会 淡谷のり子・小夜福子・太田朝子・藤野城行 大挙来演 素人のど自慢大会開催」と大きく載っている。化粧品会社のキャンペーン公演である。13日函館、15日札幌、16日小樽、17日旭川、18日岩見沢、20日北見、22日室蘭と道内各地を巡業している。釧路の名はない。

北海道新聞1950年9月8日付

 だが、この前後に淡谷のり子が釧路で公演した可能性はあるのではないか。そこに笠置シヅ子らがプライベートでやってきて、近江ジンに会った可能性がないか。1950年はGHQによる検閲がなくなっており、プランゲ文庫は使えない。北海道新聞が釧路版のマイクロフィルムを制作しているのは1951年からである。この年は狭間にあたるため、紙面を見ることがかなわない。

 ほかの手がかりを探すことにした。『地方史のつむぎ方』第34章で書いたように、朝日・毎日・読売新聞は、この時代の記事をキーワード検索できる。小林昌樹さんの『調べる技術』に、より詳しく紹介されている。こちらを頼ってみよう。読売新聞のヨミダス歴史館で笠置シヅ子と検索すると、1950年6月17日付の記事が目に止まった。「羽田空港を発つ笠置シヅ子」と写真入りの記事がある。6月16日に服部良一らとアメリカに飛んだと書いている。

読売新聞1950年6月17日付

 では、いつ帰国したのか。こちらも記事になっていた。10月18日付の記事に「笠置シヅ子帰る」とやはり写真入りで報じられている。「約四ヶ月にわたって全米をブギ行脚していた笠置シヅ子さんと作曲家服部良一氏ら一行四名は十七日夜十時四十五分空路羽田に帰ってきた」とある。つまり、淡谷のり子が北海道に来ていた9月には、笠置シヅ子はアメリカにいたのだ。

読売新聞1950年10月18日付

 写真には渡辺はま子も写っている。この人は1950年はどうしていたのだろう。ヨミダス歴史館で検索すると、なんと彼女もアメリカに渡っている。4月5日付の記事で、小うた勝太郎、佐藤けい子、渡辺はま子が4月7日に羽田を発つとある。帰国したのは7月6日である(7月7日付読売新聞)。

読売新聞1950年4月5日付

 つまり、この年、渡辺はま子と笠置シヅ子がそろって日本にいたのは、4月7日以前と10月17日以降である。知人岬で撮影したという写真をあらためて見てみる。近江ジンは着物、服部良一は背広だが、あとの女性たちは薄着である。淡谷のり子は肩まで出している。1950年に釧路に来たというなら、いつなのか。気象庁ウェブサイトで、4月の釧路の気温を確認すると、7日までの最高気温は10℃未満が続く。10月17日以降の最高気温も連日15℃未満である。こんな軽装はありえない。この写真が1950年撮影とは信じられぬ。

4.結論

 1949年8月から9月にかけて笠置シヅ子は小樽と札幌で公演している。そのついでに釧路に足を伸ばした可能性は否定できない。しかし、釧路公演の記録は見当たらない。釧路に来たとしても、公演ではなくプライベートの旅だったのだろう。
 一方、1950年に笠置シヅ子や服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子が釧路に来て、近江ジンに会った可能性は、面々の渡米記録から考えると、きわめて低い。とはいっても、写真は存在するのだから、撮影年のメモが間違っているのだろう。

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