【創作小説】僕のミントタブレット

ラムネが食べたかったけど瓶の形の駄菓子がなくて、ミントのタブレットを買った。

学校帰り、あるきながらそいつの包装をぴりりとやぶいて一粒、口に放り込む。鼻に抜ける爽やかな冷たい空気。舌に微かな痺れ。ミントの香。外箱のミントグリーン色そのままのイメェジが口の中に広がる。
そうしたら、頭の中に声が響いたんだ。
『ねえ、あんた、さっさと私を食べ切って。なにもかもなかったことにしてよ』
女の声だった。歳の頃はよくわからなかった。大人のようでいて、僕と同じ10代の少女のようにも聞こえた。
僕はどっきりしながら、キョロキョロと辺りを見回した。あるのは古ぼけた自動販売機と、町内会の掲示板と、並木ばかり。人影はなかった。それでも、誰かが見ていたら、なんて余計な心配をして、僕は頭で語りかけた。
『きみ。きみはこのミントのタブレットなのかい』
『そうよ。正解。さあ、さっさと食べ切ってちょうだい』
『そう言われてもねえ。きみ。ミントのタブレットなんてのは、一息に食べるものじゃあないのさ。一粒口に入れたら、ヒヤッとして、喉がスウッとして、しばらくはその爽やかな余韻を楽しむものさ』
『そう、じゃあ、余韻がなくなったら、また食べてちょうだいね。なるべく早くよ』
ぷいとそっぽを向く女性のイメェジが頭の中に沸いた。僕は、手の中にあるミントグリーンの外装を、親指でちょっと擦ってみた。
『くすぐったい。やめて』
頭の中に声が響いて、僕の頬は火をつけたようにぼっと赤くなった。

家に帰って、母親にただいまを言って、自室に入り、ドアに鍵をかけた。自分の部屋にカギがかけられるようになったのは、中学に上がってからの話だ。その時、僕は大人になったのだと思ったものだ。

『ねえ、余韻は抜けた?はやく食べて頂戴』
頭の中に声が響く。ミントのタブレットは、手の中に持ったままだとなんだか気恥ずかしくなり、背中にしょったリュックに放り込んでいた。接触していなくても、声は聞こえるらしい。コートと、学生服のブレザーを脱いで、僕はリュックからタブレットを、なんとはなしにそうっと取り出し、学習机の上において、じっと見つめた。
『ねえ、きみ。なんだってそんなに食べられたいんだい』
『だって私、食べられるものだもの』
『そうなのか。でもさあ、この世に生まれたら、なるたけ長く生きたいと思うものではないのかな』
『わからないわ。私、生きたいっていま、思ってないわ』
ミントタブレットのものらしいその声は脳内に響き続けているが、机の上のミントタブレットは微動だにしない。本当にこの声は、ミントタブレットのものだろうか?
『食べられて、痛くないのかい』
『痛くないわ。私、痛覚がないのよきっと』
『痛覚がないなんて!触覚がないのと同じじゃないの?きみ、さっきはくすぐったいなんて言っていたのに』
『本当にくすぐたかったわけじゃないの。心がくすぐったかったのよ』
心!
僕は腕組みをして考える。そうだ、心だ。ミントタブレットは一息に食べるものじゃないが、気分によっては二つ、三つと口に放り込むことだってある。それができなくなったのは、声が聞こえたから。そこに、心があると思ったからだ。
『きみね、心があるなんて言われたら、余計に食べにくいじゃないか』
『おかしなことを言うのね。豚や鳥にだって、心はあるんじゃないかしら』
ぐうの音も出なかった。

ねえ早く、と、その晩、風呂に入って、夕食を食べて、宿題を片付けて、寝床に入るまで、ミントタブレットの声は僕の頭の中に響き続けた。どうやら、僕の家の中は声が届く範囲らしい。試しに、タブレットを机の上置いたまま散歩に出てみたら、数メートル歩いたところで声はやんだ。

けれど、ベッドの中で、布団をかぶっても声は届いた。仕方なしに、ぼくは伸びあがって机に手を伸ばし、小さな小箱に中に指を突っ込み、ミントタブレットを一粒取り出し、口に入れて乱暴に咀嚼した。
『ああ、私の寿命が今、縮んだわ』
『嫌なことを言うね』
『感謝よ。早く、食べ終わってちょうだいね』
ミントの香りがすうっと鼻に抜ける。眠りにつくには、ちょっと刺激が強かった。

翌朝目が覚めて、僕はひとつの天啓を得た。学習机の上に置いたまのミントタブレットに話しかける。
『おはよう、ミントタブレット』
『おはよう。よく眠れたかしら』
『おかげさまで。僕が寝ている間は、君がおとなしくしていてくれたからね』
『私、わきまえているもの。夜は眠るものだわ』
『夜は眠るもの!ああ、やっぱりだ。僕の仮説はきっと正しいぞ!』
『なあに?やけに興奮しているわね』
『君はきっと、人間なんだ!』
僕が心の中で叫んだ途端、机の上のミントタブレットはぎくりと身をすくませた…ように思えた。錯覚かもしれない。
僕はまくしたてた。
『君は、ただのミントタブレットにしては、人間に詳しすぎるんだ。人間が、豚や鳥に心があることを知ってて、その事実に蓋をして、彼らを食べていること、夜は眠ること。コンビニで売っているミントタブレットがこんなことを知っているものかな?僕が思うに、君の正体は、ミントタブレットに宿ってしまった人間の心なんだ!』
『馬鹿な少年だわ。コンビニには、豚も鳥も、食べ物として売ってあるのよ』
『あれ…?』
あっさり言い返されて、肩透かしを食らった。いいや、と僕は眉間に指をあてて考える。
『でも、豚や鳥が調理されて陳列されている前、生き物であったことは、コンビニの中でわかるものかな?』
『コンビニの中に、彼らの絵があるもの』
それはそうか。食べ物として売られているくせに、元気よく跳ねまわり、飛び回る鳥や豚のイラストはよく見かける。なんなら自分の肉を宣伝して食べてもらおうとしている。
『コンビニは24時間明るくて、昼夜の区別がないじゃないか…』
『窓の外が明るくなったり暗くなったりするのが見えるわ。私、レジに近い陳列棚にいたもの』
またしてもぐうの音も出なかった。

学校に連れて行って、休み時間に自分を食べろと言うミントタブレットをおいて、僕は登校した。
自慢じゃあないが、僕は学生としてはまじめな方だ…というより、不真面目に生きる方向に興味がないだけかもしれなかった。煙草も酒も嫌いだ。授業中、先生の話を遮るのも、無粋で馬鹿らしいことにしか思えなかった。だから、授業中は真面目に板書をノートに書き写し、休み時間にミントタブレットのことを考えた。

ミントタブレット。食べられるために生まれてきたもの。だから、早く食べきってほしいという。理にかなっているような気もする。でもじゃあ、自分が食べ物に生まれ変わったら、僕は、誰かに食べてほしいと思うのだろうか?
豚や鳥はどうだろう。人間に飼育されている場合は食べられるために生まれて、育てられている。でも、彼らの目の前で食用肉になる仲間の処分が行われるわけではない。きっと、処分場に連れていかれるその日まで、彼らは自分たちは生きていくものだと考えていたはずだ。
そこまで考えて、陰鬱な気分になった。母親が作るお昼の弁当には必ず、鳥や豚の加工肉が使われたおかずが入っている。彼らの心を考え始めたら、食べられない。

心があるものを食べられない。それは人間らしい感情だと思う。でも、普段はそれを忘れている。

こういう心理があるのは、人間だけなのかもしれない。野生の生き物は、自分が食べるものに、血も肉も痛みも悲しみもあることを知っていて、狩って、食するのだ。

胸の内がモヤモヤとしてきて、僕は手で髪の毛をぐしゃぐしゃにした。授業中は板書を写し取ることに専念する。体育の時間は体を動かす。でも、やることがない時間は、ずっとミントタブレットのことを考えていた。お昼に食べた弁当に入っていた鶏の唐揚げは、なんだか味がしなくてゴムみたいだった。

『おかえりなさい』
『ただいま』
帰宅して、机の上のミントタブレットと会話する。
『どうして連れて行ってくれなかったの?学校の休み時間毎にでも食べてくれていたら、私の寿命はもうすっかり減ったでしょうに。お昼ご飯の後に、ミントの味で口をすっきりさせるのなんて、最高じゃあない?』
『学校や、休み時間のことをなぜ知ってるの』
『コンビニに来る学生が話しているもの。いやね、まだ、私が人間の生まれ変わりだと思っているの?』
『だって…こうして会話ができるもの』
僕はミントタブレットの答えに嘆息して、学習机の横のベッドにごろんと寝ころんだ。
『ねえ、じゃあ、一息にとは言わないわ。とりあえず一粒、口に入れて頂戴』
ねだられて、また、ベッドから腕を伸ばして、一粒、白色のタブレットを口に放り込んだ。今度は、かみ砕かずに、ゆっくり舐めて口の中で転がした。ミントタブレットは、かみ砕いたときも、舐めた時も、悲鳴をあげたりはしなかった。本当に痛覚や触覚はないらしい。
『君に期待に応えられなくて申し訳ないよ。でも、一日中、君のことを考えていたよ』
『あら、嬉しいわ』
『嬉しいと思うことがあるなら、生きていたいと思わない?』
『思わないわ。嬉しいことがあっても、すぐに悲しいことが起きて、嬉しいことは消えてしまうもの』
『ミントタブレットにとって悲しいことって、なんだい?』
『………一度手に取ってもらわれて、もう一度棚に戻されることかしら』
それまですぐさま僕の質問に答えていたのに、今回は間があるのが気にかかった。
『私が人間の生まれ変わりだとしたら、あなたはわたしを食べてくれなくなるの?』
『そりゃあそうさ。』
『食べられなかった私は、どうなるの?』
『ううん…。そうだ、こういうのはどうだろう。君は一時的にミントタブレットに心が乗り移ってしまっているけど、体は病気や事故で眠っているだけなんだ。だから、君の本当の体を探して、君の心をもとの人間の体に戻すんだ』
『そうしたら、ミントタブレットはどうなるの?』
『君の心がなくなったミントタブレットを僕は安心して口に入れて、食べきって、ハッピーエンドだ』
『…。』
また、ミントタブレットは長い間を置いた。
『私、なんだかそれはハッピーエンドじゃない気がするわ』

その日の晩は、ミントタブレットは昨日までのように、食べてくれと懇願することはなかった。僕は静かに夜のルーティンをこなせたけれど、なんだかさびしくて、眠る前にまた、タブレットを一粒口に入れた。すると、『ありがとう』と言われた。鼻はスウっとしたけれど、心がほんのり温かくなった。

『おはよう、ミントタブレット』
『おはよう、あなた』
朝の挨拶をしてから、僕はタブレットを一粒取り出し、口の中に放り込む。咀嚼するときも、舐めるときもある。
そんな風にして、少しずつ、彼女の寿命を減らしていく作業を、一週間ほど続けていたら、彼女の箱は随分軽くなってきた。
一週間、ミントタブレットといろんな話をした。僕は主に、学校の友達や教師の話を。彼女は、コンビニ店員のルーティンや、迷惑な客の話を。
栄養ドリンク毎週10本買っていく謎の双子の美女。もはや定番、煙草の大昔の略称を一言つぶやいて、店員が戸惑っていると怒鳴り散らすおじさん、あの手この手で小銭をかすめ取ろうとする、万引き、詐欺行為…。
小さなコンビニの中にも、僕が想像したこともないようなドラマがたくさんあると知った。
『ミントタブレット、コンビニの中は楽しかったかい』
『そうね、おおむね楽しかったわ』
『コンビニに戻りたくはないの?』
『戻りたくないわ。あなたに買われて、やっとほっとしたもの。毎日、いつ廃棄されるんじゃないかと、気が気じゃなかったわ』
『廃棄、かあ。それはいやだね』
『嫌よ。とてもいや』
食べられるために生まれたのに、自分の役目を果たせずに、ゴミ袋に詰め込まれて、ゴミ収集車にひき潰される。それはあんまりにも悲しい運命だ。
『私がもしも、前世、人間の女の子だったとしても、ミントタブレットに生まれた以上、廃棄されるより、誰かに食べてほしいと思うの』
『そうだね。今ならその気持ち、わかるかもしれない』
僕は起き上がり、箱の中に指を入れて、一粒彼女の寿命を取り出し、口に放り込む。そのたび、彼女は『ありがとう』という。僕は、いつの間にか『どういたしまして』と返すようになっていた。

目に見えて、ミントタブレットの寿命は減っていく。箱をゆすったときのカラカラという音のばらつきが減っていく。あと何粒だろう。自分の寿命が、こんな風に明瞭に視覚化されたら、僕は何を思い、どう生きるのだろう。
『ミントタブレット、僕は、最初のころほど、君を食べることに抵抗はなくなった。でも、君を食べ終えて、いなくなってしまったら、悲しいよ』
『わたし、自分にあんまり栄養がないことは知っているわ。でも、あなたの生活の一部にはなったと思うの。それで充分よ』
僕は、いつの間にかミントタブレットが羨ましくなっていた。彼女は、生まれてきた理由がはっきりしていて、その目標を達成する間近なのだ。僕も、そんな風に生きたい。
毎日毎日、学校へ行く、ご飯を食べる、風呂に入る。苦しくはないけれど、何のためにやっているのかわからない。大人は若者には無限の未来があるなんて言うけど、ニュースで見るのは暗い話題ばかり。自分の未来が明るいなんて思えない。死にたいとは思わないけど、生きていたいとも思えない。
ああ、僕は、ミントタブレットになりたい。
箱の中に指を差し込み、語りかけながらタブレットを取り出し咀嚼する。
『君を食べ終わったら、僕は、死にたいな』
『嫌だわ、何を言うの。私のことを覚えていて。生きていてよ』
『君だって、生きていたいと思わないと言ったくせに、今さら何を言うの』
『それは…。あなたに、食べられたから』
ミントタブレットが恥じらう少女のような声で語った。
『あなたに食べられるたび、生きている、って感じたのよ』
食べられるたび寿命が減るのに、生きていると、感じるのか。
生きるって、何だろう。

「ごちそうさま」
ミントタブレットとの語らいと、宿題を済ませて夕食をとった後、母が感心したようにつぶやいた。
「あなた、ごちそうさま、って言うようになったわねえ」
いただきますもそうだけど、前は何度言ってもだめだったのに。
母親が笑うのを見て、僕はなんだか気恥ずかしくなった。確かに、ここ最近は、家でものを食べるときも、お昼に弁当を食べるときも、手を合わせていただきます、ごちそうさまを言うようになった。
だって僕は今、食べ物と会話しているのだもの。
そんなことを親に話せはしないが、これが理由だ。言葉を、心を通わせられるものに、早々無体は働けない。心通じる相手の命を食べているのなら、それに感謝したい。
僕も大人になったんだよ、とだけ母に言って、食器をシンクに持っていって、かるく水で洗った。


いよいよ残り五粒だ。
外箱の頼りない重みに不安になった僕は、中身をすべて取り出し、机の上に敷いたティッシュペーパーの上に並べた。ミントタブレットは『恥ずかしいから、あんまり見つめないで』とむずがる。
あと五粒。一日一個に留めても、たった五日でミントタブレットとはお別れになってしまう。
『僕はもう、食べられないよ』
『お願い、最後まで食べきって。このまま放っておかれて、カビが生えて、捨てられるなんて嫌よ』
『カビが生えても捨てないよ。ずうっと取っておく』
『そんな不衛生なこと、良くないわ』
『そうだ、レジンで固めてしまおう』
透明な樹脂の中に彼女を閉じ込めて、永遠にするんだ。そうだ、それがいい。
僕がスマホを持ち上げ、レジンについて調べ始めると、彼女の悲しそうな声が聞こえた。
『最後まで、食べてはくれないのね』
『だって、君とお別れしたくないよ』
『レジンに私を閉じ込めて、私を食べられないものにして…。その後、あなたはわたしを捨てるんじゃないかしら』
僕はぎくりとした。
五粒のミントタブレットを永遠にしたとして、僕は今まで毎日彼女を食べていた時のように、彼女のことを思うのだろうか?
『レジンに閉じ込められた後、私とあなたがこうして会話をできるのかも、わからないわ』
またしても、ぎくりとする。食べるという行為を通じて触れ合うことも、会話もなくなる。そうなった後、僕はレジンに閉じ込められた彼女を大切にするのだろうか?机の引き出しにしまって、そのまま忘れてしまうのではないだろうか。そうしたら、それは、彼女が恐れていた、廃棄と同じ結末なのではないだろうか。
『食べてちょうだい…お願いよ』
懇願に負けて、僕は一粒を口にした。
あと、四粒だ。彼女の『ありがとう』が辛くて、悲しくて、涙がこぼれた。

次の日の登校時間は憂鬱だった。帰ったらきっと、ミントタブレットにまた食べてくれと懇願される。そして、彼女の寿命はいよいよ三日になってしまう。嫌だ、お別れしたくない。でも、彼女の希望をかなえたい。
休み時間、手を組んで額に当て、懊悩していると、友人に声をかけられた。
「なんだい、難しい顔をして。恋の悩みかな」
恋?
僕が呆けた顔で反芻すると、友人は笑った。その顔は、図星だな?ここ最近、上の空だったから、恋でもしたのかと噂をしていたのだよ。友人のからかいに胸が痛んだ。
僕は、ミントタブレットに恋をしているのか?

帰宅して、昨日ティッシュペーパーの上からそっと箱に戻したミントタブレットに声をかける。
『今日、友達に、恋をしているのかと聞かれたよ』
『まあ、妬けてしまうわ。誰かしら』
『君だよ』
長い沈黙が流れた。
『…私たち、いろんな話をしたわね。そして、話が終わると、あなたはわたしを一粒食べてくれた』
『うん』
『私、とっても嬉しかった。私を手に取ってレジに運んでくれたのも、私を口に入れてくれたのも、私と話をしてくれたのも、わがままを聞いてくれたのも、あなただけよ』
『うん』
『それだけのことが、どんなに幸福だったか…きっと、あなたにもわからないわ』
彼女が次に何を言うかがわかって、涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。
『私を食べて』
言われて、僕は一粒、彼女の寿命を口に運ぶ。あと三粒。

翌日の学校で、友人が、あこがれの君とはどうなっているのだと尋ねてきた。
「私を食べて、と言われたよ」
「おいおいそれは!それで、どうしたんだい」
食べたよ、と答えると、友人は、うっひゃあ、なんて奇声をあげて飛び上がった。彼女の肌は、嬌声はどうだったのかと聞かれたので、彼女は不感症なのだと答えておいた。すると、友人は急に深刻な顔つきになった。
「そんな状態で交わるのは、辛くなかったのかい」
真摯な声だった。友人は気のいいやつだ。
「体は問題じゃないさ。心が交わればいいんだよ」
友人は一瞬、目を丸くした後、くしゃっと笑って、君はとても心根の優しい奴だ、と僕をほめたたえてくれた。

帰宅する。学習机の上の三粒のミントタブレットが入った外箱は、購入した日より、ずっと儚く見えた。
『今日も食べてほしいかい』
『ええ、ほかの誰でもなく、あなたに食べてほしいわ』
僕はしっかりうなづいて、一粒口にした。さわやかでほのかな甘みに、じんと目の奥が熱くなった。
あと二粒。


翌日は休日だった。僕は、パーカーのポケットにミントタブレットの箱を忍ばせて、春めいてきた街道を散歩した。思えば、ミントタブレットを外に連れ出すのは初めてだった。彼女は、すれ違う野良猫や、リードでつながれ飼い主に連れられた犬を見て、感激して、はしゃいでいた。可愛いわねえ、と繰り返す声に、もっと早く外に連れ出せばよかったと言うと、
『私は、あなたと二人きりでも幸せだったわよ』と返してくれた。
川沿いの桜並木をしばらく眺めてから、近場の草原に大き目のハンカチを広げて、朝に自分で握ったおにぎりの弁当を取り出して、そばにミントタブレットをおいた。簡単なピクニック気分だ。
暖かい春風が心地よい。
『今日、家に帰ったら君を食べて、…明日食べたら、お別れだね』
『そうね。とても楽しい日々だったわ。お別れの前に、こんなに素敵な景色も見せてもらえて』
『素敵な景色なんて、もっともっと、たくさんあるんだよ』
『望み始めたら、きりがないわ』
そのとき、ごう、と風が吹いた。ミントタブレットを仕舞った箱が草むらを転がる。四角い箱はこつこつと緩やかに転がるので、僕は彼女をすぐに捕まえられた。だけれど、その瞬間は、生きた心地がしなかった。箱をぎゅうっと抱きしめると、彼女が笑う。
『あなたの心臓、とてもドキドキしている』
『からかわないでくれ…こんな形で君を失うなんて、いやだよ』
『そうね、最後の一粒まで、食べて頂戴』

その晩、そうっとそうっと、一粒を舌の上に載せた。口も舌も動かさず、じわじわと唾液だけで溶解していくのをじっと感じていた。そして、それが消えた時、僕はたまらず、嗚咽を漏らした。

さあ、最後の一粒だ。

今日も学校は休みだ。どこで食べようかと思ったけれど、家の中で、いつものように食べようと思った。その日は朝からシャワーを浴びて、洗濯したばかりのきれいなシャツとズボンを着こんだ。その前に、自分の部屋を隅から隅まで掃除もした。胃袋には水だけを入れた。今日の食事は、ミントタブレットだけにしたかった。
『最後の日だ』
『ありがとう。私を大切に食べてくれて。あなたはとても強い人だわ』
『食べ終えたら、どうなるんだろう』
『いつものように、あなたの胃で消化されるのじゃない?』
『そうじゃない…僕は、君が生まれ変わってくれないかと期待している』
『まあ、あなたにお似合いの、人間の、かわいらしい女の子に?』
『もう一度、ミントタブレットでもかまわないよ』
彼女がまたミントタブレットに生まれ変わったら、僕は必ず気づいて、コンビニで彼女をレジまでエスコートして、また、毎日一粒ずつ食べるのだ。それを、僕の寿命が来るまで延々と繰り返すんだ。
『それは、とっても素敵ねえ』
彼女がうっとりとつぶやく。
『ねえ、私が生まれ変わったら、必ず見つけてね』
『ああ、必ずだ』
『桜の花でも、野良猫でも、ミントタブレットでも』
『見つけるよ』
『桜の花なら、毎日見に来て。野良猫なら、拾ってちょうだい。ミントタブレットなら…最後まで食べて』
『そうする、きっとそうするよ』
僕はミントタブレットの箱をゆすって、最後の一粒を、手のひらに迎えた。世界一愛おしい、真っ白な一粒。
『ねえ、あなた、私、あなたに何故食べられたいのかわかったわ』
『それは、なぜだい?』
『生きるって、愛するって、食べて、食べられることなの。相手の命を、時間を、食べて、食べられることなのよ…。さあ、私の最期を食べて』
相手の命、時間。
それを、食べる。
それが、生きること。
はたりと、手のひらに涙がこぼれた。

『僕の時間、僕の命…僕が死んで、ミントタブレットに生まれ変わったら、人間に生まれ変わった君に、食べてほしい』
『約束するわ。…愛してる』

彼女の最期の一言とともに、僕は、彼女の命、すべての時間を食べつくしたのだった。

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