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生まれる

良いことか悪いことか、あるいはそこに善悪があるのか、何もわからないけれど、私は自分が書いた文章を読み返すことがある。

記録としてつけている日記を読み返すのと同じ行為だと捉えれば、別に変なことでもなんでもないのかも知れない。

そんなわけで、今日は自分が去年書いた文章を読み返した。

去年、家族を一人亡くした。大事な存在だった。ずっと病気だったから、いつかそんな日が来ることはうっすらと意識してきた。

いざ居なくなってみると、あの人は消えてなくなって、見えなくなって、ゼロになった。新しい思い出を作ることはできなくなった。あの人の存在を『失った』と思った。

実際にそうだった。確かに骨壷に骨は入っているかも知れないけど、あの人はもういない。大きな背中を見ることはない、声を聞くことはない、料理を食べることもない。消えたのだ。

心に穴が空いたと、去年の私は言っていた。大きな穴が。でも、近頃、なんだか違うような気がしてきた。あの人が消えたことで自分の中に何もない空洞を抱えたと思っていたが、そうではない。そのことを思い知らされるようになった。

考えてしまうのだ。
あの人の姿を、声を、手料理を。

私は今、現実の世界で、小さなキッチンに立ってゆで卵を茹でている。たったそれだけなのに、私の心はここにはいなくて、ずっと昔、あの人が準備していた朝食に添えられた、あの人が作ったゆで卵のことを考えている。

硬く茹でられたゆで卵は、好きではなかった。黄身がホロホロと崩れるから。

私の手の中のゆで卵は、柔らかい。私は半熟のゆで卵が好きなんだよと伝えたことは無かった。

あの人は死んで、心臓は止まって、肉体は灰になって、残ったのは乾燥した骨だけなのに。あの人の声はもうしなくて、言葉は紡がれなくて、私の記憶の中で色褪せて解像度を下げていくくせに。なのに、私の頭の中から消えない。

店先のお菓子を買う時、あの人が好きだった菓子を見つける。『何か買って帰ろうか』と連絡する時、これはあの人が使っていた言葉だと気づく。半熟のゆで卵を作る時、固茹での綺麗な卵を思い出す。

日々の生活の中で、あの人の影を追っている。影を見つけるたび、私の心に傷がつく。苦しいことなのに、やめられない。自傷行為にハマるのは、こんな感じなのだろうか。

私は今になって気付かされている。

あの人の存在を失って、それと同時に『生まれた』もののことを。

私の中から消してはいけないという義務。
私が覚えておかなければならないという責任。
忘れてしまったらどうしようという恐怖。

私は毎日、傷ついた心から血を流しながら、あの人をこの世に繋ぎ止めようとしている。

誰かが、もう無理なんだよと言えば良いのか。そんなことをしても帰ってくることはないのだよと言って現実を突きつけて、忘れることはいけないことではないと、私を赦してくれる存在が欲しいのか?
いいや、まだそれには早すぎるような気がする。

私は普通の毎日を送っているつもりだった。でも、心の中で未練がましく何度も何度も思い出して、すがって、ここにいてくれと泣き叫んでいる。

時間が経つほどに、私の中に生まれたものが芽吹いて大地に根を下ろしていく。あの人を忘れたくないから。忘れることは許されないことだから。そうやって、私の中に巣食うものが、今日もまた少し大きくなっていく。

ふと、他にも生まれたものがあると気づく。

怒りだ。
あの人のことを繋ぎ止めるという義務を、いつか放棄するかも知れない未来の自分への怒りだ。そして、あの人が死んだという、変えられない事実への怒りだ。このどうしようもない感情が、鋭い棘をもつイバラのように枝を伸ばしてまとわりついて、私の心を傷つけ続けている。

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