また会う日まで

人の死が、自分にとってこんなにも辛いことだとは思わなかった。
真の喪失を目の前にして、私の心はどう対処すれば良いのか分からずにいる。どこに着地できるのか、どこに留まればいいのか、何も分からないままふわふわと宙を漂い続けている。

筆舌に尽くし難いこの気持ちをどうにかこの世の言葉に乗せようとするが、結局のところ辿り着くのは淋しさだ。こんな言葉では何も足りないのに。

死が、彼の人あのひとをこの世から別ちた瞬間。私の心の隅で産声を上げたこの淋しさは、あまりに生々しくて直視できない代物である。何時間、何日、何週間が経っても消えない。どこで何をしていても私に纏わりつく。

自分の周りで生じる事柄に対する『正』の心の感度が落ちたような気がする。酷く目の粗いふるいにかけているように、ワクワクやドキドキが流れ去っていく。これを心に穴が空いた、と表現するのかも知れない。
その代わりとでも言うように『負』の心の感度は絹糸を重ねた目の細かさである。在りし日の写真を見返すと、勝手に目が潤みボロボロと涙がこぼれるのだ。誇張ではない。
この先何ヶ月経っても、何年経っても変わらないのだろうか。変わってほしいようで、変わってほしくないようにも思う。

もう、何をどう足掻いても会えない人がいる。
再び会える可能性は、この世界の隅から隅まで探し尽くしてもゼロのままだ。
どれだけの地位を手にしても、億万長者であっても、不労所得で悠々自適な時間があってもダメなのだ。砂漠の砂つぶの数を全て数え切っても、無理なのだ。
過去の人々が不老不死を求めたその欲を、私は笑うことができない。

世の中に絶対は無いという人がいる。自分もかつてそう信じた。人は空を飛ぶし、白黒だった世界は色づくし、人が想像し得るものはいつか叶うのだと。

死を前にして、それが嘘だと知った。死は全ての可能性と望みを消し去る『絶対』であると。

人間が、自分の部屋に現れた小さな蟻を害虫と見做して踏み潰すのと同じたやすさで、この心は絶望に潰された。そして剥き出しの淋しさだけが残る。
彼の人の存在は完全に失われ、この先なにかに代替されることはない。
世間は何を失ったわけでもないが、私にとってこの喪失はいつまでも本物である。

永遠の別れは、世の中のあまねく人々が経験してきたことであると理解している。だがそれは理性が理解しただけである。わずかに触れただけで激痛が走るような淋しさが、私の心から消えることはない。

世界は情け容赦なく前に進んで行くのに、この心は喪失の瞬間に繋ぎ止められたまま。過ぎゆく時間は確かにこの痛みを鈍くするが、事実を変えるわけではない。
置いていかれる。誰も振り返ってなどくれない。

また会う日まで。
その言葉に縋るすがる

これは真っ赤な嘘なのだ。また会う日は来ない。
でも、儚い言葉が持つ一縷いちるの望みを自分に信じ込ませなければ、既に潰されたこの心が、遂に跡形もなく消え去るだろうということが、嫌というほどはっきりと分かるのだ。

また会う日まで。元気でね。

私の心で悲痛な叫びを撒き散らす淋しさに触れるたび、聞き手の居ない言葉を呟き続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?