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Twitterで見つけた、リアルでは会ったことのない人の言葉だけど、そこに本物を感じたというわけ。

「いつか絶対」

この言葉に、初めて重みを感じた。

誰でも口にできる、簡単な言葉である。言葉の意味をそのまま捉えるなら「(時期さえ合えば)必ず」という固い意志を示すはずなのに、多くの場合は「(うーん、まあ……)そのうち」という消極性を含んだ状態でこの世に放たれる。

いつか絶対、会いに行くね。
いつか絶対、見たいものなの。
いつか絶対、なってみせる。

いつか絶対という言葉を、ぽんぽん吐いてきた気がする。ほとんど何も考えずに、「そのうち」の類義語として使ってきた。

社交辞令にしたつもりはない。

「いつか絶対、会いに行くね」とある人に向かって言ったその時、その瞬間には、時期さえ合えば本気で行くつもりでいた。楽しい時間をまた一緒に過ごしたかったし、その人のことを本当に重要だと思っていたから。でも今振り返ってみると、あの時の「いつか絶対」は、結局のところ「そのうち」であったことに気付く。

私の中で「いつか絶対」の価値はずいぶん落ちた。誰にでも言うし、ためらいなく言う。安価な量産型の言葉になっていることに、ふと気付く。そんな中で、とても高級な「いつか絶対」に出会った。見かけたのはTwitterだった。でも、この人の言う「いつか絶対」は本物だった。

叶えるべき目標を捉えたことが、画面のこちら側に居ても分かった。のんべんだらりと暮らしている人間には醸せない、殺気にも似た情熱をたった5文字の言葉から感じた。さながら獲物を視認したハンターであった。この先、その目標を決して手放すことなく、人里離れた山奥に分け入ることも、凍えるような寒さにも耐えることも厭わず、求めた場所に達成するだろう。

この人の「いつか絶対」は、もはや「(時期さえ合えば)」という括弧書きをも取り払った、純粋な「必ず」であるのかも知れない。この人は何がどうなってもその目標を達成するであろう、と納得せざるを得ない。

小説の涙ぐましい場面に添えられる、今にも折れてしまいそうな「いつか絶対」とは違う。壮大な映画の冒頭で主人公が語る、現実離れした「いつか絶対」ともどこか違う。本物の「いつか絶対」を見つけた。それが叶う場面に立ち会いたいとさえ思った。きっと、神々しく輝いているだろうから。

太刀打ちできない気迫に、私の哀れで小さな「いつか絶対」が、情けない鳴き声を上げながら巣穴に戻っていくのが分かる。

世の中にはこんな人がたくさんいるんだよ。

巣穴の入り口で、残酷な事実を告げることくらいしか私にはできない。あらゆる分野に対して本物の「いつか絶対」を抱く人がいる。だから、今までのべつ幕なし吐いてきた「いつか絶対」などでは話にならない。そんな事実を突きつけられた。そして、安価で量産型である私の「いつか絶対」を、少しでいいから価値あるものにしたいと思った。

今から、ちょっと生産量を減らそうかな。それが、第一歩になると信じて。

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