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指先の記憶

 今日の出来事を記録しようと思って日記を開くと、去年の枠にあの人のことが書いてある。そっと紙の上に指を這わせると、ボールペンが刻んだ凹凸が伝わってきた。

 たった数行しかない罫線の、わずか十数文字しか割いていない。
「今日、一緒にご飯を食べた」
 寝る前の走り書きで、そう記されているだけ。そのあとはどうでもいい仕事の愚痴が続いている。

 もっとたくさん書いておけば良かった。もっともっと丁寧に、全てを記録しておけば良かった。なんで、こんな淡白な事実しか書かなかったのだろう。

 あの人と何を食べたのか。酌み交わした酒はなんだったか。待ち合わせは何時で、どこだったのか。外の気温は低かったか。どんな話をしたか。どんな表情だったか。楽しそうだったか、疲れているようだったか。別れ際の姿は。最後の言葉は。
 その姿も、声の質感も、まとう空気も、何一つ漏らさずに書き留めておくべきだった。こんなにも恋しく思うと分かっていたら。何時間かかろうとも、何日分の罫線を埋めることになったとしても、全部書いておいたのに。

 もう、記憶のどこにも残っていない、一年前のあの温かな時間。頭の中をどれだけ掻き回しても出てこない。夕食を一緒にとった、その事実以外には何も。

 自分の筆跡を、右から左へと撫でる。端まで辿り着くと、左から右に戻る。それを繰り返す。二度とこの手に掴めない、あの瞬間を求めている。

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