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さようならの予感

「むーちゃんとあと何回、桜を一緒に見れるんだろうね。」

毎年桜の季節になると、母親がそんなことを言う。
むーちゃんとは実家の犬で、実際は”むく”という。
今も元気いっぱいに生きているが今年で11歳。すっかりシニア犬である。

私は別の場所に住んでいるので、むくには毎日会うことができない。
とはいえ、時々一緒に散歩へ行く。その度に、あと何回こいつと一緒にこの道を歩けるんだろうと思っている。
あと何回、私を振り返って見てくれるんだろう、と思う。


春になると、別れの予感が私の中に満ちてくる。
桜はいつか散るし、この心地が良い日差しも、もうすぐ終わる。
春野菜はスーパーから消え、薄手のコートも着れなくなる。



1人暮らしのおばあちゃんに時々電話をすると、声が聞けて嬉しいと言って喜んでくれる。
通話の終わりに、おばあちゃんは必ず「忙しいと思うけど、また遊びに来てね。」と言う。以前は勤めていた絵画教室が祖母の家の近くだったのでよく立ち寄っていたが、今はそれもなくなって会う頻度が極端に減っていた。
私は心の中で何かを少し焦っていて、おばあちゃんとあと何回一緒にごはんを食べれるのかな、とか、あと何回私の名前を呼んでくれるのかなとか、そんなことを薄ぼんやり考えている。そんなことを考えながら、目の前のことに追われて動けないままでいる。

ずっと自分の中に何かの予感があって、それは今も昔もずっと私の側に影のようにつきまとっているわけだが、春になるとその影が一層濃くなるような、そんな感覚がある。


大好きな秋田のおじちゃんも、電話をくれるたびに「また遊びに来なさいよ〜」と言ってくれる。毎年、会いに行くよと言いながらなかなか行けていない。
おじちゃんと、シーズン外で誰もいない山に登って大きな滝を見た日のことを思い出す。帰り道の夕日がとんでもなく綺麗だったこと、車で走っていたら子グマに遭遇したこと、山道の路肩を猫がトボトボ歩いていて私が、可哀想だから連れて帰ろうと言ったら、責任を取れないことはしてはいけない、と言われたこと。普段は思い出さないそんなことを思い出す。


昔は家族のように一緒に暮らしていた人たちも、今ではどうしているかわからない。元気かな。元気で幸せだといいな。
優しい眼差しとか、言葉に甘えて、返事をせずそのままにしていたことへの後悔とか、逆に、言わなければ良かったことを言った日のこととか。
春になると、そんなことを思い出してしまう。

そしてこの、過去への哀愁みたいなものも、出会った人たちへ抱いている気持ちも、いつか全部なくなってしまうことや、忘れていってしまうことを思い出す。いつか全部消えていくんだから、全部どうでもいいと思いながら、同時に、何一つ手放したくないと思っている。

桜は散っていくから美しいって、みんなが言うように、わたしが愛したものや大切だと思っているものたちも、いつかそれがなくなった時に私の中で絶対に壊れない宝石みたいに、確固たる光の塊になるような気がしている。
それをどこか心の中で待っていて、だから、終わる予感や失う予感を、毎日怯えながら何度も何度も噛み締めているのかもしれない。



先日、思い立って近所の公園に花見へ行った。
たくさんの家族が、それぞれ小さなテントやレジャーシートを敷いて、桜を見ていた。
ボール遊びをする親子や、丘を転がりまわって芝生だらけのこどもたち、ぼんやりしている妹の面倒を見るお兄ちゃんや、息子と一緒に写真を撮るために一生懸命カメラをセッティングする父親の姿を遠くから見ていたら、無性に涙が出てきて、ああ、この世は最悪なことに溢れているけど、近くにこんな素晴らしい世界があったんだなと、桜どころではない情緒不安定な気持ちになったのだった。


春は大好きな季節だが、どうも心が不安定で、それは暑いとか寒いとかそういうことを考えなくていいから、こんなことを考えてしまうのかなとも思う。
とにかくずっと何かの予感がしていて、耳鳴りみたいにずっと微かに悲しくて、そのへんに咲いた花はとてもきれいで、たまらない気持ちになるのだった。


おわり


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