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ある絵描きの、折り合いがつかない感情についての記録

つい先日、久しぶりに強く抱いた感情があり、その感情について文章にして残しておこうと思う。かなり個人的なコンプレックスの話であり、同じような劣等感を抱いている人が他に居るのかも謎だが、へ〜こんな人もいるんやな、くらいの気持ちで読んでくれる方はお付き合いいただければと思う。

(*文章内に出てくる批判的な文言は全て私個人に向けられたもので、他者に言及する意図はありません。)



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私は、私が一番美しいと思っているものを決して作ることはできない。


それを一番強烈に実感したのは、大学4年の頃だったと思う。私は美術大学に通っており、それは4年次最後の講評会の日だった。

私は偶然ある生徒と同じ講評グループに所属しており、そこで初めて、4年間全く接点の無かった彼女の絵を見ることになった。

その絵は、仄暗い部屋の風景をモノトーンで描いた何枚かの絵であった。私は真っ白な壁にかかったそれを見たとき、自分には、到底こんなものを描くことはできない、と強く思った。自分は表現者として生きていく資格など初めから与えられていなかったのだ、と思い、自分が4年間描いてきた絵の無価値さを卒業間際に改めて強く実感した。



この頃の私は、アウトサイダーアート、アール・ブリュット、という芸術のジャンルに強い興味を抱いていた。その興味は大学入学時から始まっており、4年間を通して色々な講義や書籍、展示などで知識を深めていた頃だった。

それらを深く知れば知るほどに、このジャンルの芸術に興味を持った人たちなら誰でもぶつかる感情にも苛まれた。私は作品自体ではなく作家の精神状態や、健康状態、そういう付随情報を通して作品に魅力を感じているのでは?社会的弱者を安全圏から見て楽しんでいるだけなのでは?と。

しかし、彼らの作品をいざ目の前にした時はいつだって、そんな自意識は遥か彼方へと吹き飛んでいった。生きている人間たちの、ものづくりに対する欲望の塊で、殴りつけられるようだった。

学生の頃の私は、ひとつの欲望が凝縮されたようなその塊に、ものすごく憧れた。自分もそんな作品を作りたいと強く思っていた。



その仄暗い部屋の絵を描いた生徒は、心を病んでおり、病院に通っていてほとんど学校には来ていなかったことを後から知った。言われなくても絵を見れば、その影は容易に感じ取ることが出来た。名前も知らなかった彼女の絵をしっかりと見たのは、学生生活を通して、この卒業制作のみだったと思う。

その絵の前に立って、私は、私と彼女の間にある決して埋まることのない巨大な隔りを実感した。

彼女が私側に来られないように、私もまた、彼女側へ行くことは出来ない。それくらい途方もなく離れた、深く暗い溝であった。

美術館でもなく、図録の中でもない。同じ学校の同じ土俵に立ち、自分の作品と彼女の作品を並べて、私はようやく理解した。私が、憧れているものたちからどこまでも遠く離れた場所に立っていたこと。そして、当時の彼女は、限りなく私の憧れに近い場所にいたこと。

最後の講評後の打ち上げで、なんとなく私がその気持ちを吐露した際、当時の教授に言われた言葉を今でも思い出す。

「いや、お前とあいつは全然違うじゃん、比べようがないだろう」

その通りだった、私と彼女は比べられるような場所にいない。それは明白だった。

でも当時の私は、彼女のような作品を作れる人に心からなりたいと思っていたし、自分自身もいつかその憧れに近づけるのではないか、と思っていた。その淡い期待が打ち砕かれた瞬間だった。




つい先日も、似たような感情を抱く出来事があった。

インドネシアの中部ジャワの山村で、ある村人に出会った。彼は普段は農業をやっており、作家としても地元では名の知れた人だった。

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彼は虫のモチーフをいつも作品に取り入れており、ジャワの伝統文化と自分独自の表現を混ぜた作品を作っていた。仮面や、ワヤンという影絵芝居に使われる牛皮でできたパペット、踊りの衣装や振り付け、その全てを自然や虫のモチーフで表現していた。それは、彼にとって至極自然な流れで辿り着いた表現の形だったろう、と思う。彼は美術を学校で勉強したことはない。生活の一部として、習慣のように作品制作が続いているように見えた。


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彼は、害虫と呼ばれ薬品で駆除される虫たちの叫びや、綺麗な水にだけ集まるトンボたちの美しさ、食物連鎖、人と自然との共生、そういったものを伝えたいのだと言っていた。

農家の息子として生まれ、ジャワの伝統文化と植物や虫たちに囲まれて育ったからこそ、自然を慈しむ気持ちを表現したいと思うこと、そのような表現が生まれることの当然さ、過不足の無さに、私は何とも言えない感情に包まれた。

それは、感銘と、羨ましさと、悔しさと、憧れを、ぐちゃぐちゃに混ぜたような感情だった。


山奥の村で、彼は畑を耕し、ものづくりをしている。生きること、食べること、ものを作ること。それらが綺麗な円でつながっているような、そんな感じがした。彼の人生の、自然な流れの中で生まれた表現者としての姿に、私はひどく憧れ、そして嫉妬した。

卒業して4年が経った今でも全く同じ感情に苛まれている。ああ、私はこの先、あと何回こんな気持ちにならなければいけないのだろう。彼から話を聞いている間、自分が惨めで少しだけ涙がでた。




では、私自身も病めば満足できる作品を作れるのでは?自然の中で自給自足の生活をすればいいのでは?そういう問題ではないのである。私が何をやっても所詮真似事にしかならない。今までの人生、生活、人間関係、その過去の全てを変えなければ、私は私が憧れているような純粋な表現に到達することはできない、と直感した。

自分の求める表現を生み出すために環境や状況を選ぶことと、置かれた環境の中から自然発生的に生まれてくる表現は、全く違う。

幼少期から海外の都市を転々とし、都会的な文化を愛し、美術教育を受け、美大出身という肩書を得た私では、彼らと同じ視点で、同じような純粋さでものをつくることができない。

当然のことだ。しかし、私にとってその事実は、私が彼らに抱く憧れを加速させた。


自分が決して作れないものを作っている人たちに、私は心からの魅力を感じている。隣の芝は青い。無い物ねだり。それだけのことであるが、それだけのこと、と思って無視できるほど、どうでもいいことだとは思えない。私にとって、その芝はあまりに青く、生き生きと魅力的に見える。自分の芝が、色を持たない枯れ草に見えてしまうほどに。



私は都会で生まれ、都会で育ち、かなり都会的な価値観や生活スタイルの中で生きてきたと自覚している。家族関係や人間関係も良好で、好きなものを好きな時に買うことができ、遊びたい時に遊び、学びたい時に学べる、そういう恵まれた環境下で生きてきたと思う。私がこの環境の流れに身を委ねていたら、今頃社会人としてどこかの会社で働いていたかもしれない。私の同級生たちのほとんどがそうしているように。私の今までの人生を年表にしたら、表現者になる、という行為は極めて不自然で、異質な結果だと思う。

この不自然さは、私のコンプレックスでもある。私には選択肢があった。だからこそ、そうせざるを得なかった人たち、人生の自然な流れの中で表現者として生きることを選択できた人たちに、強い憧れを抱いているのだと思う。

しかしながら、自分の人生を後悔したことは一度もない。生まれる国も性別も、育つ環境も、選ぶことは出来ない。私はたまたま日本に生まれ、大都会で育った。満たされた小さな世界の中で私は、考え、学び、選択しながら生きてきた。その集積が今の私だ。

そう頭ではわかっていても、自分の歩んできた人生と、自分が魅力的に思うものたちとの間にある、果てしなく巨大な溝を、私はこれからも無視することはできないだろう。

その大きな境目の向こう側にあるものは、私にとってすごく魅力的で、でも決して自分のものにすることはできない。それがよくわかる。

手に入らないからこそ、より輝いて見えていること。それもわかっている。

わかっていても、憧れは消えない。私は、この感情と一生折り合いをつけることはできないのかもしれない。


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こんなにも長々と文章に書き記せるほどの劣等感に苛まれながら、私はなぜ懲りずに絵を描き続けているのだろう。思い返せば、幼稚園の頃から今まで、自分よりもよっぽど特別で、表現者としての資格(本当はそんなものは実在しないんだけれども)があるような人が必ず周りにいた。1番になったことは一度もない。そんな中にいても、どんな負の感情に心が支配されていても、ものを作りたいという欲望が消えない。

この根源的な欲望だけは、幼少期から変わらない私の中の唯一確かな気持ちだ。

これが消えない限りは、一喜一憂しながら、何かを作り続けて生きていくのだと思う。



今回この感情を言語化することにしたのは、ジャワの村人に出会い、久しぶりに自分の腹の底に根付いた劣等感の存在を、強く思い出したからだ。

この正直な感情を記録することが、結果的に何になるのか自分でもわからないが、向き合わなければならない痛みだと思った。



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