小説《缶珈琲》最終回
ep.11 缶珈琲
大きな中庭の真ん中に立つ桜の蕾が、少し膨らんでいる。
もうすぐそこに春がやって来ているというのに、パラパラと雪が舞い始めた。
僕は今日、卒業式を終えた。
屋根の下に設置されたベンチに座って、大きく吐いた息が、白くふわっと雲がかった空に流れていく。
サッカー部の友人達と最後の挨拶を交わし、帰ろうとしていた所を絵麻に呼び止められた。
中庭の桜の木の下で、絵麻との間には感じた事のない、でも僕の知っている空気を感じ、いつもの自分をしまった。
絵麻は、ずっと隠してきた想いを打ち明けた。
冷たい風が僕らを撫でて、しばらく、桜の葉がカサカサと音を立てていた。
僕の音澄への気持ちを知ってて、今日まで、彼女はどんな気持ちで僕らと過ごしていたのだろう。
神様はどこまでも残酷だ。
僕も、音澄も、絵麻も、一方通行にしかならなかった。
神様のいたずらで、苦い恋を味わいながら、僕らはお互いに、目に見えないものを必死に守ってきた。
それでも、応えなくてはいけない。
僕は誠心誠意応えた。
絵麻は、抜けられない暗闇から解き放たれたような笑顔を向けて、ありがとうと言った。
涙も流さなかった。
さようならと言われなくて良かった。
そう思ってしまう僕は強欲だろうか。
心の落ち着きを取り戻し、そろそろ帰ろうと立ち上がった時だった。
「この薄情者。私への挨拶もなしに帰るわけ?」
逃げようと思ってた相手に見つかってしまった。
「別に永遠の別れなわけじゃないだろ」
「そうだけど、会える頻度減るんだから、三年間ありがとうくらい言い合っても良いじゃん」
音澄はむくれた顔をしながら、僕の隣に座った。
「何でここにいるって分かった?」
「絵麻に聞いた」
落ち着き始めていた心がまたざわつき始める。
「そうか」
「あと、絵麻の気持ちも聞いた」
「うん」
「陽向は断ったんだね」
「うん」
「そっか」
絵麻が、僕の背中を押している。
音澄がここに来た事がそれを伝えている。
逃げるわけにいかなくなった僕は、深呼吸をして、音澄に問う。
「俺の秘密も聞く?」
「うん」
「音澄を困らせるかもしれないよ」
「うん。大丈夫」
「分かった」
僕は立ち上がって、音澄の前に跪いた。
下を向いていた音澄が、ゆっくり視線を僕に移す。
音澄も、絵麻も、向き合って前に進んだ。
僕だけ立ち止まるのは、格好悪過ぎる。
「俺は三年間、音澄の恋を心の底から応援してた。それだけは嘘じゃない。信じてほしい」
「うん」
これで、全て終わるんだ。
「俺は、音澄が好きだった。今も、好きな気持ちは変わってない」
「うん」
「音澄が兄貴を好きだって知る前から、ずっと好きだったんだ。だから、音澄が兄貴を好きだって分かってから、男友達の立ち位置を死守しようって決めたんだ」
「そんな前からだったんだ…。ありがとう」
「うん。それと、音澄が描く絵も好きだった。絵が見たくて、美術室に行く口実を何個も作ってた。気持ち悪いだろ?」
「あと一歩で危ない人だね」
音澄が少し笑う。
「そんな事ないよとか言えよ」
僕も音澄の顔を見て笑ってしまう。
雪がやんで、冷えた空気に薄く日が差し込んだ。
「音澄の個展の絵も、兄貴へのプレゼントに描き直した絵も、音澄の性格が出てて、俺は本当に感動したよ。好きな人の幸せが自分の幸せになるって、美しい考え方が出来る人を好きになれて良かったって思った」
「うん」
音澄の目に、涙が溜まっていく。
「俺は、音澄が好きだ。これからも、友達としてずっと好きでいるし、音澄の幸せも願ってる。何があっても、味方でいるって約束する」
「うん」
「だから、この先も、友達でいてくれないか?」
音澄は、涙を隠すように両手で顔を覆って、首を横に振った。
「そっか。そうだよな」
「違うの!違う、そうじゃなくて」
音澄は涙を拭いて、僕の制服の襟を両手で掴み、僕の目を真っ直ぐに見た。
僕は、彼女の言葉を待った。
「私、確かにずっと旭さんが好きで、本当に大好きで、付き合ってみたかったし、遊びに行ったりしたかった。でも、心春さんの存在知って、色々空回りして、そういうピンチの度に陽向が現れて、私を救ってくれてたって、気付いたの」
「うん」
「私、私も、陽向が好き」
「え?」
「だって、そりゃ好きだよ。三年間ずっとそばにいてくれた大事な人だもん。でも…」
「でも?」
音澄は襟から手を離して、また下を向いた。
彼女の大粒の涙が、制服のスカートに消えていく。
「私は、絵麻も大切なの」
「うん」
「私はずっと二人を巻き込んで自分の事ばっかりだったのに、二人の気持ちも気付かずに、私だけ勝手に幸せになるわけにいかない」
「どうして?」
「そんなの自分勝手過ぎる。こんな自分嫌い」
僕は、震える音澄の手を両手で包んで、ゆっくり握った。
「分かった。応えるのは今すぐじゃなくていい。これから先、応えられなくてもいいよ」
「え?」
「俺は、きっと絵麻も、音澄が幸せになれるならそれで良いんだ。その相手にもし、俺を選んでくれるなら、俺は喜んで音澄を幸せにする」
「なんで?そんなの私だけが…」
「音澄が、それくらいの温かさを俺らに今までくれたからだよ」
音澄がまた、僕に視線を移した。
「絵麻は、音澄のおかげで独りぼっちを抜け出せた。俺は、しんどい時、音澄の明るさに助けてもらった。音澄は、人の幸せをいつだって願って行動出来る人だ。だから、俺らは、音澄に幸せになって欲しいんだよ」
僕は、鞄の中から缶珈琲を取り出して、音澄に渡した。
「俺、本当はこの缶珈琲苦手なんだ」
「そうなの?お気に入りって言ってたじゃん」
「うん。嘘。音澄が好きだって言ってたから、試してみたくて飲んで、でも苦くて、だからって飲めないって言うのも格好つかないと思って、無理矢理飲んでた」
「私の事言えないね」
「ははっ、うん、そうだよ。音澄がキャラメルマキアートを選んでたのも、俺が缶珈琲選ぶのと一緒だったんだよな」
「そうだったんだ」
「ね。俺、本当はすっげえダサくて、ただ兄貴を超えてみたくて、音澄に良く見られたくて着飾って、特別優しくして、騙してそばにいた。俺も自分の事でいっぱいだったんだよ」
泣いていた音澄に、笑顔が戻ってくる。
「音澄に出会えて、それだけで今は十分だ。だから、大丈夫」
「うん」
「三年間、ありがとう」
「私も、陽向と出会えて良かった」
「これからもたまには会おうよ。三人でさ。ドリンクバー会しようぜ」
「もう少し洒落た所にしようよ」
音澄が笑いながら言う。
僕が立ち上がると、音澄もゆっくり立ち上がって背を向けた。
「陽向の気持ち、聞けて嬉しかった。でもやっぱり、まだ応えられない」
「うん」
音澄がゆっくりと振り返って、僕と向き合う。
「でも、私は二人とずっと友達でいたい。これからも、こんな私だけど、そばにいて欲しい。良いかな?」
「もちろん」
「ありがとう。陽向」
音澄が右手を差し出す。
その手を取って、僕らは強い握手を交わした。
「私、絵麻置いてきちゃったから、教室に迎えに行ってくる」
「そうか。俺はこのまま帰るよ。絵麻に、ありがとうって伝えて」
「うん」
「それじゃ、またいつか。連絡するよ」
「うん。私も、連絡する」
走っていく音澄を見送って、僕はもう一度ベンチに座り、もう一つ鞄に入っていた缶珈琲を取り出した。
『私、この缶珈琲好きなの』
三年前、このベンチで、そう絵麻に話をしていた音澄の声が聞こえる。
盗み聞きから始めたこの缶珈琲が、いつしか僕らを繋げていた。
二つずつ買い続けた最後の缶珈琲は、音澄と僕と二人、一つずつの缶珈琲になって、苦くて甘い青春の味になった。
僕は、勢い良く缶珈琲を開けて、一気に飲み干した。
きっと僕は、この缶珈琲を見つける度に、この恋を思い出す。
~完~
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